コインランドリーを使ったことがない人の中には、「薄暗い」「不潔」といった負のイメージを持っている人が少なからずいるのではないだろうか。また、「家に洗濯機がない人が仕方なく行くところ」だと思われがちである。そうだとすれば、大半の家庭が洗濯機を所有するようになった現在、コインランドリーの需要は低下し、衰退に向かっているように思われるかもしれない。
もちろん、そのイメージに当てはまるコインランドリーがあったり、家に洗濯機がないため仕方なく行ったりする場合もある。しかし近年、コインランドリーの様相は実はポジティブな方向へ大きく変化している。店内は明るく清潔感があり、加えて服だけでなく靴や布団などを洗うことも可能である。そして、コインランドリーは毎年増加し続けている。そして、新しい業態のコインランドリーとして、カフェと併設されているものも登場し、さらにはファミリーマートにコインランドリーが併設されるようにもなった。そこでは、「洗濯」だけではない新たな機能が求められているように思われる。
コインランドリーにおけるこのような変化は、現代の日本社会との関わりの中で生まれたものだろう。では、コインランドリーは現代の日本社会とどのような影響を及ぼしあい、どのような関係性を結んでいるのだろうか。
その問いを社会学的な視点から明らかにすることが本研究の目的である。いまのところコインランドリーに関する学術的な先行研究は見当たらないが、本研究でコインランドリーという対象に社会学的にアプローチするのは、経済学や経営学などのマーケティング的な視点だけでは見えてこない、現代の日本社会での人々の暮らしをより鮮明かつ多角的に明らかにできるからだ。
人々は、コインランドリーに「洗濯」という機能だけを求めて足を運ぶわけではないようだ。コインランドリーは、「洗濯」という機能だけでなく、それを超える諸機能も持つようになっているのかもしれない。
つまり、本研究における問いは大きく次の二つに分かれる。一つ目は、新しいコインランドリーは家事をいかに変えるか。二つ目は、新しいコインランドリーは単なるコインランドリーとしてではなく、どのような空間として機能するようになっているのか。
コインランドリーは、高度経済成長期の日本において普及していった。そこで、人々のコミュニティのあり方に変化があったと考えられる。かつて、主婦たちは井戸の周りに集まり世間話で盛り上がった。それがいわゆる「井戸端会議」だ。洗濯をする水場に集まった人々の間には会話があふれていた。しかし、洗濯機なるものが家庭内に普及すると、その様相は一変する。洗濯が家庭に内部化されたことにより、井戸端会議とともに人々の会話は減少していった。このように、洗濯という家事のあり方の変化のなかに、コミュニティの変化が隠れていたといえる。
本研究においては、近年増加傾向にあるコインランドリーのいくつかを、例として挙げている。様々な特徴や共通点があったが、中でも注目すべきは、カフェが併設されたコインランドリーで洗濯よりも会話が中心となっていたことだ。しかし、そこでは、あくまで一緒に来た家族や友人同士で会話がなされるだけである。ところが、喫茶ランドリー(東京都墨田区)では、イベントなどを通して、もともとは見知らぬ人同士がつながる場としても機能している。それは、学校でも職場でもない第三の居場所であるという意味で「サードプレイスとしてのコインランドリー」の可能性を示唆しているようにも見える。
現代の日本には、「家事を内部完結させる」という理想が存在するが、他方では、主婦をターゲットとしてコインランドリーは増加し続けている。なぜ「家事を内部完結させる」という美徳があるにも関わらず、コインランドリーが増加しているのか。
理由は、「内部完結されるという理想的な家事」が破綻しつつあるからである。これには、二つの段階がある。
一つ目は共働きの世代が増え、家事を内部化することが物理的に難しくなってきたことだ。しかし、家事の完全な外部化には、経済的な負担が伴う。さらに、「内部化の美徳」に縛られた日本人は、外部化に対する抵抗感が拭えない。そのため、家事の「半外部化」が現実的であり、それを実現するのがコインランドリーであるのだ。コインランドリーの利用は、あくまで利用者が行う作業であるため、「半外部化」だといえる。一方、クリーニングは他者に委託してしまうので、洗濯の「外部化」と言えるが、すべてをクリーニングへと外部化するのではなく、コインランドリーを利用することで「半外部化」が進んでいるのが実状である。
二つ目は精神的にも内部にとどまれなくなったことだ。近年増加しているコインランドリーは人とつながりやすい。大型の洗濯機は家族との協力を必要とするし、カフェの併設されたコインランドリーでは洗濯よりもおしゃべりをするために利用することもできる。井戸端会議を形成していたような、昔から存在する主婦のつながり志向に、新しいコインランドリーの業態がマッチしているようだ。いまだに「家事を内部完結する」という理想は根強い。しかし、これからのコインランドリーが、家事の「半外部化」を後押ししてくれるかもしれない。
かつて、人々は井戸の周りで洗濯をし、そこで自然と会話が生まれ、井戸端会議がおこなわれた。だが、一度は家事が内部化され、そのコミュニティは消失した。しかし現代のコインランドリーにおいては、カフェとしての利用も目立つため不完全なかたちではあるが、人々は昔と同じように洗濯をするための水場でのコミュニティを取り戻しつつある。これは、「21世紀版井戸端会議」と表現できるかもしれない。
しかし、コインランドリーで直接的なつながりを得る人々がいる一方で、一人でスマホを触り時間をつぶしている人もいる。一見、一人で孤独にも見える。しかし、そのとき、コインランドリーはスマホによって多孔化され、様々な空間とつながる。そのように複雑な空間と化しているため、「孤独」と一言で片付けることはできない。
コインランドリーを利用することは、洗濯を「半外部化」することである。コインランドリーを通して洗濯は再び外部化され、そこに再びコミュニティが生まれた。そしてコインランドリーは、スマホの使用により多孔化された一方で、人々が集まり、直接会話をする空間にもなった。
新しいコインランドリーは、スマホを使って一人で時間をつぶすこともできるし、人とつながることもできる新たな「居場所」となりつつあるのだ。南後由和『ひとり空間の都市論』(2018、ちくま新書)によると、都市とは、多様な「ひとり」が異質性を保ったまま共存するための実験室である。つまり、都市の中では、「ひとり」でいることも「みんな」でいることも正常だということだ。そのような意味では、一人になることもでき、他者とつながることもできるコインランドリーという空間は、理想的な都市空間であるのかもしれない。
コインランドリーから見えてきた日本社会は、「一人でいたい」人と「他者とつながりたい」人が共存している社会だった。そして、主婦たちは家事の内部化に理想をいだきつつも、共働きであるがゆえにそれがうまくできない。洗濯では、クリーニングで完全に外部化せず、コインランドリーで半外部化をするのが現状だ。コインランドリーから見えてきた家事は、そのようにして主婦を困惑させる存在だった。
コインランドリーは、洗濯という家事労働を「半外部化」することを可能にする空間であると同時に、ひとり空間でもあり、人々が集まる空間でもあり、つまりは人々のライフスタイルが多様化した現代社会にマッチした存在である。今後、都市で暮らす共働き夫婦や単身者が増加していくなかで、コインランドリーのあるライフスタイルが浸透し、そうしたコインランドリーの役割はさらに増していくのではないだろうか。
(2期生 かんばら)