松岡ゼミ6期生のみさきです。
私は「生きづらさを自分らしさに読み替える女性たちーSNSの整形・摂食障害アカウントにおける「生きづらさの語り」に着目して」というテーマで卒業論文を書きました。
どのような内容かというと、整形依存や摂食障害といった美容の促進がもたらした生きづらさを抱える人々(主に女性)は、どのようにその生きづらさと向き合っているのか、ということについて、主にSNSの分析によって考察するというものです。
SNS分析では、Twitter上に存在する「整形アカウント」や「摂食障害アカウント」というような、主に整形や摂食障害に特化した内容について投稿しているアカウントの投稿内容について分析を行いました。
そして、明らかになったのは、整形依存や摂食障害といった生きづらさを抱える人々は、SNS上で生きづらさを語ることによって”生きづらさを自分らしさに読み替えている”ということです。
つまり、「しんどい」「つらい」と生きづらさを語りながらも、それは自分にしかない特別な経験であるとも考えているのです。生きづらさは自分の人生の中の”特別な経験”であり”自分らしさ”でもあるのです。
私はこのテーマについて2年生のときから研究をしてきました。私には摂食障害の経験があります。その上で、もともと、この研究テーマに行きつく前に、YouTuberなどの影響力のある人が体重や行動において摂食障害にあたるような過激なダイエットの経験を発信するのをよく目にすることに対しモヤモヤを抱いていました。
このような経験を発信する人々は、同時に「危険なダイエットはやめてほしい」「真似はしないでほしい」というような注意喚起ともとれる発言をしていることが多いのです。そして、その発信を見る側も、それらを痩せ信仰に疑問を投げかけ、痩せ信仰や過激なダイエットの危険性を指摘する効果をもつものとして捉えていることが多いように思います。しかし、経験を発信する側は、純粋に「痩せ信仰への注意喚起をしたい」という動機にのみ基づいて経験を語っているのだろうか?と、モヤモヤを感じていました。
このような経験の語りは、そのような苦しみを抱えていた自分に価値を見出す行為であって、自己のアイデンティティを見出すために、その経験を語っているのではないだろうかと感じていたのです。
そして、原因不明の嫌悪感のようなものを抱いていました。私自身にも同じような病の経験があるから、その発信者が、「特別な苦しい経験をしてきたのですね」と労いの言葉をかけられることを羨ましい、ズルいと感じたのかもしれません。もしくは、病の経験を語る人が増えることによって病がカジュアル化し、その苦しみが軽視されるのでは、と考えたのかもしれません。はたまた、その人の苦しみは本人にしかわからないのに、「私の方が苦しかったのにこの程度の症状で大々的に語らないでほしい」「多くの人は病の経験を公表せずに普通に生きようと頑張っているのに」「誰しもそのような経験があっても黙っているのに、YouTuberだけが発信するのはおかしい」と謎のライバル心を抱いたのかもしれませんし…。また、摂食障害の場合、その経験をある意味で自分の努力の証と捉えるような「病の美化」に嫌悪感を抱いたのかもしれません。
明確な理由は定かではありませんが、私がそのような経験の語りに嫌悪感を抱いていたことは確かで、それが研究の大きなきっかけにもなっていました。
しかし、研究を終え、改めて考えてみると、私も研究という手段を用いて、自分が嫌悪感を抱いていたはずの発信者たちと同じような行為をしていたのかもしれないと気付きました。摂食障害の経験を周囲の人々に知られたくはないと思いつつも、誰かにはこの経験を知ってほしいと感じ、ゼミ内で話し、誰しも生きづらさを抱えているのにも関わらず、「自分のこの経験は特別なものであるはずだ」と信じて語ることは、自分がはじめ、嫌悪感を抱いていた行為そのものなのではないかと気付かされました。
自分も含め、多くの人が、自分の生きづらさは特別なものだと思っていて、それについて語りたいという欲望を持っているのではないだろうかと感じました。
私の研究は、とても主観的で自己満足色の強いものだったと思います。それは少し反省しているところでもあり、あまりにも”自分が気持ち良くなるための研究”すぎたのでは…とも感じますが、最終的には、当初は嫌悪感すら抱いていた「他者」の行為の意味を理解することにもつながったといえるのではないかと思います。
先程も述べたように、私の卒業論文は自己満足色の強いものでした。
これまで私は、摂食障害の経験や「摂食障害の私」が自分にとって大きなものでありながらも、その経験を誰か(友達や知り合い)には知られてはならないと感じていたし、知られると嫌われるのでは…と考えていました。だから、授業課題などでも「興味のあるトピック」として痩せ信仰や摂食障害、美容について選ぶことは避けていました。
しかし、松岡先生は研究テーマを設定する際などに、「自分にとって切実な問いが何かを考えればよい」と仰っていました。自分にとって切実な問いとは何なのか。自分の気持ちに正直になり、切実な問いをカモフラージュすることもなく研究テーマや問いを決めた結果、熱量だけには自信がある卒業論文を書くことができたのではないかなと思います。
きっとこの先、こんなに自分語りを許されることはもうないだろうな…「大学生」という立場、「卒業論文」という名目で、これほどまでに自分語りをすることや、自分にとって切実な問いと向き合うことが許されることはすごく幸せなことだな、と日々感じていました。
私は、論文を書いたり研究をしたりするのは得意ではないけれど、「面倒だな」と思うことなく最後まで卒業論文に取り組めたのは、間違いなく”自分にとって切実な問い”に嘘をつかずにテーマを決めたり意見を出したりできたからだと思います。
きっと、「卒業論文どうしようか?」「どこのゼミに入ろうか?」と考えながら今このブログを読んでくださっている方の中には、「でもどんなゼミであれ、テーマであれ、卒業論文を書くこと自体が面倒なんじゃないかな…」と思っている人もいるのではないかなと思います(そんなことなかったらごめんなさい!でも少なくとも私はそうでした!笑)。
しかし、自分にとって切実な問いに正直になれば、熱量が有り余るくらい溢れて、卒業論文も面倒なんかではないということを実感しました。これまで、「自由研究」のようなものが面倒だったのは、本当に自分が興味のあることは何なのかを考え抜かずにテーマを決めていたり、切実な問い・気持ちに蓋をしたりしていたからなのだと気付きました。
また、卒業論文を書くにあたり、ゼミの時間に意見を出し合ったりしていると、誰しも生きづらさを抱えていて、他者の痛みは分からないのだなということも知りました。「そんなこと今更知ったの!?」というほど当然のことではありますが、「人の痛みは分からない」と自覚することってすごく大切なのではないかなと思います。人の気持ちに寄り添ったり、理解しようとしたりすることは重要だし、その努力を怠ってはならないとは思うけれど、最大限の努力をしても理解することとができない、味わうことができない他人の痛みがあることを自覚しながら生きることって大切だなと強く感じるようになりました。
客観性を保ちつつも、自分視点や主観を大切にしながら意見を出し合えるゼミだったからこそ、自分と向き合いつつ他者の主観も大切にできるようになったのではないかなと感じます(←自画自賛のようになってしまいましたが…。「自分」しか見えておらず、視野が狭く、自分が他者からどう思われているかを過度に気にする自意識過剰な私にとっては大きな成長でした)。
他者の目線を悪い意味で意識しすぎることなく、本当に自分にとって切実な問いを研究することができたのは、松岡先生が、主観や自分にとっての切実さを大切にすべきだと強調してくださったからです。
ちなみに、実際に卒業論文を書く際は、「おわりに」の締め方にとても悩みました。なかなか良い締め方が思い浮かばず、ボロボロの文章でしたが、知識不足である上に視野の狭い私の考えも聞いてくださり、1つの主観として切り捨てないでいてくださり、その上でたくさんご指導いただいた松岡先生には感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。
(6期生 みさき)