【vol.40】コインランドリーから見える日本の社会と家事(かんばら)

コインランドリーを使ったことがない人の中には、「薄暗い」「不潔」といった負のイメージを持っている人が少なからずいるのではないだろうか。また、「家に洗濯機がない人が仕方なく行くところ」だと思われがちである。そうだとすれば、大半の家庭が洗濯機を所有するようになった現在、コインランドリーの需要は低下し、衰退に向かっているように思われるかもしれない。

もちろん、そのイメージに当てはまるコインランドリーがあったり、家に洗濯機がないため仕方なく行ったりする場合もある。しかし近年、コインランドリーの様相は実はポジティブな方向へ大きく変化している。店内は明るく清潔感があり、加えて服だけでなく靴や布団などを洗うことも可能である。そして、コインランドリーは毎年増加し続けている。そして、新しい業態のコインランドリーとして、カフェと併設されているものも登場し、さらにはファミリーマートにコインランドリーが併設されるようにもなった。そこでは、「洗濯」だけではない新たな機能が求められているように思われる。

コインランドリーにおけるこのような変化は、現代の日本社会との関わりの中で生まれたものだろう。では、コインランドリーは現代の日本社会とどのような影響を及ぼしあい、どのような関係性を結んでいるのだろうか。

その問いを社会学的な視点から明らかにすることが本研究の目的である。いまのところコインランドリーに関する学術的な先行研究は見当たらないが、本研究でコインランドリーという対象に社会学的にアプローチするのは、経済学や経営学などのマーケティング的な視点だけでは見えてこない、現代の日本社会での人々の暮らしをより鮮明かつ多角的に明らかにできるからだ。

人々は、コインランドリーに「洗濯」という機能だけを求めて足を運ぶわけではないようだ。コインランドリーは、「洗濯」という機能だけでなく、それを超える諸機能も持つようになっているのかもしれない。

つまり、本研究における問いは大きく次の二つに分かれる。一つ目は、新しいコインランドリーは家事をいかに変えるか。二つ目は、新しいコインランドリーは単なるコインランドリーとしてではなく、どのような空間として機能するようになっているのか。

コインランドリーは、高度経済成長期の日本において普及していった。そこで、人々のコミュニティのあり方に変化があったと考えられる。かつて、主婦たちは井戸の周りに集まり世間話で盛り上がった。それがいわゆる「井戸端会議」だ。洗濯をする水場に集まった人々の間には会話があふれていた。しかし、洗濯機なるものが家庭内に普及すると、その様相は一変する。洗濯が家庭に内部化されたことにより、井戸端会議とともに人々の会話は減少していった。このように、洗濯という家事のあり方の変化のなかに、コミュニティの変化が隠れていたといえる。

本研究においては、近年増加傾向にあるコインランドリーのいくつかを、例として挙げている。様々な特徴や共通点があったが、中でも注目すべきは、カフェが併設されたコインランドリーで洗濯よりも会話が中心となっていたことだ。しかし、そこでは、あくまで一緒に来た家族や友人同士で会話がなされるだけである。ところが、喫茶ランドリー(東京都墨田区)では、イベントなどを通して、もともとは見知らぬ人同士がつながる場としても機能している。それは、学校でも職場でもない第三の居場所であるという意味で「サードプレイスとしてのコインランドリー」の可能性を示唆しているようにも見える。

現代の日本には、「家事を内部完結させる」という理想が存在するが、他方では、主婦をターゲットとしてコインランドリーは増加し続けている。なぜ「家事を内部完結させる」という美徳があるにも関わらず、コインランドリーが増加しているのか。

理由は、「内部完結されるという理想的な家事」が破綻しつつあるからである。これには、二つの段階がある。

一つ目は共働きの世代が増え、家事を内部化することが物理的に難しくなってきたことだ。しかし、家事の完全な外部化には、経済的な負担が伴う。さらに、「内部化の美徳」に縛られた日本人は、外部化に対する抵抗感が拭えない。そのため、家事の「半外部化」が現実的であり、それを実現するのがコインランドリーであるのだ。コインランドリーの利用は、あくまで利用者が行う作業であるため、「半外部化」だといえる。一方、クリーニングは他者に委託してしまうので、洗濯の「外部化」と言えるが、すべてをクリーニングへと外部化するのではなく、コインランドリーを利用することで「半外部化」が進んでいるのが実状である。

二つ目は精神的にも内部にとどまれなくなったことだ。近年増加しているコインランドリーは人とつながりやすい。大型の洗濯機は家族との協力を必要とするし、カフェの併設されたコインランドリーでは洗濯よりもおしゃべりをするために利用することもできる。井戸端会議を形成していたような、昔から存在する主婦のつながり志向に、新しいコインランドリーの業態がマッチしているようだ。いまだに「家事を内部完結する」という理想は根強い。しかし、これからのコインランドリーが、家事の「半外部化」を後押ししてくれるかもしれない。

かつて、人々は井戸の周りで洗濯をし、そこで自然と会話が生まれ、井戸端会議がおこなわれた。だが、一度は家事が内部化され、そのコミュニティは消失した。しかし現代のコインランドリーにおいては、カフェとしての利用も目立つため不完全なかたちではあるが、人々は昔と同じように洗濯をするための水場でのコミュニティを取り戻しつつある。これは、「21世紀版井戸端会議」と表現できるかもしれない。

しかし、コインランドリーで直接的なつながりを得る人々がいる一方で、一人でスマホを触り時間をつぶしている人もいる。一見、一人で孤独にも見える。しかし、そのとき、コインランドリーはスマホによって多孔化され、様々な空間とつながる。そのように複雑な空間と化しているため、「孤独」と一言で片付けることはできない。

コインランドリーを利用することは、洗濯を「半外部化」することである。コインランドリーを通して洗濯は再び外部化され、そこに再びコミュニティが生まれた。そしてコインランドリーは、スマホの使用により多孔化された一方で、人々が集まり、直接会話をする空間にもなった。

新しいコインランドリーは、スマホを使って一人で時間をつぶすこともできるし、人とつながることもできる新たな「居場所」となりつつあるのだ。南後由和『ひとり空間の都市論』(2018、ちくま新書)によると、都市とは、多様な「ひとり」が異質性を保ったまま共存するための実験室である。つまり、都市の中では、「ひとり」でいることも「みんな」でいることも正常だということだ。そのような意味では、一人になることもでき、他者とつながることもできるコインランドリーという空間は、理想的な都市空間であるのかもしれない。

コインランドリーから見えてきた日本社会は、「一人でいたい」人と「他者とつながりたい」人が共存している社会だった。そして、主婦たちは家事の内部化に理想をいだきつつも、共働きであるがゆえにそれがうまくできない。洗濯では、クリーニングで完全に外部化せず、コインランドリーで半外部化をするのが現状だ。コインランドリーから見えてきた家事は、そのようにして主婦を困惑させる存在だった。

コインランドリーは、洗濯という家事労働を「半外部化」することを可能にする空間であると同時に、ひとり空間でもあり、人々が集まる空間でもあり、つまりは人々のライフスタイルが多様化した現代社会にマッチした存在である。今後、都市で暮らす共働き夫婦や単身者が増加していくなかで、コインランドリーのあるライフスタイルが浸透し、そうしたコインランドリーの役割はさらに増していくのではないだろうか。

(2期生 かんばら)

【vol.39】地図とジェンダー(ひ)

こんにちは。私は「地図とジェンダー ――なぜ女性は地図が読めないとされているのか」というテーマで卒業論文を書きました。

世の中には、さまざまなことに対して「男らしさ」や「女らしさ」といったジェンダーに関する偏見があふれていますが、地図や方向感覚に関しても「地図は男性が読むもの」「女性は地図が読めない」といったイメージが定着しています。しかし、一方で、近年は地図と女性の結びつきが注目されつつあり、地図と性別の結びつき・関係が変化しているように思われます。したがって、少なくとも現在では、「地図は男性が読むもの」「女性は地図が読めない」というイメージは、ジェンダー・ステレオタイプにすぎないのではないでしょうか。

そこで、社会に浸透しているジェンダー意識や日本社会の歴史から、地図と女性の関係性について考え、なぜ「女性は地図が読めない」「女性は方向音痴」といった固定観念が存在しているのか、そして、そのような固定観念はどのように変化してきているのかを明らかにすることを目的に卒業論文を書きました。

すでに先行研究では、方向感覚に影響するといわれている「空間能力」の男女差について書かれているので、この論文ではおもに「地図利用」に関するジェンダー・ステレオタイプの社会的な背景や要因について、社会学的に考察しています。

地図の起源や歴史を振り返ると、地図は男性社会の中で利用されてきたことがわかります。たとえば、かつて地図は、戦争に参加する男性、権力者や支配者、科学者によって利用されており、地図は女性にとって身近なものではありませんでした。また、男性は外に仕事に出て女性は家の中で家事をする、という性別役割分業が定着している社会では、女性は外に出る機会が少ないために、地図を使う必要がなかったということも考えられます。

しかし、はじめに書いたように、近年は地図と女性の結びつきが注目されつつあります。そのきっかけとして考えられるのは、1970年代に「アンノン族」がブームになり、女性にとって親しみやすいイラストマップがファッション誌に載ったこと、2000年代以降の「女子」ブームを受けて「女子旅」が注目され、「おしゃれでかわいい」作りでコンパクトなマップやガイドブックが登場するようになったことなどが挙げられます。

ここまで地図の歴史や利用について述べてきましたが、では、現在は地図利用に関して男女差はあるのでしょうか。 地図の利用実態やジェンダー意識などについて一般的な傾向を分析するため、地図や方向感覚に関するアンケート調査をおこなったところ、地図の利用頻度について男女差はみられませんでした。この結果には、デジタル地図の普及が関係しているように思います。かつて地図の利用者はおもに男性でしたが、現在はデジタル地図の普及により、性別関係なく地図を利用できる環境が整ったことで、地図の利用頻度の差が縮まったのではないでしょうか。

しかし、地図の利用頻度に男女差はみられないものの、「地図は男性のもの」というような地図や地図利用に対するジェンダー意識は根強く残っていることがわかりました。そのようなジェンダー意識が残っているのは、「男らしさ」あるいは「女らしさ」というアイデンティティを守るためなのではないかなと思いました(あまり自信がない考えです)。

続いて、インタビュー調査を実施しました。 地理や地図の魅力を発信する活動をしている、お茶の水女子大生による団体「地理×女子」のみなさんに調査の依頼をしたところ、ありがたいことに引き受けてくださいました。「地理×女子」のみなさんへのインタビュー調査から、男性中心の地図業界の中でマイノリティである女性が活動することについて考察しています。

近年、地図と女性の結びつきが注目されるようになったのは、これまでの「地図は男性のもの」というイメージとは反対で、意外性があるからだと思います。インタビュー調査の中で、地理×女子の活動をしていると「女性らしい視点」を求められることがあり違和感を覚えたメンバーもいたというお話があったのですが、地図と女性の結びつきが注目されるときに「女らしさ」が強調されてしまうと、「女らしさ」のステレオタイプなイメージがさらに定着してしまうおそれがあります。そのため、「女らしさ」を過度に強調することなく、まずは地理や地図が男性だけのものではないということが広まって、最終的には「地図好きな女性もいる」というよりも「地図好きな人は性別関係なくいる」ということが当たり前になれば良いのではないかと思います。

かなりはしょっていますが、卒業論文の内容はこんな感じです。自分の頭の中にある考えをうまく説明できなかったことに対していまだにモヤモヤしているのですが、これは研究に限らず日常生活の中でも感じていることなので、今後生きていく中で改善できたら良いなと思います。

そして、「地図とジェンダー」というテーマはもともと関心があったことなので、今後どのように地図と性別の関係が変化していくのかとても気になっています。卒業論文は書き終わりましたが、これからも考えていきたいです。

(2期生 ひ)

【vol.38】地域イベントにおけるコンフリクト(よしだ)

卒業論文を書き終わりました。人それぞれだとは思いますが、私は人生で一度書けたらもう満足だなと思いました。反省点やもっとできたことはとてもたくさんありますが、大学生活でずっと続けてきたテーマを、この卒業論文で締めくくることができてよかったです。

私の卒業論文のテーマは「地域イベントにおけるコンフリクト――グルメイベントから見る地域イベントの現状と課題」です。以下は私の卒業論文の要約になります。

一概にイベントといってもその種類は様々で、「イベント」という言葉に明確な定義はない。イベントの中でも地域のPRやコミュニケーションなど、地域活性化を目的としたイベントを地域イベントという。地域イベントの内容、規模などは様々であるが、本研究では地域のグルメイベントに焦点を当てる。住民や地域団体、行政が連携して、「食」をテーマに開催する集客イベントは全国で広がりを見せており、イベントという大枠の中で「食」をテーマにすることはトレンドになりつつある。

地域イベントにはメディアなどで取り上げられる成功の裏に、様々な問題と課題がある。しかし、そのような地域イベントの問題や課題についての先行研究は少ない。その中で、本研究では、グルメイベントに着目し、地域イベントの「成功」とはいったいどのようなことをいうのか、イベントがもたらす一過性の地域活性化は単なる利益追求ではなく、本当の意味での地域活性化といえるのか、という問いを明らかにする。また、地域イベントをおこなうことによって起こる様々なコンフリクトを明らかにし、地域イベントの現状を考察することを目的とする。

地域活性化を目的とした地域イベントでは、成功なのか失敗なのかを目に見える形で判断するのは難しい。多くの地域イベントの評価基準が人数と売り上げになってしまっている。地域イベントは人と金が集まれば成功といえるのだろうか。もちろん人と金も重要な問題ではあるが、それだけでは地域イベントの本来の目的を達成できたとはいえない。成功したかどうかの評価基準として、長期的に見てまちの活性化にどの程度寄与しているか、このイベントでネットワークがどの程度広がったか、どの程度テーマについての情報や技術が蓄積されたのかなどが考えられるが、現在のところ評価が数量化されていない。なにを目的にするかによって評価基準も当然違ってくる。地域イベントの明確な評価基準づくりが今後の地域イベントに必要なものなのである。また、地域が求めるものと人々がおこなうイベントの需要と供給のバランスが大切であり、そのために、ターゲットと目的を明確化したうえで地域イベントをおこなっていかなければならない。数値データでは測れない地域独自の評価基準を定め、その地域にあった地域活性化をおこなっていかなければならない。

また、イベントをおこなうことによって生じるコンフリクトが、地域イベントにとって大きな壁となっている。コンフリクトとは、相反する意見、態度、要求などが存在し、互いに譲らずに緊張状態が生じることである。例えば、その地域に住む人全員がイベントに賛成しているわけではなかったり、地域住民と市政のイベントに対する考え方の違いであったり、様々なコンフリクトが生じている。地域の人々が主体となっておこなうイベントは人々の協力が必要不可欠である。そのためコンフリクトは最小限に抑えなければならない。

このように、地域イベントという手段でまちや人を動かすということは、様々な問題を引き起こすきっかけにもなってしまうのである。

本研究では、大門まちなかバーベキュー(商店街を利用したバーベキュー地域イベント)、新大宮バル(大宮駅周辺のお店の食べ歩き地域イベント)、もいちど夜市(商店街閉店後に夜市を開催する地域イベント)、3つの地域イベントについて代表者や関係者に聞き取り調査をおこなった。結果、インタビューした人々は、いずれも「イベントは手段である」と言っていた。地域イベントは手段であり、人を集めるだけでは意味がない。目的の達成が重要であり、本当の意味でのイベントの成功につながる。調査したイベントに共通して見られた課題、そのイベント独自の課題、また地域の課題など様々である。課題の解決とはならなくとも、繰り返すことで変化は生まれる。

現在、地域ベントは課題や問題点が多く、成功例も少ない。これまで述べてきたように、地域イベントをおこなえば、地域の人と自治体の間の意識の違いから生じるコンフリクトや、具体的な評価基準が定まっていないために利益と負担の間に生じるコンフリクトなど、様々なコンフリクトが生じる。コンフリクトをなくすことは非常に難しく、利益と負担のバランスが重要となる。地域イベントの種類によって生じるコンフリクトは違ってくるが、そのコンフリクトを最小限に抑えるために、地域イベントに対する意見や技術の共有をおこなっていかなければならない。また、地域イベントにおける利益は数値化できる経済的なものだけでなく、イベントづくりの知識や技術、人々のコミュニケーションなど、主催者自身が自分で見出していくことができる。金銭的な利益は目に見えるためわかりやすいが、地域イベントは目に見えない利益を自分自身で作り出すことができ、負担と利益のバランスはその人次第で変えていくことができるのである。このようにして、主催者自身が負担を上回る利益を見いだせるかどうかが重要である。

以上のように、地域イベントについて研究を進めると、表向きは楽しいイベントですが、その背景にはたくさんの課題や人々の苦労があることがわかりました。問題の解決などはとても難しく、地域イベントを成功させることはとても困難なことなのです。4年という大学生活の中で「地域イベント」というテーマを見つけられて、何年も継続して研究をすることができて、自分自身の成長にも繋がりました。卒論はもう書きませんが、地域イベントというテーマの中で今後も何か挑戦していけたらなと思います。

(2期生 よしだ)

【vol.37】ゲーム好きはゲームセンターを訪れよう(ふじたけ)

みなさんはゲームセンターに行きますか?私はしょっちゅうゲームセンターに通っています。ゲームセンターにはそこでしか得られないつながりがあるからです。しかしながら、昔ながらのゲームセンターのイメージといえば、薄暗いし、不良とかヤンキーとか怖い人がいるんじゃないかと思われるかもしれません。でも現実は違っていて、今やゲームセンターにいる人はゲームオタクとか暇つぶしの高齢者ばかりです。では、ゲームセンターに不良がいないとして、訪れる人はわざわざお金を払って、なぜ外でゲームをしているのか。その理由を伝えていきたいと思います。

ゲームセンターのはじまりは、1978年の「スペースインベーダー」というゲームの登場がきっかけでした。娯楽が少なかった当時は、お金をかけて遊ぶという緊張感が人気で、その影響でゲームセンターの店舗数も急増しました。しかしながら、ゲームセンターのゲームは暗くないと画面が見づらいため、店舗は薄暗く、ゲーム代のために盗みが横行するなど、不健全な場となってしまいました。その当時のイメージが現代でも残っているのかもしれません。その後、1984年に風俗営業法の成立によって、営業時間、騒音などが厳しく規制され、子供の夜間入店も禁止になり、徐々に健全化が果たされます。

その後、家庭用ゲームのファミリーコンピューターの登場から、ゲームセンターの売り上げは徐々に減少していき、現在では、ゲームをするだけならゲームセンターに行かなくても家庭で十分楽しめるようになりました。では、ゲームセンターは昔に比べると店舗数が減少したにもかかわらず、なぜ経営が成り立っているのでしょうか。その秘密は昼間のゲームセンターにあります。学生も社会人も学業や仕事に勤しんでいる間、ゲームセンターの売り上げを支えているのは、高齢者の人達の存在です。高齢者が主に遊んでいるゲームとは、メダルゲームです。このゲームが高齢者に人気の理由は、少額のお金で長時間遊べる点です。類似する娯楽としては、パチンコが近いですが、パチンコと比較しても格段に安く遊べます。また、冷暖房完備で、頭を使うため認知症予防にもなる点も魅力の一部です。その他にも、高齢者向けの割引があったり、コミュニケーションスペースを設置している店舗もあり、現在のゲームセンターは高齢者が遊ぶためのサービスが充実した場所だといえるでしょう。

では、若者にとってのゲームセンターの魅力は何でしょうか。ゲームセンターでゲームをすることではじめに行われることが、「暗黙のコミュニケーション」だと考えられます。暗黙のコミュニケーションとは、直接的なコミュニケーションではなく、その場で誰かが同じようなことをしているのを互いに身体レベルで確認し合うことをいいます。つまり、ゲームセンターにおける暗黙のコミュニケーションとは、お互い見知らぬ人同士が同じ場でゲームをしている過程で、相手のプレイを観察したり、対戦することによる言葉なしのつながりのことを指します。直接会話をするのが苦手なゲームオタクにとっても、こうした暗黙のコミュニケーションの気楽さは魅力でしょう。

また、ゲームセンターは夕方以降、10代・20代の若者が増加します。そういった若者が一緒に遊んだり、ゲームに関して語り合っている場もよく見かけます。こういった若者の趣味によって繋がる人間関係のことを「趣味縁」と呼びます。趣味縁は、同じ趣味を共有するがゆえに、同質的な他者との平等な関係を築くことができます。ゲームセンターを訪れるゲームオタクにとっての趣味縁と居場所は、彼らにとってとても大きいと考えられます。例えば、スポーツを趣味にもつような人達の趣味縁は、コミュニケーション能力が高い人が多いイメージがあるのに対し、ゲームオタクは一般的に、ひきこもり癖やコミュ症といった人もいるため、趣味縁も構築しづらいと思います。そんな彼らが、ゲームセンターに行くだけで、直接的なコミュニケーションがなくとも、社会と多少なりとも関わることができる。ゲームを通して新たな趣味による人間関係が構築できる可能性がある。そういった点が、若者(とくにゲームオタク)がゲームセンターを訪れる一つの理由なのだと考えられます。

私はゲームセンターが若者や高齢者の居場所になっているのなら、ゲームセンターは「サードプレイス」といえるのではないかと考えました。サードプレイスとは、レイ・オルデンバーグが提唱した、職場でも家庭でもない第三の居場所のことで、訪れる人達が平等な関係で存在し、会話をすることで自分の居場所を確認する場です。しかしながらゲームセンターは会話がメインではありません。その代わり、見知らぬ人と対戦したり協力することで、「弱いつながり」を得ることができます。また、会話をせずともゲームをしている人の感情、技術、戦略などは肌で体感することができ、それによって新たな発見ができます。ゲームセンターはゲームをプレイする場所であり、個々の行動は他人に干渉されない自由で平等な空間です。ゲームセンターは会話をメインに行う場所ではないため、従来のサードプレイスの定義に当てはめることは難しそうですが、訪れる人の居場所になっていることは確かです。ゲームセンターでは、会話をしたとしても、ゲームに関しての会話でプライベートに突っ込んだりはしない。そのような程よい距離感の人間関係を形成する場であるという点に、ゲームセンターの価値があると考えられます。直接的な会話が少ないからこそ居心地が良い、そんなサードプレイスが存在しても良いのではないでしょうか。

私は以上のような主旨で卒業論文を書きましたが、私個人の願いとしては、もっとゲーム好きにゲームセンターを訪れて欲しいと思っています。現代では、ネットのおかげで家庭用ゲームで家から全国、全世界の人と一緒に遊ぶことができます。しかしそれは、結局顔も知らない人と対戦しているだけで、ゲームセンターで顔をつきあわせて一緒に遊ぶリアルな感覚には及ばないと思います。また、ゲームセンターならお互いを称え合ったり、ゲームについて語り合うことも、少し勇気を出したら簡単にできます。私は家で一人でゲームしている人に、少しでも興味のあるゲームがゲームセンターで稼働したら、ゲームセンターで遊んで欲しいと思います。思っていたよりも、ゲームセンターを訪れている同じ趣味の人は多いし、その人達から新たな発見ができるかもしれません。また、思い切って声をかけたら友人になれるかもしれません。ゲームセンターは社会の一般的なイメージよりもずっと健全で開かれた場であるということを伝えたいです。

(2期生 ふじたけ)

【vol.36】若者はSNSにはまっているのか(おおえ)

みなさんは「若者とSNS」と聞くと、どのようなことを思い浮かべるでしょうか。例えば最近はやりの「インスタ映え」であったり、常にだれかと繋がっていたいがためにSNSを利用している姿を思い浮かべるでしょうか。メディアでも先行研究でも、そのような「SNSにはまっている若者」はよく取り上げられています。「しかし、本当に若者はSNSにはまっているのだろうか?」というふうに私は疑問を抱きました。実際、私自身もTwitterに登録したものの、情報収集以外にほとんど利用していないという現状です。「本当に若者はSNSにはまっているのだろうか?」「SNSにはまる若者とはまらない若者には違いがあるのではないか?」そのような考えから、私は卒業論文で「SNSと若者」というテーマを研究することに決めました。

SNSに若者がはまるのは、承認欲求を満たすためであると言われています。さらに言うと、TwitterやFacebookのようなSNSの「いいね」という機能が、可視化された自分への評価として、若者たちの支えになっていると先行研究では指摘されています。
 
私は今回、大学生を対象にアンケート調査を行いました。その中でSNSの利用頻度に関する質問をしました。「SNSで自分から情報を発信する(投稿する)頻度はどのくらいですか?」この質問で「ほぼ毎日」、「週に何度か」を選んだ人を「ヘビーユーザー」、「月に何度か」、「年に何度か」、「他者の投稿を見るだけ」を選んだ人を「ライトユーザー」として分類すると、半数以上がライトユーザーであるという結果が出ました。承認欲求を満たすために可視化された評価が欲しいのならば、ユーザーは頻繁に投稿するはずです。ライトユーザーにとって、承認欲求を満たすためというのは、SNSの利用目的の中であまり割合を占めていないのではないでしょうか。

続いて「あなたのSNSの利用目的は何ですか?」という質問をしました。結果、最も多かった回答が「情報収集」の78.8%で、続いて僅差で「友人・知人とのコミュニケーション」の73.2%というものでした。つまり、これは人とのつながりを求めるとともに、同等かそれ以上に個人的な興味関心を満たすためにSNSが使われているということになるでしょう。また、「自分の近況を知ってもらうため」という項目が低いことで、自分のことを発信して見てほしいというよりも、友人が何をしているのか知りたい・交流したいという気持ちが大きいことが分かります。つまり、「見られること」よりも「見ること」が若者にとって重要であり、むしろ「見られること」を不安に感じているとも考えられるでしょう。

今回の研究ではSNS非利用者に対するインタビュー調査も行いました。このブログではかなり省いていますが、これまでの考察をもとに、非利用者がSNSをしない理由の仮説を立て、その仮説に沿う形でインタビューをしました。以下がその仮説です。

「自己完結」:非利用者は自分のことを認めてほしいという対象が周囲の限られた人間のみなので、SNSによってその対象外の人に認められる必要がない。

「他者視点への注意」:SNSでの炎上の特徴として「他者視点に関する無関心」というものがある。それとは逆に、直接関わりのない他者にまで注意を向けた結果、SNSで自分の情報を投稿することに抵抗がある。

「承認欲求の分散」:人間関係の選択化によって場合によって友人を切り替えつつ、広範な関係を築く多元化という現象が起こっている。その結果として、自分の様々な面をそれぞれ別の友人たちに認められることで満足している。

今回Dさんという一人の大学生に話を聞きましたが、結果としては「自己完結」と「他者視点への注意」が当てはまるような回答が得られました。特に、「他者視点の注意」に関しては、特に意識していたように思えます。回答の一部を載せると、「なんか恐いってみんな思わへんのかなって思う。普通に犯罪とかなんか巻き込まれたりとか、誰からこう繋がってどうなるかわからへんから。自分の行った場所とか顔とかいろいろ、よく上げれるなぁってめっちゃ思う」という感じでした。「承認欲求の分散」に関しては、多元化のような広範な関係を築くというよりは、狭い関係であると言っていたので、仮説とは逆の関係であったことがわかりました。

今回の研究では以下のことについて発見できました。
・SNSを利用しているすべての若者が承認欲求を満たすために利用しているとは言い切れない。ライトユーザーの方が多く、情報収集のため利用している人が多い。
・SNSにはまる若者、はまらない若者の違いとして「他者の視点」に対する注意、関心の差が挙げられ、若者は「見られること」に不安を感じている。

社会学者の土井隆義は、著書『友だち地獄』(2008年、ちくま新書)のなかで、かつての若者は「見られているかもしれない」という不満を抱えていたが、近年の若者は「見られていないかもしれない」という不安が強まっており、周囲のまなざしを浴びることで、自分の存在を確認したいという欲求が強くなっていると指摘しています。しかし、SNSにはまらない若者たちは、この指摘とは反対に「見られること」に不安を抱いているのです。このように変化していく若者の意識と連なって、若者のSNSの利用方法も変化しているのでしょう。

松岡先生が、「卒論のテーマが卒業後も自分にとっての大きな関心ごとであり続けてほしい。社会学とはそういう学問である」とおっしゃられていました。若者とSNSの関係はこれまでのようにこれからも変化していくことでしょう。私もこのテーマがこれからどのように変化を続けていくのか、関心を持ち続けていきたいと思います。

(2期生 おおえ)

【vol.35】謝罪にとらわれる日本人(まいまい)

みなさんは「すみません」と言うとき、どんな気持ちですか?

日本人は、この言葉を謝罪するときだけではなく、人に呼びかけるときにも使いますよね。 私は喫茶店で3年間アルバイトをしていたのですが、お客様に「すみません」と呼ばれたと思って返事をすると、電話の相手に謝っているだけだったということがありました。また、その方はその後何度も「すみません」という言葉を電話の相手に繰り返し言っていたのです。このような経験から問題意識が生まれました。

「なぜ日本人はすぐ謝るんだろう」

日本のメディアでは、「謝罪会見」がよく報道されています。近年の「謝罪会見」は、とりあえず謝っているというようにしか見えないし、日本人は謝罪の真意を見失っているのではないかと思いました。 毎日のようにニュースで同じ「謝罪会見」が取り上げられて、質疑応答での受け答えについての評価が報道されている。そのどこが必要な情報なのか、私には理解できませんでした。
そして、会見主が「世間をお騒がせして申し訳ございません」と言うのを聞いたことがある人もいるかと思いますが、騒いでいるのは当人とメディアだけのようにも見えます。そこで、日本の謝罪文化の「現在」を考察することを目的として、「謝罪会見」を対象に研究してみることにしました。

私は、「世間」という、定義や認識は曖昧なのに私たちの中に強く刻み込まれている大きな存在によって、人々は謝罪”させられている”のではないかという仮説を立てました。

研究の結果、この仮説は証明されました。さらに、ソーシャルメディア時代になった今、会見をおこなう人々にとって「謝罪会見」は、謝罪のための場というより、イメージを操作する場になっているということ、会見を見る人々にとっての「謝罪会見」はインターネット上で消費するための「ネタ」になっていることが明らかになりました。やはり、謝罪の本来の意義は見失われていると言えるでしょう。

この状況を変えるには、ネタにするためだけのような意味のない「謝罪会見」をさせるのではなく、メディアや社会がしかるべき場所で謝罪という言葉を使うことが求められるのではないでしょうか。本当に必要な情報は何かをメディアは考えなければならないと思うのです。

私はこの研究を始めてから、「すみません」よりも「ありがとう」と言うことが増えました。それに、アルバイトでのお客様との対話でも「すみません」と連呼するロボット店員になるのではなく、人対人の会話が少しできるようになりました。研究をしたおかげで、大学4年間の中で最も大きな成果が得られたことだと思います。

最後になりますが、みなさんにも、「すみません」と言う前に一度考えてほしいのです。本当に今言うべきは「すみません」であるのかどうかを。そうすることで「ありがとう」と言うことの大切さを感じたり、本当の意味での謝罪の必要性を再認識することができるのではないでしょうか。

(2期生 まいまい)

【vol.34】バカをやれ!(きもと)

よく親戚のおじさんとかが同じ話をしてきませんか。“面白いけど、それ前も聞いたしオチまで知ってるんやけど”っていう話です。あれは、なんで同じ話ばかりするんでしょうか…。

この疑問についてはさておき、今回は私の卒論について話します。正確には“卒論後記”のようなものです。私は「なぜ現代の若者は意欲的でないとされるのか」というテーマで卒論を書きました。若者が意欲的でないという風に世間から評価されているのは、若者たちの一面として、保守的で自主性に欠けていたり、好奇心が薄く無関心であったり、どこか他力本願的であったり、自己肯定感が低かったりといった特徴があるからではないのか。またそれは、若者自身に問題があるだけではなく、我々が成長するまでの過程で受ける教育や、社会の制度に問題があるからなのだというようなことを書きました。

私の場合は、世間や社会の問題、あるいはそれに対する疑問というよりは、自分のコンプレックス―保守的で、意欲的になれない自分が嫌い―そういった部分が強く反映されたようなテーマだったので、卒論を通して、自分自身と客観的に向き合うことができて、少しですが自分を守ることができたような気もして、最後まで書ききることができてよかったと思っています。もちろん私の卒論は完璧ではないし、不十分な部分も多くあるけれど。卒論を書き上げることは、結構大変で、一日では書けないだけに、日暮傾向のある私にとっては、珍しく過去の自分に感謝をしたし、書ききったという達成感も味わうことができました。

ときに「卒論は、本気を出せば2週間で書ける」とかいう噂がありますが、あれは本当なのでしょうか。今思うと私も、何人かの友人と、カラオケと漫喫と下宿の友人宅を渡り歩いて、缶詰めになって書き上げるみたいなことをしてみたかったです。もし、提出の2週間前まで一切の手をつけずにいられる心の余裕があれば、私の代わりに、ぜひやってみてください。

勘違いしないでほしいのは、何も私は、卒業をしそびれるかもしれないリスクを背負えと言っているのではありません。遊び心のある人は素敵だということを言いたかっただけです。保守的になりすぎないで、ときには「バカをやる」ことも大事なのではないかと。最初に書いた「親戚のおじさんが、なぜ同じ話ばかりするのか」という疑問についてですが、それは、そこが人生のサビの部分だからだそうです。自分の人生に映画のワンシーンを描いてみたいと思ったら、それを実行してみたらどうでしょう。まわりが笑うかもしれないし、変な奴だと離れていくかもしれないけど。きっと、それが人生のサビになるはずなので。

(2期生 きもと)

【vol.33】反省文(まきとく)

「安堵と少しの後悔」、卒論への率直な気持ちです。振り返れば11月になっても調査方法もテーマも決まらず、宙ぶらりんのままでした。その中で、「大阪の再開発の光と影」というテーマに何とかたどり着くことができました。

調査方法は、フィールドワーク。茶屋町と天王寺・阿倍野周辺を自分の足で歩き調査しました。テーマすら思いつかなった(思いつこうとしなかった)僕は、「本当に卒論につながる発見をし、書いて卒業できるんかな」と少しの危機感を持ち、ぼんやりと考えていました。

しかしながら、いざ調査地に行くと、実際に行ってみないと分からないことが見えてきました。特にあべのハルカスやてんしばの恩恵を受け賑わう天王寺・阿倍野地区は、駅前こそ再開発の成果が得られているものの、駅の外れの商業施設は廃れていました。テナントはほとんど入らず、老朽化するハコモノとその中に取り残された人々を目の当たりにしました。あの独特の雰囲気は、地図からは読み取れないものです。

そんなこんなでなんとか卒論が完成しましたが、正直なところ「もっとやれたな」って感じです。内容ももっと掘り下げられたし、大阪の面白いところを盛り込んだり、自分が持っている大阪への思いをぶつけられたような気がします。

しかし、自分の足で歩き、目で見て得られたものを卒論に活かせたことは、貴重な経験です。1日20キロ歩き、血眼で街を観察するのはとてもしんどかったですが、文献や資料調査からは得られない達成感がありました。その点については、最後に自分らしい方法で論文を書けたなと満足しています。

沢山のデータが簡単に手に入る今だからこそ、自分の身体や感覚を駆使し、物事を分析して考えていく大切さを学びました。フィールドワークの醍醐味もそこかなと、卒業1ヶ月前にやっと実感できた気がします(笑)

(2期生 まきとく)

【vol.32】卒論を終えて(濱名 航)

私の卒論のタイトルは、「働きたくない若者の労働観――「働く」とはなにか」でした。現代の日本において、いま働いている人たちのやる気をなくすシステムについて言及し、それが若者にも影響を及ぼしているのではないか?ということを論じた平凡で安直な論文です。

この論文を書くために読んだ文献の中に、「人は働くために生まれてきたのではない。どちらかというと、働かない方が楽しいし、疲れないし、健康的だ。あらゆる面において、働かない方が人間的だといえる。ただ一点だけ、お金が稼げないという問題があるだけだ」 (森博嗣,2013,『やりがいのある仕事という幻想』朝日新書) と書かれていました。これを読んで、我々は頑張りすぎているなと思いました。人間は、働くために生まれてきたのではないし、辛い思いをするために生きてきたのではないですよね? なんのために生まれてきたかは、永遠の謎かもしれませんが、なんかもっと楽しく、楽に生きることができるようになればいいなと思いました。

私は卒業するために4回生の後期になっても講義を履修していたわけですが、窪田先生の「都市人類学」で、ドミニカの人々は、その日に稼いだお金で、周りの人に奢ったりする、という話を聞きました。明日、ご飯が食べれるかも分からないのに、他人に分け与えても、危機感なく過ごしているのです。日本人からしたらありえませんね。なんなら、そんな人は馬鹿にされます。でも、ドミニカの人たちは、1日1日を全力で生きているのだと思います。

色々なことが繋がって、人生ってどんな生き方でもありだなって考えられるようになりました。少し心に余裕をもって生きることができそうです。

3回生の皆さん。
卒論はありきたりなテーマだと書くのが難しいです。すでに色々な先行研究があるので、そのぶん色々な方面から考える必要があるからです。そしてオリジナリティに欠けるからです。 オリジナリティに溢れたものも、それはそれで難しそうですが、考えることにすごく意味があると思います。 頑張ってください。

(2期生 濱名 航)

【vol.23】表現する世界に関わる人生を歩みたい(まいまい)

はじめまして!ブログ初心者まいまいです。

テーマを何にしようかなとずっと考えていたけれど、

やっぱり思い浮かばない…

ので春休みに就活や遊びを通して考えたことを書いていこうと思います。

この春休みは就活という言葉を何度も何度も聞きました。

一人で電車に乗っていても就活、友達と遊んでいても就活、親に会っても就活どうなん?

もう就活就活うるせーよ!と叫びたくなるほどに聞きました。家では本当に叫んでますが(笑)

大きな声で叫ぶとスッキリしますよ!

「就活=自分と向き合うこと」ということを聞いたことがあります。

そんなことからこの春休みは、自分のしたいことは何か、どんな職業に就きたいか

ということをよく考えていました。

どんなに考えても調べてもピンとくるものがなくて、

働きたい気持ちは大きいけれど自分が働いている姿を想像することができず、

不安でいっぱいになるときもありました。

そんな気持ちを抱きながら、少しでも自分の気になる企業があればいいな~

というかる~い気持ちで、3月の初めに合同説明会に行ってみました。

様々な業種の企業があって、

聞いたことのあるものから聞いたことのない企業まで時間の許す限り回ってみました。

しかしピンとくるものはありませんでした。

出展企業の中に、芸術関係の企業がたった1つだけありました。

私は演劇サークルに所属していて、芸術には足を少し突っ込んでいるのですが、

これを仕事にするのは、4年制の大学に行かせてもらって、学んできたこととも違う気がするし…

と考え、初めから聞くつもりはなかったんです。

が、その企業のブースを通りがかった時に声をかけていただいて、

他のどの企業とも違うブースのデザインにも惹かれ、最後に聞いてみることにしました。

もう聞き終わった直後は、なんて楽しそうなんだろうと、

それまで聞いて回った企業の話を忘れそうになるぐらいに興奮していました。

でも自分がどんなに楽しそうだと思っても、

親にここに行きたいと伝えた時に何て言われるかわからないし…

と親がどう思うかということばかり考えて、

家に帰った後は諦めの気持ちで、また企業どうしようかな~なんて考えてました。

そんな風に就活をする一方で、友達や後輩が出演する劇を観たり、

つい先日は「The Greatest Showman」という映画を観たりしました。

この映画は、人を喜ばせることが好きなP.T.バーナムという少年が、

大人になってサーカスをつくり、多くの人を笑顔にさせ、幸せにするショーをつくる

という物語なのですが、ミュージカル映画になっていて、

歌と音楽と踊りが私を感動で包み込みました。

この春休みは感動を与えてくれる芸術にたくさん触れる機会があって、

やっぱり私は「表現する」ということが一番好きなんだと気づくことができました。

親に何を言われるかわからないから、

なんて理由で自分のしたいことを諦めるなんてもったいないと思えました。

こんなに好きだ!と思えることに出会えた春休みは、

たとえ就活が他の人より全く進んでいなかったとしても、

私にとってはとても意味のある春休みだったな~と思います!

最後に「The Greatest Showman」の中で、私の心に深く残った名言をどうぞ!

「The noblest art is that of making others happy.ー最も崇高な芸術とは人を幸せにすることだー」

私も、感動と幸せを与えてくれる「表現」と「芸術」の世界に深く関わる人生を送りたいと思います。

長々と自分語りをしてしまいましたが、最後まで読んでいただけたなら幸いです。

(2期生 まいまい)

【vol.22】就職活動において大切なこと(濱名)

いま、就活真っ最中で、就活のことしか頭になくて、これ以外のことを書きたかったのに、なにも思いつきませんでした。就活は嫌なイメージでしたが、新しい発見や、新たな人との出会い、また自分と向き合う時間にもなり、案外楽しいです。行くのはめんどくさいけど、行ったら行ったで楽しいです。

ところで、、就活生は皆、内定をとることばかり考えています。だから、興味のない企業にもとりあえずエントリーして、志望動機もこじつけのように考えます。しかし、これではもし入ることになっても、興味ないし、つまんないしで、仕事が嫌なものになります。ある企業の人事の方が、新卒生の7割は仕事に後ろ向きである、その原因はいまの社会人が、死んだような目をして電車に乗り、大学の先輩が来たら仕事はしんどいから今楽しんどけよ、とか、仕事に対してマイナスのイメージを与えているからだ、とおっしゃいていました。確かにその通りで、働きたくないっていう声を、同期でよく聞きます。そもそも、いまの社会人がしんどそうなのは、興味のない企業に入ったからではないでしょうか。私たちと同じように内定をとることだけを考えた結果なのではないでしょうか。

だから、就活において捨ててはいけないのは、自分が何をしたいのか、だと思います。偽りの自分をつくって、自分じゃない自分でその会社に入っても、待っているのは後悔だけです。だからといって、選り好みしすぎたらどこも内定取れないみたいな状況になるかもしれません。じゃあもっと視野を広げて、自分がやりたいことをするためにはどんな能力が必要か考えます。そして、その能力が養える会社を選ぶのも一つの手だと思います。とにかく、自分に嘘をついたっていいことは何一つないのです。素の自分を受け入れてくれる会社が、ほんとうに合っていると思います。

因みに、就活をしていて、志望動機を聞かない会社が多いなと思いました。むしろ、どのように活躍したいのか、将来どんな風になりたいのかということを、聞かれることが多いです。会社側もちゃんと将来を考えている人を選びたいんだと思いました。

こんな偉そうに就活について語る僕は、内定はまだ一つもなく、3回もお祈りされました(笑)。もう、かなり焦ってます。ということで、自分を落ち着かせる意味でも、こんな内容にしてみました。参考程度に。

(2期生 濵名 航)

【vol.21】「迷う」をポジティブに考えてみる(ひ)

こんにちは。

初めてのブログ更新、とても緊張しています。

私は地図と女性の関係性について研究しています。世間では一般的に「女性は地図が読めない」と言われていますが、その一方で、近年は「地図好きな女性」が注目されつつあるように感じます。このような地図と女性の関係性の変化は、価値観や文化、意識などの社会的要因が関係しているのではないかと仮定して、ジェンダーの観点から研究しようと考えています。

さて、少し前の話になりますが、私は昨年12月に、「迷う」をキーワードにした山下耕平さんの個展「WOODS」を鑑賞してきました。今回のブログではその展覧会のことと、道に迷うことについての私の考えを書こうと思います。

山下耕平さんの個展「WOODS」は、大阪市にあるTEZUKAYAMA GALLERYにて開催されました。山下さんは「遠近」や「現在位置」といった距離感覚を作品の一つのテーマにしているそうです。この展覧会では、山下さんが登山中に遭難しそうになった時の体験をもとにした作品が展示されていました。

展示室に入ってみると、避難小屋の造形作品や、いくつもの十字路を撮影した写真、人物写真の上をルーペが動いている作品などが展示されており、表現方法が多様だなという印象を受けました(作品の写真がないうえに私の説明が下手なので、とても理解しにくいですよね…)。

TEZUKAYAMA GALLERYのホームページに、山下さんによるステートメントが掲載されているので引用します。

[ステートメント]

今この場所にいることを不思議に思います。

僕は一体どこに立っているのだろうかと。

遠くの山にいても、近所の歩道にいてもそれは等しく同じです。

住み慣れた街で。

どこか見知らぬ土地で。

時々、道に迷うことがあります。

そういう時ほど心が高揚するものです。

自分が存在している場所を必死で見つけようとするから。

不明瞭である、という事は決して悪いことばかりではない

ということでしょうか。

山と街とを繋ぐフィールドを「森」とするならば、

鬱蒼とした木々の中を彷徨う、

そのような関係性の場を作っていきたいと思っています。

(http://tezukayama-g.com/exhibition/woods/ より引用)

「迷う」って聞くと、モヤモヤぼやけていてどこにいるのかわからない、みたいなイメージが思い浮かびます。でも、言われてみれば確かに、迷っている時こそ自分がどこにいるのか考えるし、反対に、迷うことなく移動している時は、自分のいる場所がはっきりしているのに、そのことを意識することってあまりない。当たり前のことなのかもしれないのですが、私はこのような考え方をしたことがなかったので、とても新鮮に感じました。

山下さんとは違う理由ですが、私も迷うことには良い面もあると考えています。

例えば、私はたまに道に迷うことがあるのですが、偶然迷い込んだ場所で素敵な服屋さんや雑貨屋さんを発見すると、こういう時は道に迷うことも悪くないなと思います。約束に遅れてしまったり、時間を無駄にしてしまったりと、迷うことに対してのイメージってあまりよくないと思います。でも、迷うことは、新しい発見や出会いのきっかけにもなるんじゃないかなと考えています。

とはいえ、身の危険を伴う場合や、大事な予定に遅刻しそうな時なんかは、そんなことを考える余裕はないと思うし、道に迷うこと自体をおすすめしているわけではないです。でも、ちょっと道に迷った程度なら、自分の行動範囲を広げることになるし、偶然の発見に出会うチャンスだと思います。そんな感じで、もし道に迷った時は「道に迷っていなかったら見逃していたような場所に行くことができたんだな~」とポジティブに考えてみるのも良いかもしれません。

(2期生 ひ)

【vol.20】筋トレをして良かったこと(蒲原)

私は趣味で筋トレをしています。すると、「なぜ筋トレをするのか」と質問をされますが、私はうまく答えることができません。

一般的には「他のスポーツに活かすため」「健康のため」「ダイエットのため」「モテるため」などでしょうか、筋トレをする理由は人それぞれにあります。私が筋トレを始めたのは、自衛隊に入っても困らないようにするためですが、辞職した現在もなぜ筋トレをしているのか、自分でもよく分かりません。

しかし、筋トレをしていて良かったと思えることはたくさんあります。単に体力がつくのはもちろんですが、人間の体に関する生物学的な知識や、栄養学的な知識、人間が痩せたり太ったりする仕組み、トレーニング理論などの様々な領域に触れることができました。そして、それらの科学的な理論を学ぶと、どれだけ多くの偏見や歪曲された考えが社会に蔓延っているのかが見えました。筋トレの範囲ではありますが、人の思いこみや無根拠で間違った理論に、実際に触れることができたのは良い経験です。

また、筋トレを通して哲学的な反省もありました。日本では、地道な努力や一生懸命になることに美徳を見いだしますが、それは間違いだと思うようになりました。筋トレにおいては、ただがむしゃらに長時間ハードなトレーニングをすれば結果が出る、ということはありません。 現在の私の筋トレは、筋トレを始めた頃よりも短時間でイージーです。しかし、しっかりと筋量は増えています。 正しい方法は1つではないですが、正しい方法に則らないと結果はでません。そして、もっと早く大きな効果を得たいなら、さらなる知識が必要となります。私は身をもってそれを体験しました。

その過程で気づいたのは、大切なのは近道を探すことだ、ということです。地道な努力をしているから、いつか結果が出ると思っていても、その努力は何も生み出さないことも多々あります。そこで効率を上げ、結果を出すための戦略が必要となります。その戦略とは、言い換えれば近道です。それが重要なのです。近道を見つけて早く結果を得る。その結果、先に先に進んで行くことができます。この哲学は、これから就活を経て社会人となった後でも役に立つと思っています。

長々と筋トレをして良かったことを書いてきましたが、私は筋トレを皆さん全員に勧めるつもりはありません。たまたま、筋トレと私の相性が良かったから、多くを学ぶことができたのだと思います。自分が能動的に、主体的に、楽しくできるものに出会えた、というだけです。そのようなものを見つけたいけど見つからない、という人には、試しに筋トレをしてみることをおススメします。

(2期生 蒲原)

【vol.19】Happy Birthday(よしだ)

2月も終わりに差し掛かかりました。そんな中、私事ではありますが、2月の初めに誕生日を迎えました。これまで支えてくれた周りの人々に感謝しかありません。

部活の皆と一緒に誕生日当日を迎えた時、ふと思いました。「いくつになっても誕生日は嬉しいものなのだろうか」と。

まずは誕生日の歴史から。もともと日本には誕生日をお祝いする習慣がありませんでした。昔は数え年で年齢を数えることが普通で、お正月がくるとみんな一斉に年をとっていました。ちなみに日本で最初に個人の誕生日を祝ったのは、織田信長だったという説があるそうです。誕生日の歴史…意外と深いですよね。

私は幸い、今のところ全ての誕生日を嬉しいと思えています。でも、もっと大人になって30代になった時、40代になった時、今と同じ気持ちで喜べるかはわかりません。

また誕生日をそこまで気にしない人もいると思います。しかし、いくら気にしないにしても、やっぱりおめでとうって言ってほしいですよね。スルーされるのは寂しいですよね。

結局、年齢どうこうでなく、お祝いしてもらうというのはいくつになっても嬉しいことなんじゃないでしょうか。その日の主役は自分だけなんですよ。誕生日は誰にでもある記念日です。生きている限り、お祝いし続けてもらえる日があるなんて幸せでしかないですよね!!

これから迎える誕生日をぜひ楽しく過ごしてください。それが何歳になる時であれ、その日は人生で一度切りの特別な日ですから。そして毎年「いくつになっても誕生日は嬉しい」と言い続けたいものですね。

(2期生 よしだ)

【vol.18】サウナの勧め(藤嶽)

どうもはじめまして3回生の藤嶽です。

世間は2月中旬、大学生は春休みに入りました。

僕はと言えば、来たる卒論や就活の事で鬱々としてます笑

そんな気分が上がらない時は気分転換だってことで、

僕がよく気分転換に行くのサウナについて書いていきます。

サウナの魅力を少しでも伝えられたらなって思います。

サウナの効果で一番はじめに思いつくのは発汗力です。

この発汗が体内の老廃物を排出し、

血流が良くなることで疲労も軽減されます。

サウナ後の汗もサラサラになります。

もう一つ大事な事は水風呂に入ることです。

水風呂に入ることで、熱々の皮膚が冷たさに反応して引き締まります。

また、サウナで汗をかいた後、水風呂に入ることで、

自律神経が刺激されて気分がシャキッとします。

【サウナの入り方】

まず入浴前に身体を洗います。どうせサウナ入ったら汚れるじゃんって

思うかもしれないですが、先に身体の汚れを落としておくことで汗をかきやすくなります。

びちょびちょでサウナに入ると迷惑なので軽く身体をふいて、

後はサウナに入ってひたすら無心で発汗します。

体中から余計なものが出て行く感じがとても良いです。

サウナからでたら足下から水をかけていき汗を流します。

軽く水に慣れたらゆっくり水風呂に入ってください。

火照りきった身体が急速に冷却されてなんともいえない爽快感があります。

身体の芯まで冷えると風邪ひいちゃうので程々で出てください。

水風呂は冷たすぎるって人は冷ためのシャワーで汗だけ流してください。

んで、その後は適当な場所に座ってひたすらぼーっと休憩したら気分リフレッシュです。

後は冷えてきたら湯船に浸かって、

身体が落ち着いたらまたサウナに入ってを繰り返すのが良いと思います。

お風呂から出る頃には出すもん出して思考もさっぱりして頑張ろって気になります!

世の中めんどいことや、不安とか色々あるかもしれないけど、

みなさんも趣味でも友達でも何でもいいんで、

たまには気分転換しながら日々お過ごしください。

僕も休み過ぎやろって言われない程度に頑張っていけたらなって思います笑

(2期生 藤嶽)