【vol.65】なぜ人は名前をつけるのか(ぽん吉)

はじめましてぽん吉です。いきなりですが、私は人の名前を覚えるのが大の苦手です。人は友達を作るためにまず、名前を聞きます。そしてその後、再会した際には、名前を覚えていることによって、より絆が深まることが多々あるかと思います。交友関係に留まらず、現代社会で生きていくなかで、目上の人の名前を覚えていないということは失礼に値し、対人関係において、「名前を覚えておく=当たり前、マナー」のような風潮すらあります。

ですが、なぜ人には名前が与えられるのでしょうか。さらにいえば、なぜ人は名前をつけるのでしょうか。名前とはそれほどまでに重要なものなのでしょうか。

たとえば、ここではペットの例を挙げようと思います。私は小学生の頃、人生で初めてハムスターを飼いました。多くのハムスターのなかから直感的にこの子だ!と思い、たしか1分ほどで決めたと思います。私は家に帰宅し、その子に「ラブ」という名前(性別はメスでした)をつけました。ですが、私は当時、ラブちゃんを飼う前から、出目金を一匹飼っていましたが、その子には名前をつけていませんでした。このブログを書くまではなにも違和感を覚えませんでしたが、同じペットなのに、なぜ私はハムスターには名前をつけ、出目金には名前をつけなかったのでしょうか。

この疑問に対する私の仮説として考えたのは、名前をつける尺度は自分がその対象に関与する程度や愛着によるのではないかということです。たとえば、先の例で挙げたラブちゃんは、名前をつける前はただのハムスター、もっといえば、ただのネズミです。このネズミに対して、不衛生な場所などで見かけるネズミは、同じネズミでも野良猫や野良犬と同じように自分が関与する程度は薄く、愛着もありません。しかし、ペットとして飼ったネズミ、ハムスターにおいては、自分が面倒を見て、エサをやり、小屋を掃除するというように、自分が関与する程度が濃く、愛着が湧きます。おそらく、当時の私にとって、出目金に名前をつけなかったのは、ペットとしては飼ってはいましたが、私自身はなにも面倒を見ておらず、主に母親が面倒をみており、私にとってのペットではなく、母親にとってのペットだったのです。いま思い返すと、その出目金に母親は名前をつけていました。たしか「プリキュア」だった気がします(理由はわかりませんが、プリキュアのキャラクターの目が大きいから?笑)。

このような仮説をもとにすると、多くの場面で同じことが言えます。たとえば、牛や豚などの家畜に対しては、個体の識別(牛は牛、豚は豚というように)はされていますが、名前による識別はされていません。逆に生き物でないぬいぐるみなどに対しては、名前をつけることが多々あります。この両者においても、名前を授ける側である人間が、その対象に対して、いかに関与し、愛着をもっているかが分かれ目なのではないでしょうか。前者に関しては、出荷まで飼育するという面では、濃く関与はしていますが、愛着という面では、感情が入りすぎると、業務に支障をきたすため、名前はつけません。後者においては、ぬいぐるみに名前をつけるという行為は、心理学的に「自分だけの存在にする」という効果があり、自分だけのぬいぐるみであれば、一緒にいて安心し、心の許せる存在にもなり、愛着が湧くことが考えられます。こう考えると、人が人に名前をつけることにも合点がいきます。我々は必ず、親から生まれ、名前を授かります。親は子に最も関与し、愛着があるが故に、一種の仲間意識のもと、名前をつけるのではないでしょうか。

このように、我々が当たり前のように思っている「名前」という概念に関して、さらに深掘りをしていくと、より興味深い発見ができそうです。冒頭にも述べましたが、私は人の名前を覚えるのが大の苦手です。それだけではなく、苦労して一度覚えても、少し会わない期間ができると、またリセットされてしまいます。ですが、私は尾田栄一郎さんの漫画『ワンピース』に出てくるキャラクターの名前ならほとんど覚えている自信があります。おそらく私は、他人にあまり興味を持っていないのだと思います。興味を持ち、関心があれば、ワンピースのようにマンガを集めて、読んだりして、その中で愛着が湧き、自然と名前を覚えるはずです。しかし、今までに自分が出会ってきた過去の人の中で、自分がその人に深く関与し、愛着を持った人と言われて思いつく人は、片手に収まるくらいですが、その人たちの名前や見た目は今になってもはっきりと覚えています。ある意味、私は多くの人に対して興味、関心を持っていないということにおいて、失礼な人間なのかもしれません。

ですが、よくよく考えてみると、これは失礼なことなどではなく、いたって自然なことなのではないでしょうか。みなさんもこのような経験をしたことはありませんか。久しぶりに会って名前を思い出せない、1度会ったことはあるけど、覚えていないなど、このようなことは多々あることかと思います。私の友人に乃木坂46の熱烈なファンがいますが、彼はメンバー全員の名字のみならず、名前まで記憶しています。これは、得意な分野、趣味の分野が対象であるため、自然に頭の中で思い出し、繰り返されるため、記憶に定着していると考えられます。しかし、彼は塾のアルバイトで受け持つ生徒の顔と名前を覚えられないと悩んでいました。これは得意な分野、趣味の分野とは違い、ほとんど日常的に思い出されることがない対象であるため、記憶に定着しにくくて当たり前です。自分が熱狂している乃木坂46への関与・愛着の程度と、一時的なつながりに過ぎない生徒への関与・愛着の程度では大きな乖離があります。また、女優の忽那汐里さんとれいわ新撰組代表の山本太郎さんでは、大多数の人が山本太郎さんの方が覚えやすいと思います。このように、覚えやすい名前と覚えにくい名前があることもまた事実です。

では、名前を覚える側、覚えられる側の双方はどのような工夫をするべきなのでしょうか。まず、名前を覚える側の努力としては、名前から覚えることができないのであれば、あだ名をつけてみてはどうでしょうか。これは私が実践していることなのですが、私もアルバイトで塾の講師をしています。例年であれば、中高合わせて1学年ずつという配分だったので、比較的生徒の名前は覚えやすかったです(それでも最低1ヶ月ほどはかかりましたが、、、)。しかし、今年は中学生2学年と高校生3学年の計5グループの学年を受け持っており、50人ほどの生徒の顔と名前を覚えなければならなくなりました。はじめのうちは、顔の認識でいうとスムーズにいったのですが、一向に顔と名前の一致がせず、そもそも名前も座席表がないとわからない状態でした。そこで、私は「もうこれは覚えられそうにない、、、。」と感じたため、まずはあだ名で呼ぶこととしました。あだ名は本人たちが学校で呼ばれている呼称や、こちらが勝手に名付けたものなどさまざまですが、なぜか私はあだ名であれば、1週間ほどで全員の顔と名前が一致しました。これもまた、相手に対する関与や愛着が関連しているのではないかと私は考えています。あだ名で呼び合うという関係性は、ある一定の距離感、立場などが確立されないと成立しませんが、一方でそれだけ親しく、相手との距離を縮められる効果もあります。すると、自然と相手に対する関与や愛着の程度も増していき、記憶に残りやすい。そして、そのあだ名から名前が連想され結びつく。私の頭の中の構造はこのようになっています。ゆえに、私はあだ名であれば、このように短期間で生徒を認識することができ、徐々にあだ名から名前へと呼び方を変えていき、今では約50人の生徒の顔と名前が一致しています。

次に、名前を覚えられる側の努力としては、強い印象を残すということが最善策なのではないかと考えます。たとえば、現在の私のゼミの担当の松岡先生は、「どこにそんな服が売られているのだろう。」「10m先にいても認識ができるな。」というような奇抜で、アーティスティックな服装をしています。そのため、その印象の強さゆえ、第1回目のゼミの時点で完璧に顔と名前が一致しました。これは、私は何の努力もしておらず、ひとえに印象が強すぎたため、すぐに名前を覚えることができたのだろうと考えています。

このように、名前を覚える、ないしは、名前を覚えてもらうという目的に対しては、双方の努力が必要不可欠であるように感じます。しかし、昨今では、電子媒体が急速に発達しており、実際に名前を覚えていなくても、インターネットやクラウド上に名前が残っているため、上記のような双方の努力が希薄化しつつあります。これは、私の仮説からみると、相手への関与や愛着もまた希薄化する恐れがあります。ただ、この恐れは一部現実化しつつあります。国民1人1人を名前によって識別するのではなく、番号により管理・把握するマイナンバー制度も、国民の諸々の管理や手続きという面では利便性があり、賛成ではありますが、人を番号で管理するということに関しては、どこか無機質で、血の通っていないように感じ、囚人のような感覚すらあります。コミュニティの希薄化、独居老人、孤独死、青少年の自殺、、、。現代社会が抱える多くの問題は他者とのつながり、対人関係が関連しています。このような大きな問題をすぐに解決できるような得策を考案することは容易なことではありませんが、名前という対象はこのような問題に歯止めをかけるキーワードになりはしないでしょうか。名前をつける側はつけられる側に多大な関与・愛着を持っており、その名前を覚える、覚えてもらうという行動にも、双方が歩み寄り、深く関与し、愛着を持ってこそ成り立つものだと私は考えています。

最後はややスケールの大きな内容にはなってしまいましたが、名前とは、人と人とを鎖状に関連づける、我々の最も身近に存在する、対人関係を構成する根幹であり、他者との関係性を脆弱なものではなく、強固なものにするために不可欠な要素であると言えるのではないでしょうか。

(5期生 ぽん吉)

【vol.64】フリーサイズの「フリー」って??(にっこう)

こんにちは。松岡ゼミ5期生のにっこうです。

みなさんは、服を買う時、何に1番注目しますか?服のデザイン、生地、値段・・・。たくさんありますが、私はまず、自分に合ったサイズかどうかに注目して選んでいます。

長くなりますが、自分の過去のことについて話していきます。私は幼い頃から体格がよく、ふくよかな体型でした。小学生の頃、私服で学校に通っていたのですが、ある日ちょっとした出来事がありました。その出来事とは、普段ズボンばかり履いていた私が、膝の少し上のスカートを履いて行った日があったんです。すると、クラスの人たちに、

「デブがスカート履くと、太い足が見えて気持ち悪い」

と言われました。面と向かってこういう事を言われたのは初めてで、どう言い返せばわからず、トイレに逃げ込んだのを覚えています。この件があって初めて、自分の体型が人と違い、変なものだと思われていたことに気づきました。その後、進学し制服を着ることになり、制服の採寸がありました。生徒が1つの場所に集まり、一斉に業者の人に採寸してもらうのですが、サンプルとして用意されている制服がSS〜LLで、私には入らなかったのです。すると業者の人が、

「こんな太ってる生徒、初めて見たわ。肥満用の制服、特注しないとね」

と、笑いながら言ったのです。するとその場に居た、他の生徒や業者の人たちも一緒に笑い始めたのです。入学後、この話は人伝いでたくさんの人に知られ、中学、高校を卒業するまでずっと体型でいじられました。1度いじられはじめると、なにをするにも体型をネタにからかわれ続けてきました。笑って乗り切ることが多かったのですが、内心は全く笑えませんでした。「痩せたら可愛いのに」、「痩せたら人生変わるよ」、「太っているのは自己管理がなってないから」と言った言葉は、飽きるほど聞きました。

こんなことがあって、私はいつしか「太っている=良くないこと」と思うようになりました。今は、地元を離れたこともあり、このような嫌な思いをすることは減りました。しかし「太っている=良くない」という風潮は、テレビや雑誌を見ていても感じることは多々あります。そこに疑問を感じて、現在は研究に取り入れ始めています。

自分の話はここまでにしまして、タイトルにも書いてある「フリーサイズ」について話していきたいと思います。服屋に行くとS、M、L、XL・・・といったサイズ展開の他に、「フリーサイズ」というものを目にしたことはありませんか?フリーサイズは広い体型の層の人でも着ることができるように作られているものです。

以前、友人(普段Sサイズを着用)と洋服を買いに行ったのですが、自分が着れそうなサイズはなさそうなので、店外で友人が買い終わるまで待っていました。すると友人が「フリーサイズがあったよ!」と呼んでくれたので、一緒に見てみることにしました。そこにあったフリーサイズの服はLサイズぐらいで、私には着ることができないものでした。フリーサイズは広いサイズの人でも着ることができるものと思っていたため、驚きました。

そこからフリーサイズの「フリー」に疑問を持つようになりました。サイズをS、M、Lのように限定するのではなく、あえてフリーにしているのにはどのような理由があるのでしょうか。ある程度の体型であれば着ることができ、汎用性が高いためだと考えられます。これは、サイズを限定しないことにって、複数のサイズの購入者を獲得することができるからでしょう。私はこのフリーサイズに当てはまらない人は、痩せ/肥満問わず、フリーサイズを買えないという疎外感を感じるのではないかと思います。フリーサイズに当てはまらないということは、一般的な世間のサイズから外れているようにも感じられ、自分の存在を否定されているようにも思います。一見、便利なような「フリーサイズ」表記ですが、あるサイズのグループのみしか認められないのであれば、サイズを限定し、表記するべきなのではないかと私は思いました。

そんな中、現在SNSでは「#MYsizeforeveryBODY」、「#マイサイズをフレンドリーに」というハッシュタグを用いて、服を買うに当たって、嫌な思いをした出来事や、服のサイズについて自分の意見を伝える動きがあります。その他にも、「#bodypositive」という「ありのままの体型を愛そう」というものもあります。自身の思いを発信するのも、他人の実際の経験談を見るのも良し、是非この機会に知ってもらえればいいなと思います。

私は、未だ過去のトラウマに近いあの出来事を忘れることはできず、呪いのようにまとわりついています。他人の体型に過度に言及するような、ルッキズムな考えは、多くのところで存在します。今後の研究では、女性の体型が年々痩せ傾向をとっているが、メディアがどのように作用しているのか、またルッキズムには男女差があるのか、実際に自身が意見を発信し、どのように人に受け取られるのかを調査していきたいと思います。体型や服のサイズで苦しむ人がこれ以上増えないことを願います。
拙い文章ですが、ここまで読んでくださりありがとうございました。

(5期生 にっこう)

【vol.63】コロナにも負けないキャバ嬢(まゆ)

こんにちは!いきなりですが、みなさんはキャバクラに行ったことがありますか? もしくは働いたことがありますか?、、、Yes!と答える大学生は何パーセントくらいいるのでしょうか(笑) 皆さんがドラマなどでみて想像を膨らませているであろう『夜職』の世界。私は、そこで生きる人に対して関心があって研究をしています!

しかし、コロナが流行り、キャバクラは緊急事態宣言で閉店してしまいました。今は営業を再開した「夜の街」でクラスターが発生し、非難の対象にもなっていますが、それによって「夜の街」への偏見が助長されることを危惧します。そこで今回は、コロナでお店がお休みになった間に、キャバ嬢がオンラインキャバクラ・配信アプリデビューしたことについて書きたいと思います!

オンラインキャバクラとは?

オンラインキャバクラとはネットでキャバ嬢と宅飲みできる新サービスのことです。具体的には、LINE 、Skype 、Zoomなどのビデオ通話アプリを介してキャバ嬢と宅飲みができるサービスです。4月に感染症拡大の影響で緊急事態宣言が全国に発令されました。それを受けて、オンラインキャバクラが続々と誕生したのです。そして、緊急事態宣言が解除され、店舗営業が再開されてからも、オンラインキャバクラは継続されています。

メリット

1. 距離が遠いキャバ嬢にも会える

出張でもない限り、自分が住んでいる地域のお店でしか出会いがないと言えます。しかし、オンラインキャバクラでは、普段会えないようなキャバ嬢に接客してもらうことが可能です!方言が可愛いと話題にもなっています。

2. 普段のキャバクラよりも比較的安い

キャバクラには、taxというものが存在します。いわゆる、サービス料です。しかし、オンラインキャバクラでは黒服さんへのサービス料や席代がないため、比較的安く楽しむことができます。

3. お試し感覚でキャバクラを体験できる

普段、キャバクラの雰囲気が苦手な人でも、1対1なら周りを気にせずに楽しめるのではないでしょうか。先ほど比較的安いと言いましたが、「この子気になってるけど喋ってみなきゃ分からないよな〜」と思っている人は、今こそ試してみるといいのでは?

デメリット

1. キャバクラ独特の空気感を味わうことができない

キャバクラ独特の大人数でワイワイガヤガヤお酒を飲むのが好きな人には向いていないかもしれません。

2. 下ろしたお酒を一緒に飲めない

あくまでオンラインキャバクラは自分でお酒を用意しないといけないので、美味しいお酒を飲むことがシンプルに好きな人には向いていないのではないでしょうか?

人気急上昇中17ライブとは?

17ライブ(イチナナ)とは、ライブ配信を通じて世界中の人たちが繋がることができるアプリです。日本でのアプリのリリース後、たった6ヶ月でダウンロード数1280%増と急成長を遂げています。(すごい普及率。。) イチナナは歌やダンスなどさまざまなエンターテインメントを披露・視聴する場としてのプラットフォームとして利用され、さまざまなエンターテインメントを発信する人/見るのを楽しみたい人、双方がイチナナ を通じてコミュニティを形成しています。主に、ギフト(投げ銭)の何割かが収入になる職業です。実際のところ事務所に入っているのといないのとでは、貰えるパーセンテージが全然違うそうです。

キャバ嬢の17ライブデビュー

大阪北新地の有名キャバ嬢、進撃のノアちゃんやみゆうちゃんがインスタのストーリーで配信予定を書いていたので、それで私も知りました。もちろん、私が働いていたお店からも何人かが17ライブデビューを果たしていて、良い成績を残していました(><) 自粛モードの中、スカウトの仕事がこのコロナで減ったのは確かです。そこで注目されたのが、17ライブとパパ活でした。現に、私にも連絡が来ましたが、どちらとも興味がなかったので無視していました。17ライブといっても小銭稼ぎくらいにしかならないのでは?と内心思っていたからです。しかし、思ったよりもどちらかを始める人が多かったのです。私も、途中から視聴者として毎日17ライブを見るくらいハマってしまいました(笑) 投げ銭するつもりがなくても、周りとの対抗心で課金してしまうのです。沼ですね(笑)

進撃のノアちゃんの17ライブ伝説

「進撃のノアちゃん17ライブ伝説」って何?と見出しで思った人は多いのではないでしょうか?(私が勝手に名付けているだけです。笑)まずは、進撃のノアちゃんの軽い紹介からしたいと思います。進撃のノアちゃんは「超最先端キャバ嬢」として多数のテレビ番組にて紹介されているので名前を知ってる人も多いのではないでしょうか?風変わりな源氏名は、たくさんのキャバ嬢から相手される客にもすぐ名前を覚えてもらえるインパクトを重視してつけたそうです。(ちなみにノアちゃんは進撃の巨人は読んだことはないのだとか。。笑) そんな進撃のノアちゃんが、なんと17 ライブで得た収益を『大阪府新型コロナウイルス助け合い基金』に全額寄付を行うと表明したのです!

「新型コロナウイルスが蔓延していく大変な世の中で、どうすれば自分が頂いた報酬が最も世の中のためになるのかと考えた結果、少しでもみなさんのためになるなら政府に寄付しようと思います。仕事させていただいてる土地が大阪なので、今回は大阪府に寄付させていただきます!自粛期間中でも17 ライブを通して画面越しのみんなに、いつも笑顔と元気を与えられるような人であり続けたいなと思っています。私を応援してもらい頂いたお金なので、やっぱりみんなに返したいという気持ちがすごく大きかった。そのためこの判断に至りました。ちょっとでもみんながこれで心が動いてくれたり、頑張って自粛しようと思ってくれれば嬉しいです!これからも私が自分自身でできることを頑張っていくので、みなさんも一緒に頑張っていきましょう!」と、自身のYouTubeチャンネルで笑顔で話していました。このような活動がコロナ収束に向けての第一歩といえるでしょう。

キャバ嬢が17ライブを配信するメリット

これは、オンラインキャバクラに繋がると考えて良いでしょう。オンラインキャバクラの醍醐味である遠距離でも接客ができるということについて、果たして集客をどこで行うのか?Instagramやブログももちろんその内のツールですが、17ライブも大きな大黒柱となっていると考えることができます。見る側の立場としては、オンラインキャバクラのメリット・デメリットと変わらないと思います。投げ銭=シャンパンと考えていただけるとわかりやすいと思います。

最後に

さて、最近コロナの影響でBADに入るようなニュースばかりですが、おうち時間の過ごし方として、17ライブを活用してみてはいかがでしょうか?個人的に、ライブ配信はお金がかかることなく楽しめるので、キャバ嬢の偏見がある方もない方も、素直に楽しむための1つのツールとして試して欲しいです!意外とハマってしまうかもしれませんよ?コロナの自粛期間に、おうち時間と称してインスタライブが一時期流行りましたよね。それと同じ感覚です!百聞は一見にしかず!

(5期生 まゆ)

【vol.62】ヘアカラーは悪いこと?(りょうか)

日本には「生まれもった身体に身体加工(タトゥーや整形)を施すのはよくない」といった考えが根付いています。最近では、すごく身近になっているヘアカラーも広い意味でのカジュアルな身体加工の一つです。

みなさんは、髪の毛を染めたことはありますか?
私は、小学校の頃にはじめて髪を染めました。そして、周りの友達も染めている子が多かったので、髪を染めることについてなにも思っていませんでした。
しかし、中学校、高校となるにつれて、「髪を染めることは悪いこと」というルールに出会いました。また、それが、世間一般なのだと気が付きました。しかし、大学生になると、そのルールはなくなりましたが、世の中にその考えが残っていることに違和感を持ちました。

私は、髪の毛の色を変えると全体の雰囲気が変わることが楽しく、大学生になってからブリーチもして、赤、青、黄色、紫、オレンジ、グレーなど様々な髪色にしてきました。原色に近い色や派手な色、色落ちして金髪に戻ったときなどに、周りから「ヤンキー」や「いかつい」「すごい色(白い目)」といわれてきました。

髪の毛を染めるという行為は、おしゃれとして定着してきている部分もあり、そこまで良くないというイメージもなくなってきていますが、金髪や派手な色などの明るい髪色=ヤンキーなどといったような偏見は、いまでも残っています。学校の校則や接客業などの規則にあるヘアカラーに対する印象のみで、“接客サービスが悪い”や“髪の加工=非行”という考えを持つことは、ステレオタイプではないのかと疑問に思いました。

今回は、日本ではなぜ、黒髪がよしとされ、金髪や明るい髪色がよしとされないのかという疑問を、日本と海外の学校教育の違い、日本の文化の特徴という2つの観点から考察していきます。

はじめに実態調査として、黒髪がよしとされている考えが顕著にあらわれているのは、学校現場と接客業であると考えたので、私のバイト先と母校(中学・高校)の先生たちに、以下のような内容のインタビュー調査を実施しました。

Q1 髪色に関するルールや基準にはどのようなものがあるか
Q2 そのルールや基準がある理由
Q3 もともと地毛の明るい人も黒染めをする必要があるのか
Q4 学校、職場以外で髪を染めている人に対する印象
Q5 学校、職場で髪を染めている人に対する印象

その結果、髪を染めることに対して、飲食店は「奇抜だとお客様受けが悪い」、学校は「髪を染めることによって意識が学校以外へ向くのを防ぐため、社会のマナーを身につけるため」といった考えをもっていることが分かりました。しかし、社員や教員という立場ではなく、個人として髪の毛を染めることに対しての考えは、「個性や自由」「地毛が明るかろうと黒染めの義務はない」ということでした。私は実際、中学・高校で地毛が明るいと黒染めさせられていたので、この返答には正直驚きました。

これらの実態調査から、学校現場において、「おしゃれは意識が学校の外に向いてしまうこと」と「ヘアカラーの禁止」にはどういった関係があるのか。社会的に髪の毛は暗めがよしとするマナーがあるのか。接客業は「お客様社会」になっており、「お客様は神様」という考えから、店員の容姿はお客様にどう思われるかが最優先されているのか。「接客態度がいいこと」と「店員の清潔感などのイメージを守ること」は結びついているのか。このような疑問や仮説が生まれました。そして、「学校では」「職場では」というイメージの固定があることも分かりました。

1.日本の文化

日本人の特性として、同一のものを好んだり、異質なものを排除したりするというものがあります。これには、日本の歴史が関係していると考えます。

日本はもともと島国で、異文化とかかわることが少なく、また異文化が日本に入ってきても異文化をそのまま取り入れるのではなく、日本の文化に適合するように取り入れてきました。わかりやすい例でいうと、漢字です。もともと中国から入ってきたものですが、それを日本語として母語にしています。そして、日本の農耕社会にあった村に即せない人は村から追い出されるという「村八分」という文化や、ことわざにも「出る杭は打たれる」や「長い物には巻かれろ」、「言わぬが花」、「雉も鳴かずば撃たれまい」などがあることから、日本の歴史的文化が深く関わっているといえます。

これらの考察から、最近は身近なものになってきているヘアカラーも、日本の同調意識の歴史に比べるとまだまだ浅いので、“黒髪がよい”というイメージが残り、さらにヘアカラーが日本に普及してきたのはヤンキー文化が流行したのと同じくらいの時期だったため、金髪や明るい髪色によくない印象がついてしまっているのではないかと考えました。

2.日本と海外の学校教育の違い

学校教育に必要不可欠なものとして校則があげられます。「ブラック校則」と呼ばれる校則も最近注目されています。ブラック校則とは、眉毛と髪の毛をいじってはいけない、地毛が茶色かったりくせ毛があったりしたら事前に証明手続きをしなければならない、日焼け止めクリームを化粧扱いして禁止する、などといった校則のことです。それに加え、学校の評価や地域の方々からの目を学校側が気にすることが増えたことにより、髪色はもちろん髪型や髪の長さ、靴下の色など見た目に対する校則が増えています。多様性や自主性を広げたり、個性を見つけたり伸ばしたりするはずの学校現場で、画一化することばかりに目を向けられているのが現実です。その結果、周りと同じでなければならないという考えが根付いてしまうのです。

一方、海外の教育は、自分の考えや個性をいかにアピールできるかというところが重視されています。学校は勉強するところという考えのもと、見た目に関する厳しい校則はありませんが、成績が悪いと親の呼び出しなど勉強に関しては厳しい校則が多いようです。

以上が、わたしが2年次におこなってきた、ヘアカラーに対する偏見についての研究結果です。

みなさんは、ヘアカラーに対してどう思いますか?

(5期生 りょうか)

【vol.61】ブラックミュージックからJポップまで愛される”Just the Two of Us進行”(おしゃ)

最近、SNS上で人種差別問題についての画像や動画、#BlackLivesMatterというハッシュダグをよく見かけることはないでしょうか。人種差別問題は今にはじまったことではないですが、アメリカのミネアポリスで起きた事件をきっかけに、全米では抗議のデモが広がっています。また、先日6月2日には米音楽業界が連携して「Black Out Tuesday」と称した差別に対する抗議運動が実施されました。

Apple Musicでも、背景が黒一色になり、ブラックミュージックを流し続けるラジオを配信しました。そんなジャズやソウル、R&Bなどのジャンルに展開されるブラックカルチャー、ブラックミュージックに影響を受けた音楽家たちは数えきれません。皆さんの好きなアーティストの方々が影響を受けた音楽を、インタビュー記事などで調べてみてください。ブラックミュージックを聴いてきたアーティストも少なくないと思います。

アメリカでのブラックミュージックの誕生は、黒人の奴隷制度とともにあり、17世紀にまで遡ります。それから時は経ちましたが、黒人への差別が消えていないことが現状です。「その人々が創り出した音楽が素晴らしいから」という理由が差別をなくすべき理由ではなく、基本的人権は守られるべきであるから、差別はなくさなければならないと考えています。しかし、社会問題に向き合うきっかけが、音楽や映画など自分の愛する文化であっても良いと思います。人種差別問題やブラックミュージックについてはここでは書き尽くせないので、今回はそのほんの一部ですが、ある1曲と音楽の繋がりについて紹介します。

「Just the Two of Us」

それは日本にブラックミュージックを浸透させた1曲です。ジャズ・フュージョン界を代表するサックス奏者グローヴァー・ワシントン・ジュニアとソウル界の父ともいわれるビル・ウィザースが歌う「Just the Two of Us」(1980年)です。この曲は1982年にグラミー賞のR&B部門を受賞するなど、邦題「クリスタルの恋人たち」として知っている人もいるのではないでしょうか。注目する点は、この曲のコード進行です。コード進行とは、和音の流れであり、曲の雰囲気を作る材料のようなものです。Just the Two of Us進行は、後に数え切れないほどの曲に使われており、Official髭男dism「Pretender」やあいみょん「愛を伝えたいだとか」など、Jポップのヒット曲にも使われています。

私は小学生の頃、椎名林檎「丸の内サディスティック」を聴き、今まで聴いたことのない色気と浮遊感に衝撃を受けました。この曲もJust the Two of Us進行の有名な曲の1つで、丸サ進行とも言われています。その衝撃以降、無意識に聴いている曲は、Just the Two of Us進行ばかりになりました。音楽ストリーミングサービスを使用するようになり、シャッフル機能で流れてきたイントロがそのコード進行であれば、すぐにダウンロードし、Just the Two of Us進行の曲のみのプレイリストを作るほどになりました。また、この進行は某音楽番組では、何も考えなくても、コードをループするだけで、心地の良い曲になってしまうことから、「劇薬コード進行」「ジゴロ進行」と称されていました。多くの曲に使われ、愛されているこの劇薬コード進行の魅力は一体何なのでしょうか。

楽器は幼い頃からしてきましたが、この進行の魅力を解明するほどの音楽知識は持ち合わせていません。そのため、音楽家によるコードの解説を、自分なりに咀嚼したものを紹介します。進行の基本形は「Ⅳ△7-Ⅲ7-Ⅵm7-Ⅴm7-I7」と表記されます。この進行の中には、「サブドミナント」、「ドミナントモーション」や「ツーファイブワン」などの音楽の機能が隠されています。まず、ノーマルな音から始まりますが、そこに不安定さが加えられます。その不安定から、一気に華やかな音に向かい、その間の揺らぎがこの進行のポイントであると考えられます。さらに、期待感を持たせ、進行に戻ります。このように、短い進行の間に、さまざまな表情の響きが含まれています。その響きが、Just the Two of Us進行の魅力の1つではないかと感じました。

「1曲から100曲へ」

Just the Two of Usやその進行の曲は、私が調べた中でも、100曲ほどありました。この進行はあまりにもメジャーですので、全作曲者がJust the Two of Usを意識して作ったわけではないと思いますが、その100曲には、コード進行という共通の要素があります。また、意図的にJust the Two of Usのフレーズを使用した曲もあり、その進行で有名なThe Isley Brothers「Between The Sheets」は多くのヒップホップアーティスト達にサンプリングされました。小沢健二 featuring スチャダラパー「今夜はブギー・バック」や、tofubeats「水星」も、さまざまなカバーバージョンがあることで、馴染み深いかと思います。

このように、40年という時が経っても、1曲でジャンルを越え、音楽は派生していくのです。森見登美彦の『夜は短し歩けよ乙女』という映画化された小説に「本はつながっている」というセリフがあります。その後に、1冊の本について、その本に影響を与えた作家、その作家が尊敬した作家、その作家の本を日本で翻案した作家、と1冊の本からまた次の本へと繋がっていくというセリフに続きます。私は音楽も同じように、その1曲1曲は独立したものですが、1曲から100曲へと繋がっていると思います。

興味深いことに、星野源「うちで踊ろう」もJust the Two of Us進行なのです。本人が「色んな人が自由に演奏やダンスを重ねられる曲を」と作曲の経緯を説明したように、アーティストだけでなく、一般人もコラボ動画をSNS上に載せていて、音楽の繋がりを強く感じました。Just the Two of Usでなくとも、ましてや音楽でなくとも、自分の好きな1曲や1冊がどこに繋がっているのかを知ると、さらに深く文化を体験できるのではないでしょうか。

(5期生 おしゃ)

【vol.60】「好き」って何?(ゆり)

ブログを書くにあたって、何をテーマに書こうかととても悩みました。
私の研究テーマは「若者の不満・愚痴」というものですが、初めてのブログの題材とするには少し暗く、重たいテーマだと思い、本当に悩みました。そこで、無難に私の好きなものについて語ろうかと考えたのですが、私の好きなことや好きなものを考えたとき、アイドルであったり、漫画やアニメであったり、家族や友達のことであったり、食べること、寝ることであったり、挙げだすときりがありません。どの種類の好きについて語ろうかとたくさん考え、また悩んだ結果、「好き」とはなんだろうというゲシュタルト崩壊のようなものを起こしてしまいました。

なので、今回は具体的な好きなものについてではなく、悩むうちにわからなくなった私の中の「好き」という抽象的な感情について考えていこうと思います。

先ほども述べた通り、私は好きなものが多いです。でも、どれも「これだけは譲れない、誰にも負けない」というようなものではありません。特別人よりお金と時間をかけているわけでも、全力で追求しているわけでもないです。広く浅く、なんとなく好きというようなものばかりです。また、趣味に関してはこちらが一方的に追うものであって、その対象から見返りを逐一求めているわけではないと思うのですが、身近な人間関係の「好き」に関しては見返り、つまり相手からも好かれたい、嫌われたくない、という思いを抱く人も多いと思います。しかし、私は人から好かれるということにも特に固執しません。

もちろん、人から嫌われたいと思う人は少ないと思うし、私もどちらかというと嫌われたくはありません。でも、人に好かれたい、好きでい続けてもらおう、という思いはあまりないです。仮に好きである友達に嫌われたとしても、悲しくはなるでしょうが、そこからもう一度好かれようだとか嫌わないでくれとすがりつくということはしないと思います。来るものは拒まず受け入れるけれど、去る者についても特に追わないといった感じです。

ここで、私が考えた「好き」を皆さんに共有しておきます。私は、「好き」とはその対象に執着する、あるいはそれに関して嫉妬という感情を抱くことであると考えます。恋人同士の束縛やペアリングといった目に見える形の印、アイドルの同担拒否という文化も、ある人が好きだから起こる現象なのかなと思います。好きだから、自分がそれに対して一番でありたいと思うし、誰にも負けたくない、あるいは取られたくないという他者に対する競争心が芽生えたり、好きな対象に没頭するのだと思います。

この自分の「好き」に対する考えに基づくと、私は執着心が他の人に比べると薄いのかなと思いました。好きなアイドルや俳優がいても、その人を一番好きなのは私である、ということは一切思わないし、同じ人を好きな人、いわゆる同担を見ても、特に何も思いません。また、先述したように、もし好きな人に嫌われたとしても、傷つきはするけれどそこまで引きずらずに受け入れますし、自分を嫌っている相手があまり興味のない人であれば、どうでもいいとすら思います。

「好き」には執着心や嫉妬心が備わっているものであると上に書きましたが、好きなものに執着や嫉妬をすることは決して悪いことではないと思います。執着や嫉妬することにも体力や時間が消費されるし、それだけその対象に好意を抱いているということの表れであると思うからです。また、一般に愛情が深いと表現することも、過干渉であったり他者への牽制であったりと、好意に嫉妬や執着が混じっているものを指すと考えるからです。

ただ、私は好きな人であっても必要以上に干渉されることは鬱陶しいと感じるし、私の人間関係に口出しをされると煩わしい、面倒くさいと感じてしまうので、執着されるのは好きではないです。この部分だけを見ると、私は恋愛面においてだいぶ不向きですね(笑)。

私にも大切な友達はもちろんいるし、その人たちのことを私は確かに「好き」であり、尽くせる対象であると感じます。いやな部分があってもそれを上回るくらい良い部分を知っていたり、悲しんでいたら一緒に悲しくなったり、多少自分の身を削ってでも守りたい、元気づけたいと思えるくらいには好きだといえる子がいます。

それでも相手に嫌われたら受け入れるのは、私が執着されることを嫌いであるからかもしれません。自分がされて嫌なことを、自分の好きな人にすることが許せないという考えが、私の人に対する執着心を薄めているのだと思います。また、もしかすると、私がまだ好きである友達に直接的な敵意を向けられたことがなく、誰かにあからさまな嫌悪感を露わにされたことがない幸せな状況にいるから、このようなことが言えるのかもしれません(敵意や嫌悪感を向けられていてもそれに気づかない幸せな頭をしている可能性もありますが)。もしいつか、私が独占欲を丸出しにしてしまう対象に出会い、この人がいないと生きていけない!などと言い始めたら、その時は、私の中の執着心が強まったのだな、好きに深みが増したのだな、と温かく見守りください(笑)。

以上、私の中の「好き」という感情について考えてきましたが、考え整理する中で、「好き」というプラスである感情にも執着や嫉妬といったようにマイナスと捉えることのできるものが備わっていると気づきました。様々な技術の発達やSNSの普及に伴い、他者の動向監視などが容易くおこなえるようになった今、好きな人の周囲の人間環境を見ることも可能です。この他者に好意を寄せる「好き」というプラスである感情が、嫉妬や妬みを生み、もしかすると現代の若者の不満・愚痴にもつながってくるのではないかなと、自分の研究にも生かしていけそうな新しい発見がありました。些細な疑問からもっと研究の幅を広げていきたいと思います。

(5期生 ゆり)

【vol.59】私流 邦ロックのすすめ(さら)

こんにちは!松岡ゼミ5期生のさらです。突然ですが、あなたにとって欠かせないような音楽はありますか? 

私にとっての欠かせない音楽は、邦楽ロックです。そして好きすぎるがゆえに、ゼミでは「邦楽ロックとファンの関わり」をテーマに研究を進めています。そのため、このブログは、私が愛してやまないバンドを取り上げて、最も思い入れのある曲とともに紹介していくという、もはやただのファンの感想ですね。ですが、ここから紹介する3組と、最後に掲載したロックバンドの楽曲は、私が生きているうえで多大な影響を受けたものばかりです。少なくとも1人の人間の人生動かしてるということなので、ロックなんぞ興味ねえよという方も、騙されたと思っていっぺん聴いてみて下さい。

「チロルとポルノ」/クリープハイプ

クリープハイプはかなりの有名どころなので、「ラブホテル」や「HE IS MINE」などの表題曲をご存じの方も多いと思います。ここでおすすめした「チロルとポルノ」という曲は、クリープがメジャーデビューしたアルバム「死ぬまで一生愛されてると思ってたよ」に収録されています。

私がクリープを知ったのは、このアルバムにある「イノチミジカシコイセヨオトメ」という曲を、他の方がカバーしていたのを耳にしたことがきっかけです。その歌詞がなんとなく気になって、高校1年生の私はTSUTAYAにこのアルバムを借りに行き、ウォークマンでずっとリピート再生していました。そこからクリープにのめり込んでいったわけですが、「チロルとポルノ」は私にとっての原点であり、ずっと一番の曲です。キャッチーな曲調にのせて、切なく哀愁のある詞が歌われているところが、私の心を掴んで離さない所以です。曲中に出てくる「あたし」のやるせない悲しさを、ボーカルの尾崎さんの高音がさらに切なくさせていて、聴く度に私自身何かを思い出して、胸をぎゅっとつかまれたような感覚になります。ラスサビでの、ベースのカオナシさんとのハモリもとっても素敵で、終盤余計に気持ちが高ぶってしまいます。最近のライブでは全然やってくれない曲の一つで、私自身生で一度も聴いたことがありません。いつか生で聴きたいもんですね。

この曲に限らずクリープの楽曲は、メロディーは明るくて可愛らしいのに、歌詞を見るとどきっとするような、何か心の痛いところを突かれたように鋭い詞を歌っていることがあります。そして「痛い」と「居たい」のように、文字を見ないと分からない意味の違いや、言葉選びの独特さなど、日本語を巧みに操っているところが、尾崎さんの作る歌の魅力の一つです。またクリープは下ネタのイメージが強くなりがちですが、彼らはただ下ネタを言っているだけのバンドではありません。下ネタを下品なものとしてでなく、粋な表現でお洒落に魅せているところもまた、半端なくカッコイイんです。

「拝啓」/ teto

tetoに関しては、すすめたい曲が多すぎて、1曲に絞ることが困難極まりないです。そのためライブで聴いたときの記憶が一番鮮明に残っている、「拝啓」という曲を選びました。この曲はtetoの中ではポピュラーソングで、よくライブで演奏される曲の一つです。スピード感のある曲で、イントロから観客もコーラスをして盛り上がります。中盤も合いの手的要素あって、いつもアドレナリンが出まくって走り出してしまう曲です。そして何よりも魅力なのが、ボーカルの小池さんが「一丁前に笑い怒り怒り叫び踊り泣き合いたいというのに」という歌詞のところで、楽器が単音を刻んでいる速いリズムの上で、徐々に熱量を上げてがなる部分です。これはサビ前ですが、私の一番好きなところで、実際聴くとめちゃくちゃアツいですよ。

そしてtetoのライブの面白いところは、とにかくボーカルの小池さんがめちゃくちゃだということ。現在30歳手前で社会人経験のある小池さんは、楽器未経験だった職場の後輩の佐藤さんをベースに誘ったという、なかなか破天荒な経歴を持っています。今まで何度かライブに行ってきましたが、ライブハウスの天井の梁にぶら下がっていたり、ほとんど歌わずに暴れていたりして、演奏を放棄していたことが多々ありました。でもバラードや弾き語りになると人が変わったように切なく歌うし、めちゃくちゃアツいMCで語りかけてくれたりします。そうしてtetoのライブに行くと、彼らの音楽を浴びることで何か身体を解放することができ、重みのある小池さんの一言一言を噛み締めながら、帰りの電車で「明日も頑張ろう」と自分を鼓舞する、その数時間が一瞬にして非常に濃い体験になります。このことは、私にとって日常における栄養摂取のようなものです。もちろんtetoに限らず、他の愛するバンドにおいても言えることなので、この自粛生活中は深刻な栄養失調といったところですかね。

tetoというバンドの魅力は、そのパフォーマンス性だけに留まらず、ジャケットのデザインやグッズの完成度においても語られると私は思います。本当にセンスがいい。実は私がtetoを好きになったのも、知り合いがサブスクの画面を共有しているのを見て、「dystopia」というアルバムのジャケットの素敵さに惹かれたのがきっかけです。上の画像は、「手」というアルバムのジャケットです。イラストは、全てカドワキリキさんというイラストレーターの方がデザインされているのですが、本当に毎作素敵で、tetoの楽曲の世界観にとてもマッチしていると感じます。

「ロードショー」/ Age Factory

Age Factory(以下、エイジ)については、大学生になって聴き始めた知識の浅さゆえに多くは語れませんが、いま最も私の心を掴んで離さないバンドになりつつあります。初めてエイジを知ったのは、とあるロックフェスに、それも別のアーティスト目当てに行ったときのことです。時間に余裕があったので、ふらっとエイジのステージを見に行ったのに、気づけばノリも分からないまま真剣に見続けていました。ボーカルのエイスケさんはハスキーな声の持ち主ですが、シャウトするときの迫力がとんでもない。なので、もしエイジを聴こうと思って下さったときは、「HIGH WAY BEACH」を聴いた後に、「CLOSE EYE」を聴いてみてください。彼の歌声の色んな側面が見れて面白いです。

「ロードショー」は、ここ1年で一番聴いたんじゃないかと思えるほど、今思い入れが増しに増している曲です。まず、入りでもう感情が高ぶってしまう。聴いたらきっとわかります。そしてぐっとくるのが、「雨は止んだよ 映画でも見ようぜ」というサビ前のフレーズです。その何気ない、好きな人との会話がこの曲ではテーマになっていて、エイスケさんの優しい声が心地よく染みるのです。ラスサビ前の「じゃあさ、」という一言も、伴奏が消えて、より柔らかくリスナーに語り掛けているような体感になります。ここの部分も是非聴いてほしい!

そしてエイジをより好きになっている理由に、彼らの地元愛の強さがあります。エイスケさんはライブの演奏始めに、「どうも奈良Age Factoryです」と必ず言います。そう、奈良愛がとんでもない。メンバーはみな奈良出身で、そのことをすごく誇りにしていることが、彼らの発言や楽曲から感じられます。ちなみに「My end」という曲には、「生駒の山裾」なんてワードも登場するのです。彼らが奈良にインスピレーションを受けて、数々の詞を書いていること知ってからは、「この歌詞は奈良のあの場所を描いているのかも!」という風に、曲を聴く度に情景が広がる楽しさがあります。大学生になって奈良に通い、その中でエイジの存在を知った私にとっても、彼らのおかげで、より奈良が特別な場所に思えているのも事実です。ですから私の中には小さな決まりごとがあって、近鉄奈良の西口改札を出て階段を上り終え、地上に出るときに、エイジの「Seventeen」という曲を必ず流します。そうすると、奈良に着いたことをしっかり実感しながら、今日も頑張ろう、と清々しく歩き始められるのです。本当に、エイジは私の生活の一部です。

そして、すすめたい曲がありすぎてキリがないので、ここからは曲名とバンド名だけで紹介させていただきます。割愛しているとはいえ、本当にマストなものばかりなので、よかったら聴いてみて下さい。

「揺らぎ巡る君の中のそれ」/ 雨のパレード
「THE CHAIR」/ w.o.d.
「京都線」/ PK shampoo
「HEAVEN」/ SUP
「10号線」/ SIX LOUNGE
「金木犀の夜」/ きのこ帝国
「アキレスと亀」/ Hello Sleepwalkers(活動休止中)
「煙」/ Saucy Dog

私の文章で、少しでも邦楽ロックに興味を持っていただけたら幸いです!ではまた。

(5期生 さら)

【vol.57】興味関心は大切だと改めて思った(はせがわ)

卒論提出にあたって、私の中の快挙がございました。今までの私は、なんでも期限ギリギリ、ラストミニッツなんくるないさの精神で、最後に自分を苦しめることしかしていませんでした。ですが、卒論は卒業がかかっているため、早く取り掛かることにこしたことはないと戒めました。そして何より私は、効率も悪く、考えるのも時間がかかり、みんなより余分な時間が必要だということを重々承知していたので、私なりに頑張って取り組みした。そのおかげ(先生のおかげでもある)で、提出期間の初日に出すことができました!4回生にしてやっと少しだけ余裕を持って課題を仕上げました。これが普段からできる人を本当に尊敬します。わかっていてもできないことって山ほどありますよね、、。

そんなことはさておき、みなさんは普段の生活の中で、自国に対して誇りを感じたことはあるでしょうか。

私は留学がきっかけで、改めて日本に関心を持つことができました。こんなことから、日本人は自国に誇りを持っているのかという疑問を考えていきました。

誇りを持っている人は、データ的には少ない数値ではありませんでしたが、他国と比べると低い数値でした。これは日本人が自国や世界の出来事に興味関心が無いからではないかと考えました。実際に日本のニュースは、芸能ニュースが他国と比較してかなり多いです。オーストラリアの森林火災のニュースも日本ではほとんど報道されなかったイメージがあります。そんな中、毎日のように不倫のニュースばかり見かけました。需要はあるかもしれないけど、もっと他にみんなが知らなければならないことがあるのではないかと心から感じました。

社会問題に関心を持つことで、歴史、政治経済など枝分かれして興味を持てるかもしれません。ですが、スマホなどニュースを簡単に、そして受動的に目にすることで、知った気分になったり、日本のニュースの構成などによって、日本や世界の出来事に対しての知識や自分の意見を持てなかったりするなど、誇りを持てるかもしれない材料や機会がないのかなと感じました。

まずは何かに対して、興味関心を持つこと。そして能動的に知るということを心がけないといけないと思いました。

(3期生 はせがわ)

【vol.56】性差別とフェミニズムの日韓比較(宮本)

世の中には、男女不平等だと感じる現象がありふれている。毎日のように繰り返される性犯罪の報道、コンビニに何気なく置かれている性的な雑誌、上司に何気無く言われたセクハラ発言など、日本ではこのような行為が日常化しているのだ。どうして女性として生まれただけで、このような生き辛さを感じながら生きていかなければならないのだろうか。

普段からそんな疑問を抱きながらも、声には出さずにじっと耐えてきた女性はどれだけたくさんいるだろうか?今回、卒業論文を通して私たち女性が日常生活を送る中で受けてきた性差別がはっきりと浮き彫りになった。また、日韓で起こる意識の違いについては以下のような結果を得ることができた。

本論文では、「日本と韓国で性差別とフェミニズムに対する意識の違いが生まれるのはなぜか」という問いを立てた。

このように日韓で意識の違いが生まれる理由としては、2つ挙げられるだろう。まず1つ目は、日韓の文化の違いである。女性の理想像として「かわいい」よりも「綺麗」があげられる韓国であるが、ロリコンや性的コンテンツに対する規制や社会の目が厳しいことが、これに反映されているのだろう。反対に、日本の性的コンテンツは世界的に有名であり、日本国内でもほとんど規制がかけられておらず、国全体が寛容な態度を示している。このことが、社会的に性差別を助長する1つの要因になっているようだ。

そして2つ目は、声をあげることに慣れていて、声をあげたことによって成功体験をしている韓国に対して、声をあげることに慣れていない日本の違いである。セウォル号事件やキャンドル革命など、歴史的な出来事を経験したことによって、声をあげることに慣れている韓国であるため、今も声をあげることに抵抗がないようだ。しかし、そのような経験が少ない日本ではまだまだ抵抗を感じる女性が多く見られる。また、江南駅殺人事件をきっかけに当事者意識が強くなった韓国人女性たちは、性差別に関する書籍を手にとったり、デモに参加するなどして、少しでも現状を改善しようと自ら声を上げて動き出しているようだ。しかし、日本ではまだまだこのような動きは始まったばかりだ。それでも、#KuTooをきっかけに職場でヒールを強要しない会社が増えてきたのも現実である。

上記の理由で「日本と韓国で性差別とフェミニズムに対する意識の違いが生まれている」と考えられるだろう。しかし、日本も韓国も同じように性差別で苦しんでいる。そこで、韓国のようにその現状を受け入れて立ち向かうことで、少しずつでも変えていくことが可能になるのではないだろうか。だから私たち日本人も、もっとフェミニズムに関心を持って、男女平等のために声を上げていくことで、より良い未来を作り上げることができるのではないだろうか。

(3期生 宮本)

【vol.55】「出会いの装置」の可能性(まいまい)

私は、相席居酒屋やマッチングアプリに着目して、「男女の出会いの場と意味の変容」について卒論を書きました。なぜ相席居酒屋やマッチングアプリに着目したかと言うと、これらの新しい出会いの場や方法は、時代の流れに沿って出現したにもかかわらず、世間的には危ないもの・よくないものとして捉えられているということが気になったからです。実際に、私自身それらを利用したことがあるのですが、それを友人に話すと、とても心配されました。また、マッチングアプリで出会った人と付き合うということに対しても否定的な考えの人が多く、新しい出会いの場や方法は受け入れられにくいものであると感じました。

ではなぜ、相席居酒屋やマッチングアプリは危険で怖いものとして考えられているのでしょうか? それは、マスメディアによるイメージ操作が強く影響しているのです。2019年の大阪女児誘拐事件では、小6女児がTwitterで「家出したい」などと発信し、それを見た容疑者の男(当時35歳)が女児にダイレクトメッセージを送り犯行に及びました。この事件がテレビや新聞などのメディアで取り上げられるとき、Twitterではなく「SNS」と一括りにして考える人は少なくないでしょう。実際にTwitterというSNSが利用され、事件に発展していますが、SNSが悪いのではなく、リスク管理が十分にできていなかったことや、被害者側も加害者側も、誘拐事件に発展するような環境にいたこと自体が悪かったとも考えられるはずです。そして、もしもSNSがなかったとしても、別の方法で少女が何らかの事件に巻き込まれる可能性だって十分にあります。しかし、SNS自体が悪いものだといわんばかりに報道されていたように思われます。

また、2018年2月の大阪民泊バラバラ殺人事件は、Tinderというマッチングアプリがきっかけで起きた事件で、兵庫県に住む27歳の女性が、大阪で民泊していたアメリカ人に殺害され、頭部や胴体などをバラバラにされたというもので、非常に凶悪なものでしたが、利用されたのがマッチングアプリだったという理由で、すべてのマッチングアプリが危険であるように印象付けられた人も少なくないでしょう。

たしかに、マッチングアプリを利用する上で、危険なことも多少なりともありますが、それはマッチングアプリでなくとも起こり得る可能性のあるものであり、マッチングアプリでの出会いそのものがすべて危険であるわけではありません。しかし、メディアでは危険性のほとんどがマッチングアプリなどのSNSに潜んでいるように報道され、負のレッテルを貼られることでスティグマ化するため、われわれ情報の受け取り側は、SNSが原因であると決めつけ、嫌悪感や否定的な考えを持つようになってしまっているのではないでしょうか。

また、相席居酒屋の負のイメージについても、「夜・異性・酒」といったキーワードから連想されるものとして性的なイメージが付き纏うため、合コンでの出会いよりも、欲を満たすだけの場所やきっかけとして不純なものだと思われてしまうのでしょう。

しかし、相席居酒屋やマッチングアプリにもメリットはたくさんあります。たとえば、相席居酒屋では店側が客同士をランダムに相席させるため、普段は出会わないような、自分のコミュニティ外の人と出会うことができ、新たな世界が開けるかもしれません。恋愛だけでなく、趣味や話の合う人と出会えることだってあるでしょう。マッチングアプリを使用すれば、特定の場所に行く必要もなく、たくさんの人と出会えるチャンスが用意されています。また、自身のコミュニティ外の人と気軽に出会うことができるため、コミュニティ内での関係性に気を使うこともなく、なおかつ、あらかじめ趣味や好みの合う人もマッチングすることもできるのです。ここには書ききれませんが、相席居酒屋やマッチングアプリには他にもたくさんのメリットがあります。

これからの新しい出会いとして出現したこれらの出会いの場や方法は、本当に避けるべきものなのでしょうか? 多少のリスクはあるかもしれませんが、もっとメリットにも目をつけるべきではないでしょうか? これらの新しい出会いの装置を受け入れ、使いこなすことで、私たちは恋愛の先にあるであろうさらなる出会いを掴むことができるのではないでしょうか。いま一度、周囲の情報に踊らされることなく、出会いの装置の意義を考えてみてほしいと思います。

(3期生 まいまい)

【vol.54】日本の「自撮り文化」について印象的だったこと(エビフライ)

私は卒論で、Instagramの投稿分析やアンケート調査を通して、韓国と比較した日本の「自撮り文化」について研究をおこないました。なぜ韓国と比較したのかというと、SNOWやB612など、現在の自撮り文化興隆のきっかけともいえる自撮りアプリは、韓国のものが多く、日本の自撮り文化と密接に関わっているのではないかと考えたからです。

今回は、Instagramの投稿分析の中でも、特に印象的だったことを書きたいと思います。

この分析では、比較的自撮りの投稿が多い、女子高生を対象にしました。

その中でも、韓国の女子高生は一人の自撮りの投稿をたくさんしているにも関わらず、日本の女子高生は一人の自撮りを全くアップしていないことが印象的でした。

このことは、日韓の文化や国民性の違いによるものだと私は考えます。

韓国では現在、女性たちが声をあげる「フェミニズム運動」が盛んであったり、女性からみてもかっこいい女性である「ガールクラッシュ」なアイドルが高い人気を誇っているというように、自立した女性や自立を目指す女性が多いです。一方、日本では現在、複数人で撮影するプリクラや写真の投稿が非常に多いことから、自分が所属する集団でのつながりを重視し、友達と群れる女性が多いことが分かります。

また、韓国人は自由な自己主張を活発におこなっていますが、日本人は周りの空気を読んだ、調整的で微温的な主張をおこなっているといわれています(舘野晳,2003,『韓国式発想法』日本放送出版協会)。

このような文化や国民性の違いが、それぞれの自撮り文化にも表れているのではないでしょうか。

このように、日本で今流行っていることや日本の文化について、海外と比べてみると何か見えてくるものがあるかもしれません。

皆さんもぜひ一度、振り返って考えてみてください!!

(3期生 エビフライ)

【vol.53】失恋ソングからみる若者の恋愛スタイル(たなばた)

わたしは卒論で、1970年代から現代までの失恋ソングの歌詞を分析して、そこから若者の恋愛スタイルや失恋の原因などの変化を研究しました。

1970年代は「遠距離」が最大のハードルだったり、1990年代はバブル経済崩壊の反動で明るく前向きに別れをとらえる歌がリリースされたりと、時代によっていろんな特徴がありました。

では、現代の若者はどんな恋愛をしているのか?ある1つの曲から考察していきたいと思います。
2019年に大ヒットしたOfficial髭男dismの「Pretender」という曲をみなさんご存知ですか? 知らない人はYouTubeにMVが上がってるので、ぜひ聴いてみてください!

君とのラブストーリー
それは予想通り
いざ始まればひとり芝居だ
ずっとそばにいたって
結局ただの観客だ

この曲の歌い出しです。従来の恋愛とは、恋人たち、つまりは「2人」で作り上げていくものでした。しかし、この歌詞ではそうではありません。「ひとり芝居」や「ただの観客」というフレーズから、恋愛は自分自身のためのものになっているということが読み取れます。こういう表現が、現代の曲で多く見られました。このことから、恋愛が個人のものになっていることがわかります。恋愛は、自分を表現する一種のツールであり、ただの趣味になってしまっているのです。

さらに、「Pretender」ではこのように歌われています。

たったひとつ確かなことがあるとするのならば
「君は綺麗だ」

もし、この曲がリリースされたのが1970年だったら、「君は綺麗だ」ではなく「君のことが好きだ」だったはず。なぜ「好き」と言えないのか。答えは簡単です。現代の若者は、はっきりとフラれることを怖がり、曖昧な関係を好むからです。その事象として、セフレやハフレ、ソフレといったように、「友達以上恋人未満」な関係が多く存在します。「好き」と言ってしまったら、2人の関係は崩れてしまいます。相手が綺麗なことは事実として伝えても何も変わらないから…という理由で、曖昧で当たり障りのない言葉が選ばれているのです。

現代の若者にとって「恋愛」の意味は薄れつつあります。どこからが恋なのか、どこまでが恋なのか…スタートもゴールも曖昧になりつつあるこの現象は、まさに「愛の融解」といえます。

back numberの「僕は君のことが好きだけど君は僕を別に好きじゃないみたい」や、奥華子の「はなびら」という曲も、今どきの若者の恋愛事情を表象しているので、よかったら歌詞を意識して聴いてみてください!

(3期生 たなばた)

【vol.52】「ことば」から始まる(まえち)

先日、電車に乗っていた時に中吊り広告に目が行きました。最近流行りのマッチングアプリ「Pairs」の広告には、「じつは、食べるより作るのが好き」と話す男性と「じつは、作るより食べるが好き」と話す女性が楽しそうに映っていました。その隣には「ふたりのじつは!がふたりをつなげる。」という謳い文句が。

かつてインターネット上の出会いといえば、「出会い系サイト」を筆頭に、みだらで不潔なものだとされており、私が小学生の頃は「インターネットの知り合いと実際に会ってはいけない」と教育されましたが、電車のような公的機関でこのような広告が掲載されるようになったことは、時代の変化を感じさせます。

話は少し変わりますが、私は「ことばから読み解く女性像の変化 ー女性はどう語られ 何を語ってきたか」という卒論を書きました。昭和・平成の女性に関する新語・流行語を社会背景をふまえて分析し、女性と言葉の関係性の変化を追いました。まあ、ざっくり言うと女性史を新語・流行語の視点から考察して、女性は語られる存在から語る存在になったというのが結論になります。

そういった卒論を書いていたからか、「Pairs」の広告に目が行ったんですよね。たしかに広告には、女性が作り男性が食べるといった従来のジェンダー規範とは一線を画す台詞が、女性だけでなく男性にも使われています。これを見た時は、ここからも私の結論に結びつけることもできるな〜と考えていました。

しかし、私にはどこか引っかかるものがありました。それは強調されている「じつは」という冠詞です。「じつは」には、何となく普段は言いづらい、秘密にしているものを公開するというイメージがあり、それはこの広告において、どこか従来のジェンダー規範から外れている自分を気にしている、または普段は隠しているといったメッセージを含んでいると読み取れます。それをPairsでは隠さなくてもいいよということが言いたいのでしょうが、私には「普段はそんな自分を気にして、隠して生活しなければならない」ということが引っかかってしまいます。

LGBTといった言葉も普及した現代で、いまだ私たちは従来のジェンダー規範に縛られているのかと落胆した同時に、概念化することで従来のジェンダー規範にとらわれない世代にも差別意識を植え付けてしまうのでは、とも考えます。

私よりもっと若い子達は、多様性に重きを置かれた教育を受けてきたと思います。ランドセルも男子は黒、女子は赤といった暗黙の了解は存在せず、カラフルなものを背負う子たちは、以前よりも男女差を感じない環境で育ってきたと考えられます。もしかすると、かつてCMで使われた「ワタシつくるヒト、ボクたべるヒト」の文言がなぜ批判されたかも分からないのではないでしょうか。

そういった子たちが、広告を見ることで無意識のうちに従来のジェンダー規範にとらわれてしまうのではないでしょうか。少し言い過ぎかもしれませんが、個人の考え方の形成は育った環境による要因が大きい割合を占めます。毎日電車で通学し、その広告を眺めていれば、概念は無意識のうちに考え方に組み込まれる…ということも全く考えられないことではありません。

言葉にする、概念化するということは、あらゆるものからの解放の契機を与えていると同時に、従来の規範や固定観念に縛りつけています。言葉はその使い方によって、助けにもなり妨げにもなるのです。

人間は文字が作られる以前から、口承という形で言葉での情報伝達を行っていました。現代ではSNSを通じて、誰もが、誰とでも言葉を交わせる時代になりました。送り手の考えは、言葉を経由して受け手に伝わります。受け手がどう考えるかは、送り手の考え方がどうかよりも、送り手の言葉の使い方に大きく影響されます。言葉の使い方によっては送り手の考え方が受け手に伝わらないばかりか、誤った考えを受け手に伝えてしまい「誤解」を招いてしまいます。

そう考えると、私が「Pairs」の広告を見て「普段は本当の自分を隠して生きていかなければならない」というメッセージを受け取ったことは「誤解」だったのでしょうか。それとも送り手の意図に沿った考えだったのでしょうか。答えは分からないままですが、これを機に、皆さんも言葉の使い方について考えてみてはいかがでしょうか。

(3期生 まえち)

【vol.51】20歳で世界一周の船旅に出た話(田中麻衣花)

高校生の頃から「世界一周の船旅をする」ことが私の夢でした

私は、昨年2019年4月から8月までの約100日間かけて、世界一周の船旅に乗船しました。お店や居酒屋さんのトイレにポスターがよく貼ってある、地球一周の船旅ピースボートです。

きっかけは、私が高校2年生の頃、現代社会の先生が学生の時ピースボートに乗船したという話を聞いたことです。高校生の私は特に旅行や海外に関心があったわけではありませんでしたが、その先生の話を聞いて私は「こんなかっこいい大人になりたい」と思いました。自分のやってきたこと、経験してきたことを、自信を持って人に話す姿がすごくかっこよく見えたからです。その時から、「大学生になったらピースボートに乗る」という夢ができました。

それから4年後、大学3回生の春というタイミングで、ゼミの先生である松岡先生にも許可をいただき、晴れてピースボートに乗船するという夢を叶えることができました。

ピースボートで世界を見て感じたこと

ピースボートは毎回約1000名の乗客を乗せ、年3回世界一周クルーズを行っています。37年間休まずに船を出し続けていますが、同じ航路を通ったことは一度もなく、毎回違う国や地域を訪れます。

私が乗船したクルーズは5大陸を巡るもので、全19か国21寄港地を訪れました(寄港地とはその名の通り、寄る港の地という意味です)。

訪れた寄港地は本当にどこも魅力的で、一生にこんな経験をすることはもうないだろうなと思うことばかりでした。
特に思い出に残っている国を紹介したいと思います。

やはりエジプトです。間違いなく1番でした。
今まで写真やテレビでしか見たことないピラミッドを実際に自分の目で見ることができてすごくすごく感動しました。ピラミッドの階段状になっているところをどんどん登ることができて、写真を撮ろうと思い登っていたら、警備員に「降りろ!」と大きな声で怒られたことも今では良い思い出です。登らないようにして下さいね。

次に印象的だったのは、チリのイースター島です。
理由はピラミッドと同じになってしまいますが、小学生の時に教科書でモアイ像の作り方とその謎について読んでいたので、実際に自分の足で訪れることができてすごく嬉しかったです。余談ですが、イースター島には大きな船で上陸できないので、10人くらいの小型船に乗り換えるのですが、波が荒いと水しぶきでびっしゃびしゃになります。私はその水しぶきのせいでイースター島から帰ったその日に38度の熱でめちゃくちゃを風邪引きました。これも今では良い思い出です。

それ以外にもたくさんの寄港地を訪れましたが、いくつかツアーを取りました。
ピースボートで企画されるツアーではSDGs(持続可能な開発目標)に基づいたものがあります。そのツアーは国際平和・国際交流を目的としたNGOピースボートならではであり、ピースボートでしかできない経験だったと思います。

この写真はタヒチでのツアーの写真です。
タヒチでは、タヒチのNGOヒティタウ を訪問し、タヒチの伝統的農業を体験するというツアーです。タヒチは、正式名称を「フランス領ポリネシア」といい、現在でもフランス領の一部という扱いになっています。タヒチでは、1996年までフランスによる核実験が200回も行われていました。しかし、フランスはタヒチの人々に核についての情報を公にしていません。また、放射線による土壌汚染が原因で輸出国から輸入国となり、タヒチの経済はフランスに大きく依存するようになりました。NGOヒティタウ は、フランスがポリネシア地域を政治的・経済的にコントロールしている中、フランス政府からの援助に頼らず、地元の経済を発展させることを目的としています。

このツアーを通して、フランスといった大国が、ポリネシア地域を自国の領土としていること、その地域で核実験を行い、情報を公にしていないこと、それによってポリネシア地域の人々の心や経済がフランスに依存してしまうことを知りました。タヒチだけでなく、このような状況にある国は他にもあることを知り、自分には何ができるのか、日本という大国に住む者として、日本も同じようなことをしていないか、同じことをしないためには…と考えました。

日本にいるだけでは、きっと知ることも考えることもなかったなと思っています。多くの国や地域を、自分の足で歩き、自分の目で見るということが、全て経験といった財産へと変わり、私の自信に大きく繋がりました。また、様々な土地を自分の身で感じることで、ダイレクトに文化や価値観に触れることができました。百聞は一見にしかずとはこのことだと感じました。そして、もっともっと多くの国を自分の足で行って自分の目で見てみたいと思うようになりました。

船内生活が私を成長させてくれた

実は、一つの寄港地に1日ほどしか滞在しないのでほとんどが船内生活です。船内生活は非常に自由で、どう過ごすかは自分次第です。

私は、この船内生活が自身を成長させてくれる大きなきっかけになったと感じています。
特に、3点私の中で印象的だった出来事があります。

W F P(国際連合世界食糧計画)元アジア地域局長 忍足謙朗さん、ドキュメンタリー映画監督 森達也さん、N P Oコミュニティ・オーガナイジング・ジャパン代表理事 鎌田華乃子さん、世界的ジャグリングパフォーマーであり在日朝鮮人であるちゃんへん.さん、一般社団法人Get in touch理事長 東ちづるさんの講義が私の中で非常に印象的でした。

1つは船内での水先案内人の講座です。
ピースボートは、上記にあるように、国際平和・国際交流を目的としたNGOであるので、平和や社会についての著名人や専門家を船内に招き、毎日様々な講座を行っています。その内容は、非常に説得力があり、世界に、また社会に生きる一人の人間として知らなければならないと感じることばかりで、非常に充実した時間でした。お話を聞きながら、怒りに震えたり、悲しくて涙が出たり、心から感動したり、本当に心が動く時間でした。世界や社会の見方が多面的になっただけではなく、知識の幅が広がり、知識が0から1になったなと強く感じています。

実際に、ピースボートの船旅下船後も、関心のある事柄に自分で勉強をしています。乗船時でのきっかけが、下船後にどんどん繋がっていくのだなと思っています。私はそれをピースボートにしかできない啓発活動で、また、ピースボートの本質なのではないかと感じました。

森達也さんとの写真

2つ目は、船内の企画作りにたくさん参加したことです。船内では大きなイベントが20ほどあります。洋上運動会、夏祭り、結婚式、ダンスフェスなどです。そのようなイベントを、ピースボートスタッフと多くの乗船者が一緒に作っていきます。

私はその企画実行委員として、多くのイベント作りに参加しました。企画実行委員となることで私が学んだことは、組織の中で自分がどういう風に行動するべきなのかということです。実行委員では、リーダーや、組織の末端の役割も経験しました。リーダーとして自分はどう行動すればチームは上手く機能するのか、逆にリーダーから遠い役割の際は、どう行動すればリーダーは動きやすいのかを学びました。

もちろん、全て上手くいったわけではなく、失敗したなと思うこともありました。失敗から得たことも、すごくできる人から学んだり、逆に反面教師として得たこともありました。学生の間では様々な立場で1つのチームに所属することはないかと思います。社会人になった際に、きっとすごく重要なことを学んだのではないかと思っています。

夏祭り実行委員のみんなとの写真

最後は、多くの人との出会いです。船内では約1000人と100日間を共に過ごします。ピースボートでは、本当に様々な人がいます。年齢・性別・国籍・職業も本当に様々な人がたくさんいました。私は、ピースボートのフラットに誰にでも話しかけられる環境がすごく魅力的だと思っています。たくさんの人と出会って、関わって、相手の話を聞いたり、自分の話をしたり、すごく有意義な時間でした。

悩みや相談事があればずっと話を聞いてくれたり、夜中の3時まで自分たちの夢を語りあったり、しょーもないことでずっと笑っていたり、本当に素敵な時間でした。本当に出会えてよかったなと思える人との出会いは、私の中で最も大きな財産だと思います。多くの人との出会いは、多くの価値観に触れることでした。この人のこういうところがすごく素敵だな、私も見習わなきゃな、と人間的に成長できる場でもありました。

ピースボートで仲良くなった友達のお誕生日をみんなでお祝いした時の写真

ピースボートで得たものとは

長々と100日間に感じたことを書いてきましたが、私にとってこの世界一周の船旅は、間違いなく人生のターニングポイントとなりました。この先、どのような職業に就こうか、どんな大人になろうか、どういう風に生きていきたいかを考えるきっかけになったし、道筋にもなりました。

現在、私は、良いご縁があり、また別の形でピースボートに関わっています。そこでも素敵な出会いや、貴重な経験、学んでいることがたくさんあります。私の人生の中で、ピースボートがなくてはならない存在になりました。高校生の頃、ピースボートで世界一周をすると決めたことは、間違っていなかったと心から思っています。

ピースボートでの世界一周は、知識や人間性の視野と幅を広げ、人として成長できる経験でした。この経験をこれからも忘れずに、たくさんのことをもっと意欲的に学び、多くのことを経験し、成長していこうと思います。

(4期生 田中麻衣花)