【vol.123】“卒論っぽい!テーマ“を目指さなくていい(5~6期生 まゆ)

まゆです!今回は卒論のあとがきをブログに綴りたいと思います!

私は、 『一時保護所のエスノグラフィ―児童福祉の最前線で働く』というタイトルの卒論を書きました。一時保護所?エスノグラフィー?何?って感じですよね笑 ダラダラ説明しても卒論の中身とダブってしまうので、興味があれば是非卒論読んでみてください!

今回は、①松岡ゼミについて②卒論のテーマ決めについて③なるようになるさ!の3本立てでお送りします。

私、山本真由は元々松岡ゼミ5期生でした!1年休学したので今は6期生ということになります!ですので、5期生の時にvol.63でコロナ禍のキャバ嬢についてブログ書いてるまゆと同一人物です!

と、いうように2年生から松岡ゼミでお世話になっているのですが、当初の研究対象は夜の世界でした!バーテンダーをしていた経験があった私は、夜の世界を間近で見る機会があり、興味を持ち研究し続けました。しかし、コロナ禍でのSNSやYouTubeの活用の発達によって、夜の世界のイメージアップが私の卒業論文完成を待たずして達成されてしまい(涙)「卒論のテーマ変えたいな〜」と休学中から思っていましたw

休学中にも色んな経験をし、(思い立ったらすぐ行動!)それが裏目に出てしまうこともありました笑

プログラミング覚えたい!→極度のイラチのためエラー画面出る度に何回パソコンを壊しかけたか。。。
プログラミングじゃなくてしたかったのはデザインだ!→Webデザイナーうじゃうじゃいるし、みんなと同じことしたくない。。。
UIUXデザインおもしろそう→ポートフォリオまで作成し、様々な会社に持ち寄るも営業になりませんか?とコツコツ型のクリエイター向きではないと適性検査で出てしまう。

まあ、見ての通り思い立ったらすぐ行動!をしたおかげで1年間充実した休学ライフは楽しめました(ノリと勢いで台湾留学行かなかったのは正解でしたw)

4回生に上がる前に就活しないと!と思い、就職活動するもののあまりピンとくるものはなく。。。休学中も度々研究室にお邪魔して松岡先生に相談乗ってもらったりもしました笑

最終結論として、社長と1番空気感が合うなと思ったコミュニティディベロッパーの会社に就職する予定でした!そう、過去形ということは辞退したんですよね笑

辞退しようと決めたのも後期が始まる頃で、(ここでやっと卒論との関連性が浮かび上がるのですが)当時、先輩に誘われて参加した児童福祉のボランティアに完全に心を奪われてしまい、「次これしたいと思ってて…」と松岡先生に相談。この言葉を松岡先生は何回聞いたことでしょう笑 本当に私は、よく言えば“好奇心旺盛”悪く言えば“飽き性“でして。。。松岡先生以外のゼミだと受け入れてくれてなかったんじゃないかなと常々本当に感謝しています!本当にです!

話を戻します!要約すると、興味を持ったジャンルが“児童福祉”だったので、他大学に編入し大学院へ進学することに決めました!

私にとって、やっと「これだ!」と思うものに出会えたので本当に嬉しくてやりがいを感じています。

①松岡ゼミについて
松岡先生は、私の大学生活において必要不可欠な存在だったと思っています!2年生の時に松岡ゼミに配属されて本当に良かったです(当時は今のように2年生の段階では学生がゼミの先生を選べませんでした笑 完全に運ゲーです!)私は大学で友達が多いタイプではありませんでした。しかし、松岡ゼミはとにかく雰囲気が良く個性的な子の集まりなので自然と打ち解けることができました!(と思っています笑)松岡ゼミに所属している人もそうでない人も、是非研究室に立ち寄ってみてください!研究以外の相談も快く聞いてくれることでしょう!

②卒論のテーマ決めについて
テーマが確定したのも、後期に入ってからでした。なので、急ぐ必要はありません!あ、もちろん、早く決まるに越したことはないですよ笑(その分たくさんの研究ができると思うので)ただ、1番私が大切だなと思うのは本当に書きたいテーマであるかどうかです!卒論は調べて調べて調べて調べまくる作業がわんさかあります。興味が著しくないと卒論作成が苦痛に感じると思うので、“卒論っぽい!テーマ“を目指さなくていいと思います(それはこのゼミだけかも…?)

③なるようになるさ
4回生は、卒論に単位に就活やその他の進路𝐞𝐭𝐜…考えることやするべきタスクが山のようにあると思います。私も、1人でテンパってわちゃわちゃしている中ではありましたが(苦笑)自分らしい進路を見つけることができました!絶対になるようになるので諦めないでください!

もうほぼ卒論のあとがきじゃないやん!て思ったあなた。私も思いました☺笑
私から後輩に伝えたいことは以上です!ご清聴ありがとうございました!

(6期生 まゆ)

【vol.101】卒論あとがき(5期生 にっこう)

松岡ゼミ5期生のにっこうです。
卒論を書き終え、今の気持ちを綴っていこうかなと思います。長くなりますが、お付き合いいただければ幸いです。

私は、「“ぽっちゃり”女性の差別と受容ーボディ・ポジティブを超えて」というテーマで、大きく問いを4つ設けて執筆をおこないました。問いは、「現代の身体観がどのようなもので、それがどのように形成されているか」、「多様な身体を受容しようとする動きがどのようになされているか」、「身体受容を求める動きから、どのような問題が新たに生じているか」、「個人が自由に身体の選択を求めることは可能なのか」という4つです。この問いを基に、文献調査やアンケート、インタビュー、メディア実践を通して研究しました。

この研究を始めたのは、大学2回生の前期くらいでした。幼い頃から肥満体型で、周りから揶揄われ、言及された経験が数えきれないくらいあります。そんなことから、そんな差別が含まれる扱いを認める風潮や、画一的な体型のみが評価される社会に疑問を感じていました。しかし、日本における肥満や、それに関連するテーマでの先行研究がありませんでした。厳密にいうと社会学の観点での研究がなく、「病」としての研究がおこなわれてきました。その時の私は、「どうせ研究するなら、誰もやったことないテーマのほうがおもしろそう」なんて考えて、少しずつ調査を進めていきました。

研究当初は、肥満差別に焦点を当て、肥満体型をはじめとした多様な体型を認めようという運動のみを取り上げていました。振り返ると、いかに肥満が差別され、かわいそうな存在であるかという、被害者意識が大きかったのではないかと思います。体型を認めようという運動では、「ボディ・ポジティブ」を取り上げてきました。この運動で掲げられているのは、「ありのままの体型を愛そう」というものです。社会における肥満者のエンパワーメントをはかろうとし、近年ではSNSを中心に関心を集めていました。私が当運動に出合った際、とても素晴らしいものだと感じていました。そして自身でもSNSを通して、ボディ・ポジティブにまつわる発信を始め、そのSNS発信に対する他者の意見や行動を分析することを目的としていました。具体的にはTwitter、YouTube、note(ブログみたいなもの)、とあるサイトに寄稿といったものです。名前や顔といった個人が特定される情報を明かさず活動してきました。

最初に行き詰まったのは、「受け入れられなさ」でした。少し前でも述べたように、この研究や活動当初は被害者意識が潜み、そもそもボディ・ポジティブ自体、社会や現在の考えを批判することが前提ということから、ボディ・ポジティブに対する批判が生じていました。当時の私は、肥満が差別される、言い換えればボディ・ポジティブを認めないことは悪いことと考えていました。この考えがにじみ出ていた間は、自身のSNS発信に批判的な意見をいただくこともあり、そのたびに悩み、研究や活動が停滞してしまいました。また、他のボディ・ポジティブ活動者のように、いまいち自分の身体が好きになれませんでした。他人にボディ・ポジティブを勧めるのに、自分は痩せたいと思ったり、現在の体型に関してポジティブになれないことに罪悪感を覚えました。SNSや他人の前ではそのような部分は見せず、しかし内面はネガティブという乖離に苦しみました。ボディ・ポジティブが他人に受け入れられにくい、また自身が受け入れられない、という「受け入れられなさ」に行き詰まりました。

その後、新しい考えに出合いました。それが「ボディニュートラル」です。これは「無理に自身の身体を愛さなくてもいい」と掲げられています。自身の身体に対して、ネガティブな感情も仕方ないと受け入れ、自己肯定感の向上を目的とするものです。この考えを知ってから、少しずつ変化が生じてきました。直近のSNS発信では、ボディニュートラルについて取り上げてきました。以前と閲覧者、再生数は変わらないものの(むしろ増えました)、批判的な意見が減少し、肯定的な意見だけでなく、視聴者の体験や考えを書き込み、それに対して他の人が会話を広げていくといった動きが見られます。ボディニュートラルは、ネガティブな感情も仕方ないと受け入れようとしますが、自身を見捨てるわけではありません。「社会を変える」というボディ・ポジティブとは違い、「自分がいかに社会で生きやすくするために」というところがボディニュートラルの特徴です。

活動を通して気づいたことは、大きな強い意見をぶつけると、同じくらい反発意見が跳ね返ってくるということです。例えるなら「北風と太陽」、「返報性の法則」みたいな感じです。これは研究以外でも、普段の生活でも言えるんじゃないかなと思います。でも意見をきちんと伝えるのも大事なんですよね。今回の活動に関していうと、両方やってみてよかったなと思います。あらゆる視点で見ることによって、盲目的になっていた部分に気づかされることもたくさんあります。

私の研究では、やりたいこと全てやりきったなと思います。コロナ禍で行動が制限された中で、調査方法も変更しました。もし行動が制限されていなかったら、SNSの発信というメディア実践や、複数人を対象にしたインタビューもしなかったかもしれません。従来と異なる困難な場面でも、悲観しすぎず、その環境の中でやってみるしかないんだなって思いました。研究に正解はないので、自分の最適を見つけることも重要だなとも気づきました。

大学4年間の生活や研究を通して、ある種の「自己分析」だったなと思います。そうです、就活でよく聞く「自己分析」です。ささいなきっかけから始めた研究が、自分の生き方に影響を与えるなんて思ってませんでした。こんなに時間をかけたのは今までないし、この学びを忘れず、今後も頭の片隅でずっと考え続けたいと思います。

これから研究をしようと考えている人、卒論書き始めなきゃと思っている人に向けてお伝えしますね。それぞれテーマや興味関心は違うとはおもいますが、ただ事例や調査、分析をまとめるだけでなく、少し自分の感情にも向き合ってほしいなと思います。それを卒論や発表にしてもしなくても、「自分と向き合った」ということは、今後どこかで生きてくるし、一生の財産になると思います。向き合うのはしんどいし、時には嫌になると思います。休みながらでも良いので、今の自分と向き合ってみてほしいな。

最後に、松岡先生をはじめ、ゼミの同期生、研究でお世話になった方々、奈良県立大学で出会った方々に感謝申し上げます。研究だけでなく、何かに挑戦しようとした時は否定せず応援してくれたり、一緒に悩み、思いを共有することができたのは良い経験でした。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

みなさんの道が明るいものでありますように。

(5期生 にっこう)

【vol.100】卒論完成までを振り返ってみた。(5期生 りょうか)

私の卒業論文のテーマは「ヘアカラーをめぐる社会規範と多様性への道―なぜ日本では黒髪がよしとされるのかー」です。まあ難しい言葉を並べてそれっぽくなっていますが、内容としては、ヘアカラーって身近になってきてるよね、でもいまだに明るすぎたり派手すぎたりすると社会に受け入れられないことが多いよね、なんでだろう、ということを社会学的に論じたものです。

卒論の始まりって、ほんとうに自分が普段興味があって、疑問に思っていることでいいんだと思います。実際に、私も2回生の時にふと感じた疑問で卒論までたどり着けましたし、松岡先生もよく「卒論はやらされながら書くものではない」とよくおっしゃっていました(うろ覚えですが、、、)。

私がなぜ、このテーマにしたかと言いますと、私が小学生のころまで遡ります。私の地元は少しやんちゃな子が多いのです。そのためかはわかりませんが、小学校の頃から周りの友達は、髪を染めている子がたくさんいました。また、母親も私が物心ついたころからブリーチをしていました。私のヘアカラーデビューも小学校3年生です。この環境の中で育ったため、ヘアカラーに対して何の印象も抱いていませんでした。ところが、小学4年生の時、親から「中学校に上がる前に染めるのやめて地毛に戻しや」と言われ、なぜ?と思いつつも言う通りにしました。中学校に上がり2年生になった頃、外練のときに部活の顧問から「髪の毛茶色いなあ、これあかんで」と言われました。中学生になってから染めてはなかったが、指導されるのが嫌で不服ながらも黒染めをしました。高校生になると頭髪検査で引っかかるようになり、卒業までに黒染めを2,3回しました。

この頃から、髪色に関する校則に対して疑問をもちました。また、アルバイト先を探していても髪色に制限があるところが多く、学校だけでなく社会でも制限があるということに改めて気がつきました。
大学に入って、たくさんのヘアカラーにしました。赤、オレンジ、ピンク、黄色、緑、青、紫などなど。原色に近い派手な色にすると周りからの言葉は「似合ってるね」ではなく、「すごーい」「派手やなあ」とちょっと喜んでいいのかわからないような言葉を言われるようになり、「ヤンキーみたい」「こわい」とも言われたりしました。

長くなりましたが、これが私の卒論テーマの背景です。生活の中で少し感じた違和感で卒論が書けるのです。少し卒論の壁が低く感じますよね。私も振り返ってよくこのテーマで最後まで書ききれたなと思いました。それは、もちろんゼミ生のみんなと松岡先生の協力があってこそ成し遂げられたのですが(本当に感謝でいっぱいです)。

卒論を進めていくうえで、多くの情報を集めることや松岡先生、ゼミ生のアドバイスは、気付く点も多く学びになる点も多いので、自分自身の思考の成長になります。さらに、ゼミ中に他の人のテーマに対して、みんなや松岡先生が助言していることでさえも自分自身のテーマに結びつくことがあるんです。これは、大発見でした。社会学はとても幅広いものです。なので、ゼミ生のみんなのテーマもばらばらで知識もないので、2,3回生の頃のゼミの他の人の発表は、聞くだけの時間でした(すみません)。しかし、4回生になり就活もあってか私の気持ちがなぜか変わりました。なぜかです。なぜか、どんなことでもとりあえず口に出そうと心変わりしました。それから、ほかの人のテーマを自分のテーマと同じように考え、他の人に対するアドバイスや意見も自分に言われているように聞いていました。すると、驚くことにほんとうに自分のテーマと結びつくことがあるのです。自分のテーマと結びつくことがあると、他の人のアドバイスにつながったり、自分のテーマに対して新しい発見ができたりしました。松岡先生がずっと全員での研究発表にこだわっていたのはこういうことだったのかなと。

自分の心変わりのおかげで、その後のゼミも楽しくより集中した濃い時間となり、研究も新しい視点から詰めることができ一石二鳥でした。

何が言いたいのかというと、ゼミの時間はとても貴重です。
卒論を完成させるうえでも自分を成長させるためでも。
どんな話も自分のためになります。あと、メモもめっちゃ大事。
ということが卒論を通して学べたことの一つです。

卒論を書き終えて、いざ、どうだったかなと考えてみると、意外となんとかなったなというのが率直な感想です。でも、書いた卒論を読み返すと3年間の地道な調査や松岡先生やゼミのみんなの手助けをしっかり感じます。ああ、自分頑張ったなって思えます。大変だったけど、その分達成感もすごくて、卒論かけてよかったなという気持ちです。

何はともあれ、同期のみんな卒論お疲れ様!
先生方もお疲れ様です、ありがとうございました。
後輩のみんな、がんばれ!

(5期生 りょうか)

【vol.99】松岡ゼミのみなさんへ(5期生 ぽん吉)

みなさんお疲れ様です。毎年松岡ゼミでは、卒論を書き終えた後、卒論後記のようなものをブログにしたためるようなのですが、卒論に取り組んで得たもの等については、すでに過去の卒業生たちが当該ブログにおいて、各々の思いを綴っており、卒論の構成等についても、松岡先生から懇切丁寧に指導していただけるので、僕から中途半端にみなさんへお伝えすることは、情報の齟齬を生み出しかねないため、今回は控えたいと思います。

では、何を書こうかなと思ったのですが、後輩たちにバトンを渡すという名目で、基本的に構成は自由とのことなので、僕は他の学生とは少し異なる立場にいたため、その立場から見えてきたものをここに綴ろうと思います。

僕は大学生活のなかで最重要事項である「就活」をしたことがありません。というのも、僕は大学3回生の時に内定をいただき、4回生より学生と社会人の2刀流で過ごしてきました。これは奈良県立大学創立以来初らしく、いやはや人生とはなにが起こるかわからないものですね笑(このブログも仕事のお昼休みに作成しています笑)。

世は人類と新型コロナウイルスの闘いの最中にあります。僕たち大学生に与えられたこの4年間は、長い人生の中で唯一、自由に時間を使える期間にあたります。それなのに、新型コロナウイルスの影響により、僕たちの行動は大きく制限され、僕自身も自宅で映画を見たり、本を読んだりと、のんびり過ごしていたのですが、少しずつ暇になってきました。そこでなんとなく、暇つぶし程度に、「ES」なるものを採用試験に提出したところ、そのままとんとん拍子に内定までいったので、「就活」をしないまま、急遽、社会に飛び出すこととなりました。

未だに僕自身、なぜこのようなことになったのか、皆目見当もつかないのですが、最近感じることは、あまり物事を深く考えても時間の無駄だということです。2,3回ほど面接試験があったのですが、僕は特に何も考えず、思ったことをそのまま面接官に伝えていたのですが、周りの就活生は、まるでロボットのように、あからさまに丸暗記してきたテンプレのような受け答えをしている人たちばかりでした。おそらく、長い時間をかけ、懸命に考えたテンプレだったと思うのですが、あまりにも全員が同じような内容を話していたため、少し驚きました。案の上、それがマイナスだったのか、その人たちは内定式にはいませんでした。内定を辞退したとも考えられますが、不採用だったとするならば、あまり気負いせず、肩の力を抜いてこなした方が、案外うまくいくのかな?と思いました。

僕は昔から、あまり物事を深く考えません。他人が自分をどう思っているのか、自分がどのように評価されているのかなど、あまり興味がありません。間違いや失敗も数え切れないくらいしてきましたが、それが死に直結するわけでもあるまいし、人生は長いので、どうとでもなると思っています。

しかし、多くの人はそのように考えないようです。同調圧力に流され、自分の考えもろくに言えず、周囲の目を気にする人が大半なようです。僕からすれば、そのような思考は、人生疲れるだけで終わりそうで、つまらないように思います。人は1人では生きていけないですが、自分の人生は自分だけのものです。一世を風靡した大人気作品「鬼滅の刃」においても、某キャラクターが主人公に対して、「生殺与奪の権を他人に握らせるな!」と言い放ち、名台詞とされていますが、これは現代の物言えぬ人々に対する発破として僕は捉えています。

このブログを読んでくれているみなさんはどうですか。生殺与奪の権を他人に握らせてはいませんか。僕は少数派ですし、全く優秀なわけでもなく、人より何か秀でている才能があるわけでもありません。ですが、誰よりも自由に過ごした大学生活でした。そして、これまでの人生で後悔したことは一度もなく、もちろん、この大学生活も非常に満足のいくものでした。みなさんにも、そんな充実した、楽しい大学生活を送っていただきたいです。

奈良県立大学の学生のなかには、自身が思い描いていたキャンパスライフとはほど遠く、学舎は良い意味で趣があり、学生数は少なく、学食のメニューも限られており、他大学と比べ、劣等感を感じている学生もいるでしょう。実際、僕の知り合いにも、そのような劣等感を抱えている、いわゆる意識高い系の人たちは数人いました。ですが、そのような学生ほど、ただ意識が高いだけで、特別な能力があるわけでもなく、自身の身の丈にあっていない理想論ばかり語る、プライドの高い、面倒くさい奴であることが多いです。

「住めば都」と言うように、他大学と比べるのではなく、自身の能力で入れた大学が奈良県立大学であった事実を認め、そこで出会った仲間と楽しく過ごすことの方が、よっぽど大学生活は有意義なものになると思います。たしかに、奈良県立大学は駅で駅員さんに場所を聞いても、奈良大学や奈良教育大学の場所を教えられる位に知名度はなく、就活でも、特段有利ではないと思います。

しかし、そんなことを気にしても時間の無駄です。学歴がイマイチでも、人生なんとかなります。職種等を選ばなければ、何かしらの仕事には就けるので、人並みの生活は営めます。なので、人生あまり深く考えず、今を楽しんでください。変なプライドは必要ありません。こんな僕でも、学生と社会人を両立できるのですから、みなさんも、きっと今以上に自由で、楽しい大学生活を過ごすことができるはずです。

こんな感じで、割と真面目にブログを書いてきましたが、僕の卒論が気になるという方がいれば、松岡先生が作成される卒論集を見てみてください。割と真面目に執筆しました笑。

そろそろお昼休みも終わるので、今回はこのあたりで締めくくりたいと思います。それではまたどこかで。

(5期生 ぽん吉)

【vol.98】私のテーマには「問い」が足りなかった(5期生 K.O)

私が書いた卒業論文「コーヒー文化の社会学ーコーヒー1杯の理不尽さと非再現性がもたらす探求心」は、なぜ、コーヒーが文化になりうるのか、なぜ、人々がそこまで惹かれるのかをあらゆる観点から明らかにしていく論文です。何より私自身がコーヒーに魅了されていて、そのワケを社会学という観点から解き明かしたかったのです。

このテーマが決まったのは、10月頃だったと思います。提出の数か月前です。

それまでも、自分の好きなものを研究対象にするものの、研究が進まない日々でした。

松岡先生にテーマを変えようと思うと相談したところ、自分がどういったことに対して疑問を感じるのか、憤りを抱くのかなど、「問い」の根源を一緒になって考えてくださいました。そこで決まったのが「コーヒー文化の社会学」です。「ピッタリだ!これなら書ける!」と言ったのを覚えています。

好きだのどうのこうのだけでは、研究にはなり得ない。

「問い」があってはじめて研究になるのだと実感しました。

それまでは、「問い」が思い浮かばなかったのですが、コーヒー文化というテーマに関しては、あれはなんでだろう?これはこうじゃないか?と「調べたい・書きたい」ことがようやく出てきました。遅かったですね。

頑なに自分の好きなものをテーマにしようとした私に、「問い」を探すヒントをくださった松岡先生、そして発表時に感想や意見をくださったゼミ生のみなさんには感謝しかありません。今後も、好きなものがなぜ好きなのかを問うてみることを続けようと思います。

(5期生 K.O)

【vol.97】卒業論文を終えて(5期生 あゆみ)

私は、「恋愛リアリティーショーの社会学―なぜ恋愛を観察するのかー」というテーマで卒業論文を書きました。論文では、テレビ離れや恋愛離れが進む一方、人気が止まらない恋愛リアリティーショーという新ジャンルの恋愛バラエティー番組に焦点を当て、視聴者が自分事ではない他人の恋愛になぜ関心を持つのか、恋愛離れという言葉をよく耳にするようになった反面、「恋愛リアリティーショー戦国時代」と言われるまで、多種多様な恋愛リアリティーショー番組がなぜ普及し続けるのか、といった問いを、様々な観点から探究し、恋愛リアリティーショーを社会学的に考察しました。

1、2回生の私は、3回生のゼミを選択する直前まで、自分が何に関心をもっているのか、何に対して研究をしたいのか、ずっとわからずに、何とかなるだろう精神でゼミに参加していました。でも大学生活の中で、やっと自分自身が勉強したいことに向き合えるチャンスだと思い、真剣にテーマを考えていく中で、自分が最も長く興味関心のある恋愛リアリティーショーというものに行きつきました。そこに焦点を当て、研究の問いを考えていくと、思ったよりも多くの問いや疑問が出てきたことに自分自身すごく驚きました。今まで、何事に対してもそこまで深く考え取り組んできたことがなかったため、卒業論文を書いていくことは、簡単ではなく、時間が思ったよりもかかるものでした。

論文を書く過程で、テーマの内容についてだけでなく、「人にわかりやすく伝える文章の作成」や「発表の仕方」、「人の論文についての更なる疑問」など頭をフル回転させる場面ばかりで、ギリギリまで果たして提出日までに終わるのか⁉と不安とストレスでおかしくなりそうだったのですが、何とか無事に提出ができたことと自分なりにやり切れたと思えたので達成感がありました。

また、大学という学びの場で「恋愛リアリティーショー」について卒業論文を書くことはあんまりよろしくないのでは?と思っていたのですが、快くこのテーマについて卒業論文を書かせてくれた松岡先生に本当に感謝しかありません。いつでもギリギリ提出だった私を見捨てずにたくさん助言までくださってありがとうございました。そして、コロナ禍の中で対面ゼミはほとんどない中、たまにみんなと学校でゼミができた時間もすごく楽しかったです。本当にありがとうございました。

ゼミを通じて、何かに関心をもつことの大切さや答えを導きだすことの達成感、深ぼりをしていく楽しさを改めて感じることができました。今後もここで学んだことを忘れず、この経験を活かしていきたいと思います。

(5期生 あゆみ)

【vol.96】卒論を終えて(5期生 ゆり)

思い返せば、約3年間という長い時間をかけて今回の卒業論文を完成させたのだと、これまでの自分を振り返り気付きました。

私は『現代日本の幸福な若者が抱く「不満」の正体――小さな不満を愚痴り、共感し合う若者たち』という題で卒論を書きました。改めてこの表題をみるとなかなか「っぽい」感じがありますね。賢そうな感じで社会学っぽいなと思います。ほとんど先生に助言をいただいて決定した表題なのでさすがに社会学らしいと胸が張れそうです。表題含め大変お世話になりました!ありがとうございます。卒論の内容はおおかた表題の通りです。アンケート調査やSNS観察を通して現代の若者の「不満」を様々な角度から考察し、最終的には、研究する中でたどり着いた若者の「不満」の正体、また「不満」と「愚痴」の違いを論じています。

大学2回生の頃、特に研究したいと思えるほどの好きなものもなく、なんとなく日常的に使用頻度が高いSNSに関連する事柄をテーマにしてみるかと思ったことが、この卒論の始まりでした。『SNSからみる若者の不満・愚痴』というテーマでなんとなく始めた研究が、まさか『現代日本の幸福な若者が抱く「不満」の正体』というかっこよさげな形に姿を変えて3年も向き合っていくことになるなんて思ってもなかったです。3年間この卒論に向き合い完成まで持っていけたことは、これから生きていく中で、自信の一部になるのだろうと思います。研究の始まりの「なんとなく」という感覚、小さな引っ掛かりや疑問が、このような卒業論文という形として学びにつながっていくのだと体感したので、この感覚や経験は大切にしていきたいです。

私は基本的に、卒論は自宅で自分のパソコンを使って執筆することが多かったのですが、本当に常にパソコンとの闘いだったな…と卒論執筆過程を振り返り思います。パソコンを立ち上げるのに時間が意味わからないくらいかかったり、いきなりアプリが落ちたり、zoomで画面共有を試みたら固まって動かなくなったり。パソコンがポンコツすぎて、レジュメ作成や卒論執筆中はパソコンに対してキレていた記憶しかありません。めちゃくちゃ基本的で当たり前のことではあるのですが、「保存」だけはこまめにおこなっておくに越したことはないです。頑張って書いたデータが保存しないままパソコン不調によって消え去るのは精神的にもよくありません。「逐一データ保存」「USBはわかりやすいところに保管する」、卒論を書いていくうえで大事やな…と思ったことです。あとは、研究する中で作成したレジュメや、ゼミ生にもらったアドバイスなどもきれいにまとめて保管しておくと、卒論執筆時に大変助かると思います。未来の自分がおそらく感謝します。

卒論を書くのは思ったよりも果てしなくて少し大変でしたが、終えてしまえば、文献調査も資料収集も考察もレジュメ作成も発表も、すべてがいい経験で、大学生らしい体験だったなと思います。終えた今だからこそ多分そう思えるのですが。

「卒論のことそろそろ考えていきましょう。最低12000字は書いてもらいます」最低12000字とか絶対無理や終わらんすぎる、とはじめは思っていました。いざ書き始めて、完成した卒論は18000字を超えました。案外何とかなりました。案外何とかなります。でも、先生をはじめ、いろんな角度からアドバイスをくれたゼミのみんながいなければ、今回の卒論完成には至らなかったと思います。本当にありがとうございました。様々な意見をもらうこと、自分の分野でない面白い研究を聞くこと、愚痴りながら作業したこと(笑)、すべて楽しかったです!

このゼミを通じて、また卒論執筆を通じて得た経験を、今後の人生に活かせる部分があれば活かしていきたいと思います。卒論、これにて完!ありがとうございました!

(5期生 ゆり)

【vol.95】卒業論文を書き終えて(5期生 さら)

私は、「日本の不自由なファッションを解放する——自由に装うことはいかにして可能か」というテーマで卒業論文を書きました。個人が思い思いにファッションを楽しんでいるようで、現状の日本ではジェンダーや年齢、トレンドや社会的役割などによる制限があることから、なぜ「好きなように装うこと」は難しいのか、また好きなように装うことはいかにして可能であるのか、ということについて論じてみました。

メンズのアパレルショップで買い物をしていると、店員さんから「プレゼント用ですか?」と話し掛けられることが度々ありました。きっと接客のきっかけとして話題にしているのだろうし、気にしなければ済む話なのですが、どうも私がそこの店の服を着ることを否定されているように感じてしまい、いつもすぐに店を出てしまいます。そこでの違和感が卒業論文のテーマにつながりました。

書き終えてみて、私らしい論文になったなあと思う部分は、アンケート調査やフィールドワークなどの独自に行った調査の記録です。大学生を対象に実施したアンケート調査では、人目が気になることや、なりたいファッション像との乖離など、それぞれの抱える多様な不自由さについて知ることができました。

一方で盲点だったのは、服装を選ぶという行為に苦手意識を感じる人もいる、ということです。服を選んでコーディネートすることが大好きなばかりに、そうでない人の立場について考えていなかったことに気付き、そもそも全員が「好きなように装うこと」を求めているわけではない、という新たな見解を得ることができました。

また私の場合、インスタで広告を見て気になったポップアップストアに脚を運んだり、百貨店の催事場をふらっと訪れたりしたことが、後々研究のフィールドワークにつながったので、ただただ自分の好きなことをテーマにして正解だったなと感じています。これから卒論を書かれる方々には、論文や研究のために何かをするというよりも、自分の興味のあることを突き詰めた調査や情報収集を行えるような、そんな研究への取り組み方をお勧めしたいです。

あとは何より、日々のゼミでの発表やコメントをもらう時間を大切にすることですね。毎度こつこつ調査をしてレジュメをしっかり作っていると、後に論文にする際、それらを順序立てて並べていくだけで大体の部分が出来上がるので、とてもスムーズでした。そして発表した研究内容に対してもらう先生やゼミ生からの何気ないコメントが、思わぬ発見をもたらすことがあります。4回生の数少ない対面授業においても、もらったコメントや率直な疑問点が研究を進める上でかなり役立ちました。当たり前のことですが、ゼミにはしっかり出席しましょう!笑

そして卒論を書き終えて一番私の財産となったのは、結論で得た考えがそのまま実生活に活きてくることです。私の場合は、大まかに言うと「多様性を認めること」「既存のものを大事にしながらも、選択肢を増やすこと」ですが、それはファッションにおいてだけではなく色々な場面にも共通して必要な考え方であると思っています。論文を書く過程だけでなく実生活においても、こうだと決めこまずに少し周りを見渡してみて、そしてそれを受け入れるという習慣が以前よりも身についたと感じています。時間をかけた分得るものも大きかったので、これからの社会人生活でもここで得た考え方を忘れず、また次なる財産を得るために、大学での研究のように物事にじっくり取り組んでいこうと思います。

(5期生 さら)

【vol.65】なぜ人は名前をつけるのか(ぽん吉)

はじめましてぽん吉です。いきなりですが、私は人の名前を覚えるのが大の苦手です。人は友達を作るためにまず、名前を聞きます。そしてその後、再会した際には、名前を覚えていることによって、より絆が深まることが多々あるかと思います。交友関係に留まらず、現代社会で生きていくなかで、目上の人の名前を覚えていないということは失礼に値し、対人関係において、「名前を覚えておく=当たり前、マナー」のような風潮すらあります。

ですが、なぜ人には名前が与えられるのでしょうか。さらにいえば、なぜ人は名前をつけるのでしょうか。名前とはそれほどまでに重要なものなのでしょうか。

たとえば、ここではペットの例を挙げようと思います。私は小学生の頃、人生で初めてハムスターを飼いました。多くのハムスターのなかから直感的にこの子だ!と思い、たしか1分ほどで決めたと思います。私は家に帰宅し、その子に「ラブ」という名前(性別はメスでした)をつけました。ですが、私は当時、ラブちゃんを飼う前から、出目金を一匹飼っていましたが、その子には名前をつけていませんでした。このブログを書くまではなにも違和感を覚えませんでしたが、同じペットなのに、なぜ私はハムスターには名前をつけ、出目金には名前をつけなかったのでしょうか。

この疑問に対する私の仮説として考えたのは、名前をつける尺度は自分がその対象に関与する程度や愛着によるのではないかということです。たとえば、先の例で挙げたラブちゃんは、名前をつける前はただのハムスター、もっといえば、ただのネズミです。このネズミに対して、不衛生な場所などで見かけるネズミは、同じネズミでも野良猫や野良犬と同じように自分が関与する程度は薄く、愛着もありません。しかし、ペットとして飼ったネズミ、ハムスターにおいては、自分が面倒を見て、エサをやり、小屋を掃除するというように、自分が関与する程度が濃く、愛着が湧きます。おそらく、当時の私にとって、出目金に名前をつけなかったのは、ペットとしては飼ってはいましたが、私自身はなにも面倒を見ておらず、主に母親が面倒をみており、私にとってのペットではなく、母親にとってのペットだったのです。いま思い返すと、その出目金に母親は名前をつけていました。たしか「プリキュア」だった気がします(理由はわかりませんが、プリキュアのキャラクターの目が大きいから?笑)。

このような仮説をもとにすると、多くの場面で同じことが言えます。たとえば、牛や豚などの家畜に対しては、個体の識別(牛は牛、豚は豚というように)はされていますが、名前による識別はされていません。逆に生き物でないぬいぐるみなどに対しては、名前をつけることが多々あります。この両者においても、名前を授ける側である人間が、その対象に対して、いかに関与し、愛着をもっているかが分かれ目なのではないでしょうか。前者に関しては、出荷まで飼育するという面では、濃く関与はしていますが、愛着という面では、感情が入りすぎると、業務に支障をきたすため、名前はつけません。後者においては、ぬいぐるみに名前をつけるという行為は、心理学的に「自分だけの存在にする」という効果があり、自分だけのぬいぐるみであれば、一緒にいて安心し、心の許せる存在にもなり、愛着が湧くことが考えられます。こう考えると、人が人に名前をつけることにも合点がいきます。我々は必ず、親から生まれ、名前を授かります。親は子に最も関与し、愛着があるが故に、一種の仲間意識のもと、名前をつけるのではないでしょうか。

このように、我々が当たり前のように思っている「名前」という概念に関して、さらに深掘りをしていくと、より興味深い発見ができそうです。冒頭にも述べましたが、私は人の名前を覚えるのが大の苦手です。それだけではなく、苦労して一度覚えても、少し会わない期間ができると、またリセットされてしまいます。ですが、私は尾田栄一郎さんの漫画『ワンピース』に出てくるキャラクターの名前ならほとんど覚えている自信があります。おそらく私は、他人にあまり興味を持っていないのだと思います。興味を持ち、関心があれば、ワンピースのようにマンガを集めて、読んだりして、その中で愛着が湧き、自然と名前を覚えるはずです。しかし、今までに自分が出会ってきた過去の人の中で、自分がその人に深く関与し、愛着を持った人と言われて思いつく人は、片手に収まるくらいですが、その人たちの名前や見た目は今になってもはっきりと覚えています。ある意味、私は多くの人に対して興味、関心を持っていないということにおいて、失礼な人間なのかもしれません。

ですが、よくよく考えてみると、これは失礼なことなどではなく、いたって自然なことなのではないでしょうか。みなさんもこのような経験をしたことはありませんか。久しぶりに会って名前を思い出せない、1度会ったことはあるけど、覚えていないなど、このようなことは多々あることかと思います。私の友人に乃木坂46の熱烈なファンがいますが、彼はメンバー全員の名字のみならず、名前まで記憶しています。これは、得意な分野、趣味の分野が対象であるため、自然に頭の中で思い出し、繰り返されるため、記憶に定着していると考えられます。しかし、彼は塾のアルバイトで受け持つ生徒の顔と名前を覚えられないと悩んでいました。これは得意な分野、趣味の分野とは違い、ほとんど日常的に思い出されることがない対象であるため、記憶に定着しにくくて当たり前です。自分が熱狂している乃木坂46への関与・愛着の程度と、一時的なつながりに過ぎない生徒への関与・愛着の程度では大きな乖離があります。また、女優の忽那汐里さんとれいわ新撰組代表の山本太郎さんでは、大多数の人が山本太郎さんの方が覚えやすいと思います。このように、覚えやすい名前と覚えにくい名前があることもまた事実です。

では、名前を覚える側、覚えられる側の双方はどのような工夫をするべきなのでしょうか。まず、名前を覚える側の努力としては、名前から覚えることができないのであれば、あだ名をつけてみてはどうでしょうか。これは私が実践していることなのですが、私もアルバイトで塾の講師をしています。例年であれば、中高合わせて1学年ずつという配分だったので、比較的生徒の名前は覚えやすかったです(それでも最低1ヶ月ほどはかかりましたが、、、)。しかし、今年は中学生2学年と高校生3学年の計5グループの学年を受け持っており、50人ほどの生徒の顔と名前を覚えなければならなくなりました。はじめのうちは、顔の認識でいうとスムーズにいったのですが、一向に顔と名前の一致がせず、そもそも名前も座席表がないとわからない状態でした。そこで、私は「もうこれは覚えられそうにない、、、。」と感じたため、まずはあだ名で呼ぶこととしました。あだ名は本人たちが学校で呼ばれている呼称や、こちらが勝手に名付けたものなどさまざまですが、なぜか私はあだ名であれば、1週間ほどで全員の顔と名前が一致しました。これもまた、相手に対する関与や愛着が関連しているのではないかと私は考えています。あだ名で呼び合うという関係性は、ある一定の距離感、立場などが確立されないと成立しませんが、一方でそれだけ親しく、相手との距離を縮められる効果もあります。すると、自然と相手に対する関与や愛着の程度も増していき、記憶に残りやすい。そして、そのあだ名から名前が連想され結びつく。私の頭の中の構造はこのようになっています。ゆえに、私はあだ名であれば、このように短期間で生徒を認識することができ、徐々にあだ名から名前へと呼び方を変えていき、今では約50人の生徒の顔と名前が一致しています。

次に、名前を覚えられる側の努力としては、強い印象を残すということが最善策なのではないかと考えます。たとえば、現在の私のゼミの担当の松岡先生は、「どこにそんな服が売られているのだろう。」「10m先にいても認識ができるな。」というような奇抜で、アーティスティックな服装をしています。そのため、その印象の強さゆえ、第1回目のゼミの時点で完璧に顔と名前が一致しました。これは、私は何の努力もしておらず、ひとえに印象が強すぎたため、すぐに名前を覚えることができたのだろうと考えています。

このように、名前を覚える、ないしは、名前を覚えてもらうという目的に対しては、双方の努力が必要不可欠であるように感じます。しかし、昨今では、電子媒体が急速に発達しており、実際に名前を覚えていなくても、インターネットやクラウド上に名前が残っているため、上記のような双方の努力が希薄化しつつあります。これは、私の仮説からみると、相手への関与や愛着もまた希薄化する恐れがあります。ただ、この恐れは一部現実化しつつあります。国民1人1人を名前によって識別するのではなく、番号により管理・把握するマイナンバー制度も、国民の諸々の管理や手続きという面では利便性があり、賛成ではありますが、人を番号で管理するということに関しては、どこか無機質で、血の通っていないように感じ、囚人のような感覚すらあります。コミュニティの希薄化、独居老人、孤独死、青少年の自殺、、、。現代社会が抱える多くの問題は他者とのつながり、対人関係が関連しています。このような大きな問題をすぐに解決できるような得策を考案することは容易なことではありませんが、名前という対象はこのような問題に歯止めをかけるキーワードになりはしないでしょうか。名前をつける側はつけられる側に多大な関与・愛着を持っており、その名前を覚える、覚えてもらうという行動にも、双方が歩み寄り、深く関与し、愛着を持ってこそ成り立つものだと私は考えています。

最後はややスケールの大きな内容にはなってしまいましたが、名前とは、人と人とを鎖状に関連づける、我々の最も身近に存在する、対人関係を構成する根幹であり、他者との関係性を脆弱なものではなく、強固なものにするために不可欠な要素であると言えるのではないでしょうか。

(5期生 ぽん吉)

【vol.64】フリーサイズの「フリー」って??(にっこう)

こんにちは。松岡ゼミ5期生のにっこうです。

みなさんは、服を買う時、何に1番注目しますか?服のデザイン、生地、値段・・・。たくさんありますが、私はまず、自分に合ったサイズかどうかに注目して選んでいます。

長くなりますが、自分の過去のことについて話していきます。私は幼い頃から体格がよく、ふくよかな体型でした。小学生の頃、私服で学校に通っていたのですが、ある日ちょっとした出来事がありました。その出来事とは、普段ズボンばかり履いていた私が、膝の少し上のスカートを履いて行った日があったんです。すると、クラスの人たちに、

「デブがスカート履くと、太い足が見えて気持ち悪い」

と言われました。面と向かってこういう事を言われたのは初めてで、どう言い返せばわからず、トイレに逃げ込んだのを覚えています。この件があって初めて、自分の体型が人と違い、変なものだと思われていたことに気づきました。その後、進学し制服を着ることになり、制服の採寸がありました。生徒が1つの場所に集まり、一斉に業者の人に採寸してもらうのですが、サンプルとして用意されている制服がSS〜LLで、私には入らなかったのです。すると業者の人が、

「こんな太ってる生徒、初めて見たわ。肥満用の制服、特注しないとね」

と、笑いながら言ったのです。するとその場に居た、他の生徒や業者の人たちも一緒に笑い始めたのです。入学後、この話は人伝いでたくさんの人に知られ、中学、高校を卒業するまでずっと体型でいじられました。1度いじられはじめると、なにをするにも体型をネタにからかわれ続けてきました。笑って乗り切ることが多かったのですが、内心は全く笑えませんでした。「痩せたら可愛いのに」、「痩せたら人生変わるよ」、「太っているのは自己管理がなってないから」と言った言葉は、飽きるほど聞きました。

こんなことがあって、私はいつしか「太っている=良くないこと」と思うようになりました。今は、地元を離れたこともあり、このような嫌な思いをすることは減りました。しかし「太っている=良くない」という風潮は、テレビや雑誌を見ていても感じることは多々あります。そこに疑問を感じて、現在は研究に取り入れ始めています。

自分の話はここまでにしまして、タイトルにも書いてある「フリーサイズ」について話していきたいと思います。服屋に行くとS、M、L、XL・・・といったサイズ展開の他に、「フリーサイズ」というものを目にしたことはありませんか?フリーサイズは広い体型の層の人でも着ることができるように作られているものです。

以前、友人(普段Sサイズを着用)と洋服を買いに行ったのですが、自分が着れそうなサイズはなさそうなので、店外で友人が買い終わるまで待っていました。すると友人が「フリーサイズがあったよ!」と呼んでくれたので、一緒に見てみることにしました。そこにあったフリーサイズの服はLサイズぐらいで、私には着ることができないものでした。フリーサイズは広いサイズの人でも着ることができるものと思っていたため、驚きました。

そこからフリーサイズの「フリー」に疑問を持つようになりました。サイズをS、M、Lのように限定するのではなく、あえてフリーにしているのにはどのような理由があるのでしょうか。ある程度の体型であれば着ることができ、汎用性が高いためだと考えられます。これは、サイズを限定しないことにって、複数のサイズの購入者を獲得することができるからでしょう。私はこのフリーサイズに当てはまらない人は、痩せ/肥満問わず、フリーサイズを買えないという疎外感を感じるのではないかと思います。フリーサイズに当てはまらないということは、一般的な世間のサイズから外れているようにも感じられ、自分の存在を否定されているようにも思います。一見、便利なような「フリーサイズ」表記ですが、あるサイズのグループのみしか認められないのであれば、サイズを限定し、表記するべきなのではないかと私は思いました。

そんな中、現在SNSでは「#MYsizeforeveryBODY」、「#マイサイズをフレンドリーに」というハッシュタグを用いて、服を買うに当たって、嫌な思いをした出来事や、服のサイズについて自分の意見を伝える動きがあります。その他にも、「#bodypositive」という「ありのままの体型を愛そう」というものもあります。自身の思いを発信するのも、他人の実際の経験談を見るのも良し、是非この機会に知ってもらえればいいなと思います。

私は、未だ過去のトラウマに近いあの出来事を忘れることはできず、呪いのようにまとわりついています。他人の体型に過度に言及するような、ルッキズムな考えは、多くのところで存在します。今後の研究では、女性の体型が年々痩せ傾向をとっているが、メディアがどのように作用しているのか、またルッキズムには男女差があるのか、実際に自身が意見を発信し、どのように人に受け取られるのかを調査していきたいと思います。体型や服のサイズで苦しむ人がこれ以上増えないことを願います。
拙い文章ですが、ここまで読んでくださりありがとうございました。

(5期生 にっこう)

【vol.63】コロナにも負けないキャバ嬢(まゆ)

こんにちは!いきなりですが、みなさんはキャバクラに行ったことがありますか? もしくは働いたことがありますか?、、、Yes!と答える大学生は何パーセントくらいいるのでしょうか(笑) 皆さんがドラマなどでみて想像を膨らませているであろう『夜職』の世界。私は、そこで生きる人に対して関心があって研究をしています!

しかし、コロナが流行り、キャバクラは緊急事態宣言で閉店してしまいました。今は営業を再開した「夜の街」でクラスターが発生し、非難の対象にもなっていますが、それによって「夜の街」への偏見が助長されることを危惧します。そこで今回は、コロナでお店がお休みになった間に、キャバ嬢がオンラインキャバクラ・配信アプリデビューしたことについて書きたいと思います!

オンラインキャバクラとは?

オンラインキャバクラとはネットでキャバ嬢と宅飲みできる新サービスのことです。具体的には、LINE 、Skype 、Zoomなどのビデオ通話アプリを介してキャバ嬢と宅飲みができるサービスです。4月に感染症拡大の影響で緊急事態宣言が全国に発令されました。それを受けて、オンラインキャバクラが続々と誕生したのです。そして、緊急事態宣言が解除され、店舗営業が再開されてからも、オンラインキャバクラは継続されています。

メリット

1. 距離が遠いキャバ嬢にも会える

出張でもない限り、自分が住んでいる地域のお店でしか出会いがないと言えます。しかし、オンラインキャバクラでは、普段会えないようなキャバ嬢に接客してもらうことが可能です!方言が可愛いと話題にもなっています。

2. 普段のキャバクラよりも比較的安い

キャバクラには、taxというものが存在します。いわゆる、サービス料です。しかし、オンラインキャバクラでは黒服さんへのサービス料や席代がないため、比較的安く楽しむことができます。

3. お試し感覚でキャバクラを体験できる

普段、キャバクラの雰囲気が苦手な人でも、1対1なら周りを気にせずに楽しめるのではないでしょうか。先ほど比較的安いと言いましたが、「この子気になってるけど喋ってみなきゃ分からないよな〜」と思っている人は、今こそ試してみるといいのでは?

デメリット

1. キャバクラ独特の空気感を味わうことができない

キャバクラ独特の大人数でワイワイガヤガヤお酒を飲むのが好きな人には向いていないかもしれません。

2. 下ろしたお酒を一緒に飲めない

あくまでオンラインキャバクラは自分でお酒を用意しないといけないので、美味しいお酒を飲むことがシンプルに好きな人には向いていないのではないでしょうか?

人気急上昇中17ライブとは?

17ライブ(イチナナ)とは、ライブ配信を通じて世界中の人たちが繋がることができるアプリです。日本でのアプリのリリース後、たった6ヶ月でダウンロード数1280%増と急成長を遂げています。(すごい普及率。。) イチナナは歌やダンスなどさまざまなエンターテインメントを披露・視聴する場としてのプラットフォームとして利用され、さまざまなエンターテインメントを発信する人/見るのを楽しみたい人、双方がイチナナ を通じてコミュニティを形成しています。主に、ギフト(投げ銭)の何割かが収入になる職業です。実際のところ事務所に入っているのといないのとでは、貰えるパーセンテージが全然違うそうです。

キャバ嬢の17ライブデビュー

大阪北新地の有名キャバ嬢、進撃のノアちゃんやみゆうちゃんがインスタのストーリーで配信予定を書いていたので、それで私も知りました。もちろん、私が働いていたお店からも何人かが17ライブデビューを果たしていて、良い成績を残していました(><) 自粛モードの中、スカウトの仕事がこのコロナで減ったのは確かです。そこで注目されたのが、17ライブとパパ活でした。現に、私にも連絡が来ましたが、どちらとも興味がなかったので無視していました。17ライブといっても小銭稼ぎくらいにしかならないのでは?と内心思っていたからです。しかし、思ったよりもどちらかを始める人が多かったのです。私も、途中から視聴者として毎日17ライブを見るくらいハマってしまいました(笑) 投げ銭するつもりがなくても、周りとの対抗心で課金してしまうのです。沼ですね(笑)

進撃のノアちゃんの17ライブ伝説

「進撃のノアちゃん17ライブ伝説」って何?と見出しで思った人は多いのではないでしょうか?(私が勝手に名付けているだけです。笑)まずは、進撃のノアちゃんの軽い紹介からしたいと思います。進撃のノアちゃんは「超最先端キャバ嬢」として多数のテレビ番組にて紹介されているので名前を知ってる人も多いのではないでしょうか?風変わりな源氏名は、たくさんのキャバ嬢から相手される客にもすぐ名前を覚えてもらえるインパクトを重視してつけたそうです。(ちなみにノアちゃんは進撃の巨人は読んだことはないのだとか。。笑) そんな進撃のノアちゃんが、なんと17 ライブで得た収益を『大阪府新型コロナウイルス助け合い基金』に全額寄付を行うと表明したのです!

「新型コロナウイルスが蔓延していく大変な世の中で、どうすれば自分が頂いた報酬が最も世の中のためになるのかと考えた結果、少しでもみなさんのためになるなら政府に寄付しようと思います。仕事させていただいてる土地が大阪なので、今回は大阪府に寄付させていただきます!自粛期間中でも17 ライブを通して画面越しのみんなに、いつも笑顔と元気を与えられるような人であり続けたいなと思っています。私を応援してもらい頂いたお金なので、やっぱりみんなに返したいという気持ちがすごく大きかった。そのためこの判断に至りました。ちょっとでもみんながこれで心が動いてくれたり、頑張って自粛しようと思ってくれれば嬉しいです!これからも私が自分自身でできることを頑張っていくので、みなさんも一緒に頑張っていきましょう!」と、自身のYouTubeチャンネルで笑顔で話していました。このような活動がコロナ収束に向けての第一歩といえるでしょう。

キャバ嬢が17ライブを配信するメリット

これは、オンラインキャバクラに繋がると考えて良いでしょう。オンラインキャバクラの醍醐味である遠距離でも接客ができるということについて、果たして集客をどこで行うのか?Instagramやブログももちろんその内のツールですが、17ライブも大きな大黒柱となっていると考えることができます。見る側の立場としては、オンラインキャバクラのメリット・デメリットと変わらないと思います。投げ銭=シャンパンと考えていただけるとわかりやすいと思います。

最後に

さて、最近コロナの影響でBADに入るようなニュースばかりですが、おうち時間の過ごし方として、17ライブを活用してみてはいかがでしょうか?個人的に、ライブ配信はお金がかかることなく楽しめるので、キャバ嬢の偏見がある方もない方も、素直に楽しむための1つのツールとして試して欲しいです!意外とハマってしまうかもしれませんよ?コロナの自粛期間に、おうち時間と称してインスタライブが一時期流行りましたよね。それと同じ感覚です!百聞は一見にしかず!

(5期生 まゆ)

【vol.62】ヘアカラーは悪いこと?(りょうか)

日本には「生まれもった身体に身体加工(タトゥーや整形)を施すのはよくない」といった考えが根付いています。最近では、すごく身近になっているヘアカラーも広い意味でのカジュアルな身体加工の一つです。

みなさんは、髪の毛を染めたことはありますか?
私は、小学校の頃にはじめて髪を染めました。そして、周りの友達も染めている子が多かったので、髪を染めることについてなにも思っていませんでした。
しかし、中学校、高校となるにつれて、「髪を染めることは悪いこと」というルールに出会いました。また、それが、世間一般なのだと気が付きました。しかし、大学生になると、そのルールはなくなりましたが、世の中にその考えが残っていることに違和感を持ちました。

私は、髪の毛の色を変えると全体の雰囲気が変わることが楽しく、大学生になってからブリーチもして、赤、青、黄色、紫、オレンジ、グレーなど様々な髪色にしてきました。原色に近い色や派手な色、色落ちして金髪に戻ったときなどに、周りから「ヤンキー」や「いかつい」「すごい色(白い目)」といわれてきました。

髪の毛を染めるという行為は、おしゃれとして定着してきている部分もあり、そこまで良くないというイメージもなくなってきていますが、金髪や派手な色などの明るい髪色=ヤンキーなどといったような偏見は、いまでも残っています。学校の校則や接客業などの規則にあるヘアカラーに対する印象のみで、“接客サービスが悪い”や“髪の加工=非行”という考えを持つことは、ステレオタイプではないのかと疑問に思いました。

今回は、日本ではなぜ、黒髪がよしとされ、金髪や明るい髪色がよしとされないのかという疑問を、日本と海外の学校教育の違い、日本の文化の特徴という2つの観点から考察していきます。

はじめに実態調査として、黒髪がよしとされている考えが顕著にあらわれているのは、学校現場と接客業であると考えたので、私のバイト先と母校(中学・高校)の先生たちに、以下のような内容のインタビュー調査を実施しました。

Q1 髪色に関するルールや基準にはどのようなものがあるか
Q2 そのルールや基準がある理由
Q3 もともと地毛の明るい人も黒染めをする必要があるのか
Q4 学校、職場以外で髪を染めている人に対する印象
Q5 学校、職場で髪を染めている人に対する印象

その結果、髪を染めることに対して、飲食店は「奇抜だとお客様受けが悪い」、学校は「髪を染めることによって意識が学校以外へ向くのを防ぐため、社会のマナーを身につけるため」といった考えをもっていることが分かりました。しかし、社員や教員という立場ではなく、個人として髪の毛を染めることに対しての考えは、「個性や自由」「地毛が明るかろうと黒染めの義務はない」ということでした。私は実際、中学・高校で地毛が明るいと黒染めさせられていたので、この返答には正直驚きました。

これらの実態調査から、学校現場において、「おしゃれは意識が学校の外に向いてしまうこと」と「ヘアカラーの禁止」にはどういった関係があるのか。社会的に髪の毛は暗めがよしとするマナーがあるのか。接客業は「お客様社会」になっており、「お客様は神様」という考えから、店員の容姿はお客様にどう思われるかが最優先されているのか。「接客態度がいいこと」と「店員の清潔感などのイメージを守ること」は結びついているのか。このような疑問や仮説が生まれました。そして、「学校では」「職場では」というイメージの固定があることも分かりました。

1.日本の文化

日本人の特性として、同一のものを好んだり、異質なものを排除したりするというものがあります。これには、日本の歴史が関係していると考えます。

日本はもともと島国で、異文化とかかわることが少なく、また異文化が日本に入ってきても異文化をそのまま取り入れるのではなく、日本の文化に適合するように取り入れてきました。わかりやすい例でいうと、漢字です。もともと中国から入ってきたものですが、それを日本語として母語にしています。そして、日本の農耕社会にあった村に即せない人は村から追い出されるという「村八分」という文化や、ことわざにも「出る杭は打たれる」や「長い物には巻かれろ」、「言わぬが花」、「雉も鳴かずば撃たれまい」などがあることから、日本の歴史的文化が深く関わっているといえます。

これらの考察から、最近は身近なものになってきているヘアカラーも、日本の同調意識の歴史に比べるとまだまだ浅いので、“黒髪がよい”というイメージが残り、さらにヘアカラーが日本に普及してきたのはヤンキー文化が流行したのと同じくらいの時期だったため、金髪や明るい髪色によくない印象がついてしまっているのではないかと考えました。

2.日本と海外の学校教育の違い

学校教育に必要不可欠なものとして校則があげられます。「ブラック校則」と呼ばれる校則も最近注目されています。ブラック校則とは、眉毛と髪の毛をいじってはいけない、地毛が茶色かったりくせ毛があったりしたら事前に証明手続きをしなければならない、日焼け止めクリームを化粧扱いして禁止する、などといった校則のことです。それに加え、学校の評価や地域の方々からの目を学校側が気にすることが増えたことにより、髪色はもちろん髪型や髪の長さ、靴下の色など見た目に対する校則が増えています。多様性や自主性を広げたり、個性を見つけたり伸ばしたりするはずの学校現場で、画一化することばかりに目を向けられているのが現実です。その結果、周りと同じでなければならないという考えが根付いてしまうのです。

一方、海外の教育は、自分の考えや個性をいかにアピールできるかというところが重視されています。学校は勉強するところという考えのもと、見た目に関する厳しい校則はありませんが、成績が悪いと親の呼び出しなど勉強に関しては厳しい校則が多いようです。

以上が、わたしが2年次におこなってきた、ヘアカラーに対する偏見についての研究結果です。

みなさんは、ヘアカラーに対してどう思いますか?

(5期生 りょうか)

【vol.61】ブラックミュージックからJポップまで愛される”Just the Two of Us進行”(おしゃ)

最近、SNS上で人種差別問題についての画像や動画、#BlackLivesMatterというハッシュダグをよく見かけることはないでしょうか。人種差別問題は今にはじまったことではないですが、アメリカのミネアポリスで起きた事件をきっかけに、全米では抗議のデモが広がっています。また、先日6月2日には米音楽業界が連携して「Black Out Tuesday」と称した差別に対する抗議運動が実施されました。

Apple Musicでも、背景が黒一色になり、ブラックミュージックを流し続けるラジオを配信しました。そんなジャズやソウル、R&Bなどのジャンルに展開されるブラックカルチャー、ブラックミュージックに影響を受けた音楽家たちは数えきれません。皆さんの好きなアーティストの方々が影響を受けた音楽を、インタビュー記事などで調べてみてください。ブラックミュージックを聴いてきたアーティストも少なくないと思います。

アメリカでのブラックミュージックの誕生は、黒人の奴隷制度とともにあり、17世紀にまで遡ります。それから時は経ちましたが、黒人への差別が消えていないことが現状です。「その人々が創り出した音楽が素晴らしいから」という理由が差別をなくすべき理由ではなく、基本的人権は守られるべきであるから、差別はなくさなければならないと考えています。しかし、社会問題に向き合うきっかけが、音楽や映画など自分の愛する文化であっても良いと思います。人種差別問題やブラックミュージックについてはここでは書き尽くせないので、今回はそのほんの一部ですが、ある1曲と音楽の繋がりについて紹介します。

「Just the Two of Us」

それは日本にブラックミュージックを浸透させた1曲です。ジャズ・フュージョン界を代表するサックス奏者グローヴァー・ワシントン・ジュニアとソウル界の父ともいわれるビル・ウィザースが歌う「Just the Two of Us」(1980年)です。この曲は1982年にグラミー賞のR&B部門を受賞するなど、邦題「クリスタルの恋人たち」として知っている人もいるのではないでしょうか。注目する点は、この曲のコード進行です。コード進行とは、和音の流れであり、曲の雰囲気を作る材料のようなものです。Just the Two of Us進行は、後に数え切れないほどの曲に使われており、Official髭男dism「Pretender」やあいみょん「愛を伝えたいだとか」など、Jポップのヒット曲にも使われています。

私は小学生の頃、椎名林檎「丸の内サディスティック」を聴き、今まで聴いたことのない色気と浮遊感に衝撃を受けました。この曲もJust the Two of Us進行の有名な曲の1つで、丸サ進行とも言われています。その衝撃以降、無意識に聴いている曲は、Just the Two of Us進行ばかりになりました。音楽ストリーミングサービスを使用するようになり、シャッフル機能で流れてきたイントロがそのコード進行であれば、すぐにダウンロードし、Just the Two of Us進行の曲のみのプレイリストを作るほどになりました。また、この進行は某音楽番組では、何も考えなくても、コードをループするだけで、心地の良い曲になってしまうことから、「劇薬コード進行」「ジゴロ進行」と称されていました。多くの曲に使われ、愛されているこの劇薬コード進行の魅力は一体何なのでしょうか。

楽器は幼い頃からしてきましたが、この進行の魅力を解明するほどの音楽知識は持ち合わせていません。そのため、音楽家によるコードの解説を、自分なりに咀嚼したものを紹介します。進行の基本形は「Ⅳ△7-Ⅲ7-Ⅵm7-Ⅴm7-I7」と表記されます。この進行の中には、「サブドミナント」、「ドミナントモーション」や「ツーファイブワン」などの音楽の機能が隠されています。まず、ノーマルな音から始まりますが、そこに不安定さが加えられます。その不安定から、一気に華やかな音に向かい、その間の揺らぎがこの進行のポイントであると考えられます。さらに、期待感を持たせ、進行に戻ります。このように、短い進行の間に、さまざまな表情の響きが含まれています。その響きが、Just the Two of Us進行の魅力の1つではないかと感じました。

「1曲から100曲へ」

Just the Two of Usやその進行の曲は、私が調べた中でも、100曲ほどありました。この進行はあまりにもメジャーですので、全作曲者がJust the Two of Usを意識して作ったわけではないと思いますが、その100曲には、コード進行という共通の要素があります。また、意図的にJust the Two of Usのフレーズを使用した曲もあり、その進行で有名なThe Isley Brothers「Between The Sheets」は多くのヒップホップアーティスト達にサンプリングされました。小沢健二 featuring スチャダラパー「今夜はブギー・バック」や、tofubeats「水星」も、さまざまなカバーバージョンがあることで、馴染み深いかと思います。

このように、40年という時が経っても、1曲でジャンルを越え、音楽は派生していくのです。森見登美彦の『夜は短し歩けよ乙女』という映画化された小説に「本はつながっている」というセリフがあります。その後に、1冊の本について、その本に影響を与えた作家、その作家が尊敬した作家、その作家の本を日本で翻案した作家、と1冊の本からまた次の本へと繋がっていくというセリフに続きます。私は音楽も同じように、その1曲1曲は独立したものですが、1曲から100曲へと繋がっていると思います。

興味深いことに、星野源「うちで踊ろう」もJust the Two of Us進行なのです。本人が「色んな人が自由に演奏やダンスを重ねられる曲を」と作曲の経緯を説明したように、アーティストだけでなく、一般人もコラボ動画をSNS上に載せていて、音楽の繋がりを強く感じました。Just the Two of Usでなくとも、ましてや音楽でなくとも、自分の好きな1曲や1冊がどこに繋がっているのかを知ると、さらに深く文化を体験できるのではないでしょうか。

(5期生 おしゃ)

【vol.60】「好き」って何?(ゆり)

ブログを書くにあたって、何をテーマに書こうかととても悩みました。
私の研究テーマは「若者の不満・愚痴」というものですが、初めてのブログの題材とするには少し暗く、重たいテーマだと思い、本当に悩みました。そこで、無難に私の好きなものについて語ろうかと考えたのですが、私の好きなことや好きなものを考えたとき、アイドルであったり、漫画やアニメであったり、家族や友達のことであったり、食べること、寝ることであったり、挙げだすときりがありません。どの種類の好きについて語ろうかとたくさん考え、また悩んだ結果、「好き」とはなんだろうというゲシュタルト崩壊のようなものを起こしてしまいました。

なので、今回は具体的な好きなものについてではなく、悩むうちにわからなくなった私の中の「好き」という抽象的な感情について考えていこうと思います。

先ほども述べた通り、私は好きなものが多いです。でも、どれも「これだけは譲れない、誰にも負けない」というようなものではありません。特別人よりお金と時間をかけているわけでも、全力で追求しているわけでもないです。広く浅く、なんとなく好きというようなものばかりです。また、趣味に関してはこちらが一方的に追うものであって、その対象から見返りを逐一求めているわけではないと思うのですが、身近な人間関係の「好き」に関しては見返り、つまり相手からも好かれたい、嫌われたくない、という思いを抱く人も多いと思います。しかし、私は人から好かれるということにも特に固執しません。

もちろん、人から嫌われたいと思う人は少ないと思うし、私もどちらかというと嫌われたくはありません。でも、人に好かれたい、好きでい続けてもらおう、という思いはあまりないです。仮に好きである友達に嫌われたとしても、悲しくはなるでしょうが、そこからもう一度好かれようだとか嫌わないでくれとすがりつくということはしないと思います。来るものは拒まず受け入れるけれど、去る者についても特に追わないといった感じです。

ここで、私が考えた「好き」を皆さんに共有しておきます。私は、「好き」とはその対象に執着する、あるいはそれに関して嫉妬という感情を抱くことであると考えます。恋人同士の束縛やペアリングといった目に見える形の印、アイドルの同担拒否という文化も、ある人が好きだから起こる現象なのかなと思います。好きだから、自分がそれに対して一番でありたいと思うし、誰にも負けたくない、あるいは取られたくないという他者に対する競争心が芽生えたり、好きな対象に没頭するのだと思います。

この自分の「好き」に対する考えに基づくと、私は執着心が他の人に比べると薄いのかなと思いました。好きなアイドルや俳優がいても、その人を一番好きなのは私である、ということは一切思わないし、同じ人を好きな人、いわゆる同担を見ても、特に何も思いません。また、先述したように、もし好きな人に嫌われたとしても、傷つきはするけれどそこまで引きずらずに受け入れますし、自分を嫌っている相手があまり興味のない人であれば、どうでもいいとすら思います。

「好き」には執着心や嫉妬心が備わっているものであると上に書きましたが、好きなものに執着や嫉妬をすることは決して悪いことではないと思います。執着や嫉妬することにも体力や時間が消費されるし、それだけその対象に好意を抱いているということの表れであると思うからです。また、一般に愛情が深いと表現することも、過干渉であったり他者への牽制であったりと、好意に嫉妬や執着が混じっているものを指すと考えるからです。

ただ、私は好きな人であっても必要以上に干渉されることは鬱陶しいと感じるし、私の人間関係に口出しをされると煩わしい、面倒くさいと感じてしまうので、執着されるのは好きではないです。この部分だけを見ると、私は恋愛面においてだいぶ不向きですね(笑)。

私にも大切な友達はもちろんいるし、その人たちのことを私は確かに「好き」であり、尽くせる対象であると感じます。いやな部分があってもそれを上回るくらい良い部分を知っていたり、悲しんでいたら一緒に悲しくなったり、多少自分の身を削ってでも守りたい、元気づけたいと思えるくらいには好きだといえる子がいます。

それでも相手に嫌われたら受け入れるのは、私が執着されることを嫌いであるからかもしれません。自分がされて嫌なことを、自分の好きな人にすることが許せないという考えが、私の人に対する執着心を薄めているのだと思います。また、もしかすると、私がまだ好きである友達に直接的な敵意を向けられたことがなく、誰かにあからさまな嫌悪感を露わにされたことがない幸せな状況にいるから、このようなことが言えるのかもしれません(敵意や嫌悪感を向けられていてもそれに気づかない幸せな頭をしている可能性もありますが)。もしいつか、私が独占欲を丸出しにしてしまう対象に出会い、この人がいないと生きていけない!などと言い始めたら、その時は、私の中の執着心が強まったのだな、好きに深みが増したのだな、と温かく見守りください(笑)。

以上、私の中の「好き」という感情について考えてきましたが、考え整理する中で、「好き」というプラスである感情にも執着や嫉妬といったようにマイナスと捉えることのできるものが備わっていると気づきました。様々な技術の発達やSNSの普及に伴い、他者の動向監視などが容易くおこなえるようになった今、好きな人の周囲の人間環境を見ることも可能です。この他者に好意を寄せる「好き」というプラスである感情が、嫉妬や妬みを生み、もしかすると現代の若者の不満・愚痴にもつながってくるのではないかなと、自分の研究にも生かしていけそうな新しい発見がありました。些細な疑問からもっと研究の幅を広げていきたいと思います。

(5期生 ゆり)

【vol.59】私流 邦ロックのすすめ(さら)

こんにちは!松岡ゼミ5期生のさらです。突然ですが、あなたにとって欠かせないような音楽はありますか? 

私にとっての欠かせない音楽は、邦楽ロックです。そして好きすぎるがゆえに、ゼミでは「邦楽ロックとファンの関わり」をテーマに研究を進めています。そのため、このブログは、私が愛してやまないバンドを取り上げて、最も思い入れのある曲とともに紹介していくという、もはやただのファンの感想ですね。ですが、ここから紹介する3組と、最後に掲載したロックバンドの楽曲は、私が生きているうえで多大な影響を受けたものばかりです。少なくとも1人の人間の人生動かしてるということなので、ロックなんぞ興味ねえよという方も、騙されたと思っていっぺん聴いてみて下さい。

「チロルとポルノ」/クリープハイプ

クリープハイプはかなりの有名どころなので、「ラブホテル」や「HE IS MINE」などの表題曲をご存じの方も多いと思います。ここでおすすめした「チロルとポルノ」という曲は、クリープがメジャーデビューしたアルバム「死ぬまで一生愛されてると思ってたよ」に収録されています。

私がクリープを知ったのは、このアルバムにある「イノチミジカシコイセヨオトメ」という曲を、他の方がカバーしていたのを耳にしたことがきっかけです。その歌詞がなんとなく気になって、高校1年生の私はTSUTAYAにこのアルバムを借りに行き、ウォークマンでずっとリピート再生していました。そこからクリープにのめり込んでいったわけですが、「チロルとポルノ」は私にとっての原点であり、ずっと一番の曲です。キャッチーな曲調にのせて、切なく哀愁のある詞が歌われているところが、私の心を掴んで離さない所以です。曲中に出てくる「あたし」のやるせない悲しさを、ボーカルの尾崎さんの高音がさらに切なくさせていて、聴く度に私自身何かを思い出して、胸をぎゅっとつかまれたような感覚になります。ラスサビでの、ベースのカオナシさんとのハモリもとっても素敵で、終盤余計に気持ちが高ぶってしまいます。最近のライブでは全然やってくれない曲の一つで、私自身生で一度も聴いたことがありません。いつか生で聴きたいもんですね。

この曲に限らずクリープの楽曲は、メロディーは明るくて可愛らしいのに、歌詞を見るとどきっとするような、何か心の痛いところを突かれたように鋭い詞を歌っていることがあります。そして「痛い」と「居たい」のように、文字を見ないと分からない意味の違いや、言葉選びの独特さなど、日本語を巧みに操っているところが、尾崎さんの作る歌の魅力の一つです。またクリープは下ネタのイメージが強くなりがちですが、彼らはただ下ネタを言っているだけのバンドではありません。下ネタを下品なものとしてでなく、粋な表現でお洒落に魅せているところもまた、半端なくカッコイイんです。

「拝啓」/ teto

tetoに関しては、すすめたい曲が多すぎて、1曲に絞ることが困難極まりないです。そのためライブで聴いたときの記憶が一番鮮明に残っている、「拝啓」という曲を選びました。この曲はtetoの中ではポピュラーソングで、よくライブで演奏される曲の一つです。スピード感のある曲で、イントロから観客もコーラスをして盛り上がります。中盤も合いの手的要素あって、いつもアドレナリンが出まくって走り出してしまう曲です。そして何よりも魅力なのが、ボーカルの小池さんが「一丁前に笑い怒り怒り叫び踊り泣き合いたいというのに」という歌詞のところで、楽器が単音を刻んでいる速いリズムの上で、徐々に熱量を上げてがなる部分です。これはサビ前ですが、私の一番好きなところで、実際聴くとめちゃくちゃアツいですよ。

そしてtetoのライブの面白いところは、とにかくボーカルの小池さんがめちゃくちゃだということ。現在30歳手前で社会人経験のある小池さんは、楽器未経験だった職場の後輩の佐藤さんをベースに誘ったという、なかなか破天荒な経歴を持っています。今まで何度かライブに行ってきましたが、ライブハウスの天井の梁にぶら下がっていたり、ほとんど歌わずに暴れていたりして、演奏を放棄していたことが多々ありました。でもバラードや弾き語りになると人が変わったように切なく歌うし、めちゃくちゃアツいMCで語りかけてくれたりします。そうしてtetoのライブに行くと、彼らの音楽を浴びることで何か身体を解放することができ、重みのある小池さんの一言一言を噛み締めながら、帰りの電車で「明日も頑張ろう」と自分を鼓舞する、その数時間が一瞬にして非常に濃い体験になります。このことは、私にとって日常における栄養摂取のようなものです。もちろんtetoに限らず、他の愛するバンドにおいても言えることなので、この自粛生活中は深刻な栄養失調といったところですかね。

tetoというバンドの魅力は、そのパフォーマンス性だけに留まらず、ジャケットのデザインやグッズの完成度においても語られると私は思います。本当にセンスがいい。実は私がtetoを好きになったのも、知り合いがサブスクの画面を共有しているのを見て、「dystopia」というアルバムのジャケットの素敵さに惹かれたのがきっかけです。上の画像は、「手」というアルバムのジャケットです。イラストは、全てカドワキリキさんというイラストレーターの方がデザインされているのですが、本当に毎作素敵で、tetoの楽曲の世界観にとてもマッチしていると感じます。

「ロードショー」/ Age Factory

Age Factory(以下、エイジ)については、大学生になって聴き始めた知識の浅さゆえに多くは語れませんが、いま最も私の心を掴んで離さないバンドになりつつあります。初めてエイジを知ったのは、とあるロックフェスに、それも別のアーティスト目当てに行ったときのことです。時間に余裕があったので、ふらっとエイジのステージを見に行ったのに、気づけばノリも分からないまま真剣に見続けていました。ボーカルのエイスケさんはハスキーな声の持ち主ですが、シャウトするときの迫力がとんでもない。なので、もしエイジを聴こうと思って下さったときは、「HIGH WAY BEACH」を聴いた後に、「CLOSE EYE」を聴いてみてください。彼の歌声の色んな側面が見れて面白いです。

「ロードショー」は、ここ1年で一番聴いたんじゃないかと思えるほど、今思い入れが増しに増している曲です。まず、入りでもう感情が高ぶってしまう。聴いたらきっとわかります。そしてぐっとくるのが、「雨は止んだよ 映画でも見ようぜ」というサビ前のフレーズです。その何気ない、好きな人との会話がこの曲ではテーマになっていて、エイスケさんの優しい声が心地よく染みるのです。ラスサビ前の「じゃあさ、」という一言も、伴奏が消えて、より柔らかくリスナーに語り掛けているような体感になります。ここの部分も是非聴いてほしい!

そしてエイジをより好きになっている理由に、彼らの地元愛の強さがあります。エイスケさんはライブの演奏始めに、「どうも奈良Age Factoryです」と必ず言います。そう、奈良愛がとんでもない。メンバーはみな奈良出身で、そのことをすごく誇りにしていることが、彼らの発言や楽曲から感じられます。ちなみに「My end」という曲には、「生駒の山裾」なんてワードも登場するのです。彼らが奈良にインスピレーションを受けて、数々の詞を書いていること知ってからは、「この歌詞は奈良のあの場所を描いているのかも!」という風に、曲を聴く度に情景が広がる楽しさがあります。大学生になって奈良に通い、その中でエイジの存在を知った私にとっても、彼らのおかげで、より奈良が特別な場所に思えているのも事実です。ですから私の中には小さな決まりごとがあって、近鉄奈良の西口改札を出て階段を上り終え、地上に出るときに、エイジの「Seventeen」という曲を必ず流します。そうすると、奈良に着いたことをしっかり実感しながら、今日も頑張ろう、と清々しく歩き始められるのです。本当に、エイジは私の生活の一部です。

そして、すすめたい曲がありすぎてキリがないので、ここからは曲名とバンド名だけで紹介させていただきます。割愛しているとはいえ、本当にマストなものばかりなので、よかったら聴いてみて下さい。

「揺らぎ巡る君の中のそれ」/ 雨のパレード
「THE CHAIR」/ w.o.d.
「京都線」/ PK shampoo
「HEAVEN」/ SUP
「10号線」/ SIX LOUNGE
「金木犀の夜」/ きのこ帝国
「アキレスと亀」/ Hello Sleepwalkers(活動休止中)
「煙」/ Saucy Dog

私の文章で、少しでも邦楽ロックに興味を持っていただけたら幸いです!ではまた。

(5期生 さら)