【vol.85】競馬場やギャンブルってどんなイメージ?(2回生 ゆずか)

こんにちは〜、ゆずかです。年を越す前にブログ書かないと!みたいなちょっと焦りもありつつ、実家に帰ってホッとしてるそんな状況です(笑) ブログをはじめて書いてみたので、たどたどしいと思いますが軽い気持ちで読んでくれると嬉しいです^^

早速ですが、皆さん!競馬場に行ったことありますか?? 競馬と聞くと、ギャンブルのイメージや最近だとウマ娘が流行ってますよね。(私は流行りに乗り遅れました。。)  こんな感じで、あるけど気持ち的に遠い場所だったり、あまり馴染みのない場所だったりするかもしれません。じゃあなんで競馬の話をするの?と言いますと、私は競馬場のインフォメーションのバイトをしています。バイトをする前は、競馬場のお客さんちょっと怖そう、馬券いっぱい落ちてそうとかマイナスなイメージがありました。けど、実際に働いてみると子連れや若いお客さんも来るし、競馬以外の目的で来ている人もいたりと、いろんな人間が集まる少しカオスな場所やなと思い始めました。

このような体験から、行ってみるとイメージ変わった場所って他にあるのかな?と思い、みんなに聞いてみました。すると、博物館や競輪場、スポーツスタジアムなどが挙がりました。博物館は老若男女集まったり、競輪場は、いろんなイベントをしたり、スポーツスタジアムは、グルメが充実していたり、いろんな要素を含んだ場所がたくさんあるなと思いました。

私も最近音楽フェスティバルに行った時、アーティストのグッズを買ったり、グルメを食べたりと音楽を聴いて楽しむ以外のことをやっていたなと思いました。こんな感じで、こういう場所!って決まってはいるけど、いろんなことができたり、楽しめたりする多様性のある場所が最近増えているのかなと感じます。競馬場や他のギャンブル要素を含んだ場所でも、気軽に行きやすいきっかけがあったり、もうちょっといろんな人たちが集まる場所になったら楽しいのかなと思います!もっと若いお客さん来てほしい!泣 (小声)

あと、もう一つギャンブルに対してどんなイメージがあるのかな?と思い、みんなに聞いてみました。すると、ちょっと怪しいとか、ハマると脱げ出せないといった意見がありました。他にも男女で違いがあったり、ゲーム性があったりと、いろんな意見がありました。たしかに、ちょっと合理的に考えるとギャンブルは一時的に得をしているつもりでも、長期的に考えると損しているかもしれません。けど、当事者にとっては魅力的で価値のある行動なのかもしれません。ギャンブル以外でも、推しに貢いだり、これしか食べない!といった、他の人にはちょっと理解できないけど、自分にとって好きなものや楽しいものって他にもあると思います。そういうものを、お互い100%理解できなくても、ちょっとでも感じ取ったり、共有できたりすると、気持ちが一瞬ほっこりするのかなと思いました。

今回は、競馬から始まり、いろんな場所やギャンブルのお話をみんなとしました。いろんな考え方や接し方があって、話していると凄く楽しかったです!!私も無事年を越せそうです(笑) 皆さんも良いお年をお迎えください!では!

(2021年度2回生 ゆずか)

【vol.84】悲しい曲がたくさんあるのはなぜ?(2回生 おざ)

こんにちは、おざです。ブログを書くのは初めてでなんだか新鮮な気持ちです。語彙力が無いのですがよろしくお願いします(笑)

私はフリートークで「悲しい曲がたくさんあるのはなぜか」「どんな時にどんな音楽を聴くのか」というお話をみんなでしました。

私にとって曲は気分を盛り上げたりしてくれる大事な存在です。落ち込んだ時に楽しい曲を聞くと、自分の気持ちを盛り上げてくれます。逆に失恋ソングのような悲しい曲を聞いてしまうと、感情移入して気分が下がってしまうということがあります。しかし、失恋ソングなどの悲しい曲は楽しい曲に比べて多いという気が私はしていて、それはなぜなのかという疑問がずっと頭にありました。そこで今回、この疑問を共有させてもらいました!!

ゼミのみんなの意見は様々でした。悲しい感情が好きだからという意見や悲劇のヒロインになれるという意見、悲しい時に楽しい曲を聞いても感情移入できないという意見、共感しやすいという意見などたくさん出ました。その中でも「気持ちを代わりに言語化している」、という意見にピンときました。確かに、悲しいことや悩み事があってそれを誰かに話すことが難しいということもたくさんあると思います。しかし、そのようなしんどい気持ちをどこかに発散しなければ私たちは生きていけないと思います。そんなときに悲しい曲を聴くことで悩みや辛さを可視化して言語化してもらうことは、私たちの心の救いとなっていて、自然とみんなしていたことなのかなと私は思いました。

考えてみると、カラオケで歌うのは失恋ソングや励ましてくれる歌が多いですし、悲しい時の自分のプレイリストは自然と悲しい重い曲ばかりになってしまっていて、曲に自分を照らし合わせて気持ちを代弁してもらっていたのかなと思います。

次に、おまけという感じなのですが「どんな時に、どんな曲を聴くのか」という疑問で、私は好きなアーティストの好きな曲をプレイリストに入れてそれをシャッフルして聴くというのが通常です。でも、友達の中には「朝だから」「夜だから」などシチュエーションに合わせて曲を聴くという子もいて、それが衝撃的だったので、ゼミのみんなにも聞いてみたいなという興味本位でお話ししました。笑

松岡先生はポジティブになれるプレイリストを作ると言っていて、気分のプレイリストも作ることができると分かり、参考にしたいと思いました。このように気分やシチュエーションに合わせて音楽を聴くという行為は、音楽を「感情サプリ」として消費するということであり、その傾向は音楽をデータとして自在に持ち歩いたり、プレイリストで管理しやすくなったりしたから強まったのではないかと考えることができます。他にも夏に暑いから冬の曲を聴くという意見や気分を変えるために曲を聴くという意見もあって、曲には気分を変える機能もあるということも分かりました。また、歌詞より曲調を大事にするという意見もあり、人によってさまざまな曲の聴き方があるなと思いました。

今回のフリートークで私の疑問を解消することができてみんなに感謝しています。
これからも曲を聴いて、気持ちを代弁してもらったり変えていったりしようと思います。

(2021年度2回生 おざ)

【6期生インタビュー vol.1】ひめたん ~心の中にずっと妖精がいる~

最近では、YouTubeでのメイク動画にも挑戦していたひめたん(詳しくは、本ブログサイトの「【vol.78】ゼミでは無口な私がYouTubeに動画投稿してみた」を参照)。自分の好きなところは?と聞くと「強いて言うなら謙虚なところかな。自分なんか…と思ってしまって自信を持てないから、謙虚かも」と言うくらい、魅力たっぷりなのに実は自信がないひめたんです。今回はそんな彼女の好きなアニメや趣味について迫ります。(聞き手:みさき)

「昔は自分が魔法を使えると思ってた」

ーこんにちは!

こんにちは(笑)!ひめたんです。

ーいきなりなんやけど…好きな作品とかはある?

うちが好きなメディア作品というかアニメとかってだいたい魔法使ってる。小さい頃にそういうのを見て魔法に憧れすぎて、なんか中ニ病引きずってるかも(笑)。心の中にずっとなんか妖精がおる、みたいな。

ー魔法系が好きなんや!具体的にはどんな作品が好き?

パッと思いついたのは「ミルモでポン!」。このくらい(掌サイズ)の妖精がマグカップから出てきて、お願いを叶えてくれるという。恋愛の話もあるけど、そこにはあまり重きをおいてなくて魔法が出てくるというのが(ポイント)。

他も、漫画で「FAILY TAIL」っていうのがあって、これもめっちゃ魔法使うねん。なんかここ(腕を指す)にギルドの紋章があるねん。色んな自分の好きなところに。もうそれが憧れすぎて。(紋章を)入れたい。うちもどこかのギルドに入って。

ー魔法に憧れてるんや。今も魔法に憧れはあるの?

自分が魔法を使えると思ってたし、昔は紙をクルクルーって細くして魔法の棒っていって遊んでて。だから未だに妖精が来ないかなって思ってる。(自分でも)やばいよなぁとは思うけど(笑)。二十歳にもなって、この思考回路はやばい。昔から見てる魔法系に自分の思考が寄ってるかも。でも、他はたぶんめっちゃミーハーやから。

よく妄想もしてて。たとえば学校に悪い人が入ってくるとするやん。それをうちが魔法で退治するっていう。そういうのをめちゃくちゃ考えたりする。火(の魔法)か重力でボワー!みたいなのとか。

あとは、「鋼の錬金術師」を見てから錬金術にも興味がある(笑)。だから錬金術も使いたいし…。
あ!ドラクエでも役職選べるねん。昔はパワー系が好きやった。強いから。でも、段々と魔法を使えるのがカッコ良いと思うようになって。今はもうずっとドラクエでの職業は魔法戦士やねん。その響きが好き過ぎて魔法戦士にずっとしてる、あんまり強くはないねんけど。たぶん、もう色んなところで魔法に憧れてるかも。魔法があったらいいな、と思ってる。小学校くらいまでは自分が魔法使えるかも!と思ってたけど、今はあわよくばって感じ(笑)。

「人間のドロドロが好き(笑)」

ー全部魔法系やね(笑)!ミーハーって言ってたけど、最近の趣味とかはある?

人間のドロドロが好き。人が喧嘩してるのとか見るのが好き(笑)。駅のホームでおじさんがクレーム言ってたりすることあるやん?ああいうの面白くてめっちゃ見てしまう。「言ってんなぁ!今日も日本は平和や。」みたいな。自分がイライラしやすいから「そうやよな!イラつくよな!」みたいな気持ちで、っていうのもあるし、そういうのを見て「なんでこんな事で怒ってるねん」みたいなときもある。

ー人の喧嘩を見るのが好きなんや!

そう!なんか人の炎上とかもめっちゃ見るねん。人の炎上に定期的に興味を持つから今日もめっちゃ調べてた。「アホやなぁ笑」と思いながら見る。YouTubeでもコレコレとか見て「うわぁ!やらかしてんなぁ!」って思う。他人事やから。その人自体に興味があるわけではないねんけど。周りの友達にはこんなこと思わへんけど、関係がない人の炎上を見るのが好き。でも、自分がアンチしたりはしない。どっちかに立ちたくはないから、他人事として見たい。

魔法への憧れが強いというピュアな一面もありつつ、人間の“ドロドロ”を見ることが好きだというちょっぴりブラックな(?)面もあるひめたん。実は取材中に、たくさんの炎上ネタやSNSでの”誤爆”情報も教えてくれちゃいました。自分では「自信がない」「人前で発言するのは得意じゃない」という彼女ですが、アニメや漫画には疎い私もひめたんのお話にはかなり引き込まれてしまいました。そして、キュートかつクレバーなガール。。。つまり私から見ればパーフェクトで高嶺の花!かと思いきや、話すと人間味があってとても話しやすいのです。そんなひめたんについてもっと知りたくなってしまった方は、是非ひめたんのメイク動画もご覧ください(^▽^)→ https://www.youtube.com/watch?v=hWjK6Y6F1Os&t=2s

【vol.83】先入観(6期生 みつ)

みつです。こんにちは。わたしは普段アナログ派なので文章を打ち込むという作業が苦手です。けど中1の頃から日々の細かい記録を書く手書きの日記だけは続いてます。デジタルで公の人に文を書くのは初めての経験。頑張ります。

今回のテーマは偏見と先入観です。誰しも自覚してなくとも、先入観でものや人を見てるのではないかと思ったので、それをゼミメンバーに聞いてみました。「第一印象から入るイメージをのちのち話すのが楽しいから先入観はあっていいと思う」という意見や、「先入観だけで判断して言ってくる人とは仲良くできない」などの意見がありました。悪い印象から仲良くなって、いい印象に変わるっていう経験を持つ人がほとんどでした。その逆だったらかなりショックだよな〜。「先入観を持たれたことに対して、そういう人なんだなって思うことも先入観だ!」ていう意見も出て面白かった。先入観を生む見た目とか第一印象って、結構対人関係に関わってるんだなと再認識しました。

松岡先生に「みつはそんな経験ないの?」ってふられたけど、考えてるうちにタイミング逃しちゃったので、ここに書いときます。わたしは物心ついた時から、人より直感力が冴えてて(わかりやすく言えば、おみくじとか、それこそ人間関係とか)大体直感で「この人はこういうタイプで、こういう風な接し方をしたら間違いない」とか分かってしまうから、あんまりバイアス(河合塾にいた友達の口癖)を人に向ける前に直感が先にくる。そしてその直感は外れたことがないから、先入観とか偏見っていうよりも本質?が先に入ってくる感じ。あと、わたしの人に対する考え方って、昔から好きな作者の作品に異常なくらい影響受けてる。3人の神作家先生、わたしを強くしてくれてありがとう❤️

「友達のなり方」についても、ついでに話になった時に、グイグイいく人と待ってる人両方のタイプがいて、お互いそれで導かれて仲良くなっていくんだろうなぁ。グイグイいけるタイプの人って羨ましい。ゼミでこうやってフリートークするときは、普段話したことない人ばっかだから、いろんな意見が聞けて嬉しいな〜。

今回このテーマにした理由は、先入観とか偏見は、みんな気づかないうちに持ってて、けどそれは悪いことではなくて、自分は先入観や偏見を持ってるんだなとちゃんと自覚することが大切だっていう話を友達としたから、なんか面白いなぁって思ってこれにしました。なんかちょっと難しかったからもう少し砕いて話したかったな、、、。

(6期生 みつ)

【vol.82】どうして同性を好きにならないの?(2回生 なかし)

みなさんこんにちは、なかしです。初めてのブログで緊張していますが、温かい目で読んでいただけたらと思います。

突然ですが、みなさんは同性を好きになったことがありますか?

私は同性を好きになったことがあります。最近認知されてきた『LGBT』のBに当たる、バイセクシャルが私のセクシュアリティです。バイセクシャルとは、異性も同性も恋愛対象になるというものです。バイセクシャルであることを自認したのは小学校高学年の時でした。当時、初めて同性を好きになり動揺したことを覚えています。ただ、私の恋愛観などは自分のセクシュアリティを自認した後のものになっているので、小学校高学年以前のヘテロセクシャル(異性愛者)の感覚はありません。個人的には男性も女性も恋愛対象になるので「私が男だったら絶対好きになる!」っていうセリフはピンときません。私ならそのまま恋愛的な感情を抱くことになるでしょう。

そこでふと「なぜ多くの人は同性を好きにならないのか」と疑問に思い、ゼミのフリートークでみんなに問いかけをしました。その場にいたほとんどの人がヘテロセクシャルであると自認していました(もしかしたらカミングアウトをしていない人もいるかもしれませんが)。しかし、「今まで同性を好きにならなかっただけで、絶対に今後同性を好きにならないと言い切れるわけではない」と答える人が多かったことが印象的でした。同性を好きかもしれないと悩んだりしたことがなかったから気にしなかっただけで、意外と自分でもわかっていないものなのでしょうか。

このゼミでは男女比が1:11という、圧倒的に女性が多いゼミです。絶対に今後同性を好きにならないとは言い切れないと答えた人は全員女性でした。ここである噂を紹介します。「女性はレズビアンかバイセクシャルしかいない」というものです。海外のとある大学の研究で、そのような結果になったらしいです(確かな情報が手に入らなかったので噂として取り扱います)。同性を好きにならないと言い切れないと感じている人が意外と多かったのも、この噂に関係しているのかなと感じました。先生を含めた男性陣は同性を好きにならないと言い切れるそうです。人数的に考えたら不確かなものですが、男性と女性では何か違う感性があるのかもしれません。

また、このフリートーク中に新しい疑問が生まれました。それは「好き」はどこからが好きなのかということです。私が考えていた「好き」と他の人の考える「好き」に違いがあったのです。この言葉については不明瞭であり議論され続けるものであると思います。私の場合は、恋愛的に好きだからといって性的対象になるとは限らず、性的対象になるからといって恋愛的に好きになることはありません。それぞれ別のベクトルのような感覚です。(よく女の人がこの人は付き合う分にはいいんだけど結婚となると違うんだよなぁ…と言っていますが、これと似たような感覚だと思います。)そのため性的な感情があってもなくてもその人のことを考えたり、その人の行動一つで気分の上下が激しくなったりと、所謂少女漫画で主人公が友だちに「それって恋だよ!」なんて言われるような感情が好きなんだと考えていました。しかし、他に性的感情も好きの判断基準になるという意見があり、「好き」とはいったい何だろうかとわからなくなりました。そもそも他者に性的欲求を抱かないという「アセクシャル」や、他者に恋愛感情を抱かない「アロマンティック」というセクシュアリティも存在するので難しいです。

恋愛の話をしてきましたが、わからなく難しいところがあるのが恋愛であり、そこが面白いところなんですよね。

なんて、いい女風に言ってみます。
でも、本当にそうなんだと思います。

これから先、異性か同性かはさておき、自分が思いがけない人を好きになったり好きにならなかったりすることがあると思います。それでも、深く思い悩んだりすることなく、みんなが幸せに過ごせたらいいですね。

(2021年度2回生 なかし)

【vol.81】年下との向き合い方(6期生 ぼーい)

気がつけば大学3回生。自分が先輩という立場になって思うことを書いてみたいなと思います。

どうしてもちょっと、ほんの少し威張っちゃう自分がいる。年上とはいえ、ほんまの誤差のくせに、偉そうに。部室おって挨拶してこやん後輩にカチンときたり、練習時間なってもサッと用意せんと待たせてる後輩にイラっとしたり。

こんな小さなことで怒ってんの?…と思われる方もいらっしゃるでしょうが。自分はこんくらいの人間です。

けど自分の行動振り返ってみれば、嗚呼恐ろしい。なんて無礼なことをしていたか…数えきれない。それでも2,3個上のお兄さんお姉さんは自分のことを可愛がってくれた(と思ってる)。大きな心で優しく接してくれた。自分には自分よりも年下の子たちに同じように優しい気持ち持ててなかったなと、気づきました。

やっぱり自分より下の人をなんだかないがしろにしちゃうふし、ありませんか?みなさんどうですか?

そこでなんですけど、後輩に優しくするって自分だけじゃなくて、他の人にも、てかみんながそんな温かい人たちばっかりだったら、もっと優しい世界になるんじゃない?ってふと思いました。年上だからって威張ったり先輩風を吹かせるというのが、僕もそうですけど日本人の悪い癖なんじゃないかなと。そういう上下関係に合理性ってあるんでしょうか?別に先輩後輩だけじゃなくて、上司部下とか、先生と生徒とか。例えば、うちのゼミの松岡先生は学生たちに混ざって真剣に議論してくれるし、なんなら「学生たちからいっぱい自分自身も学ぶことがあるよ」って言ってはった。こんな向き合い方って素敵じゃないすか。

自分よりも年上の人に敬意を持つってのは当たり前なんですけど、それよりも自分よりも年下の人たちにも敬意まではいかなくとも、ある程度の思いやりと寛大な心を持って向き合っていけたらなぁと。なあなあにならないギリギリのラインで、同い年と接するときに限りなく近い感じで関わり合っていけたらいいんじゃないかなぁて思います。そしたら、その中に自然と優しさも当たり前のように生まれてくるんじゃないかという期待を抱いています。

とはいえ、社会的なコミュニケーションにおいて、地位や役割は必要なものだから、上下関係を完全になくす必要もないとも思います。単に年上だから上に立つんじゃなくて、上に立つ者には、それに値する知性や品格や経験を持っててもらいたいものですね。僕も3回生になって後輩もたくさんできました。そんな自分だからこそ、上に立つ者としての自覚を持ち、上に立つに値するような人間になりたいなと思います。

(6期生 ぼーい)

【vol.80】整形は親不孝か?(6期生 みさき)

こんにちは、人生初ブログデビューのみさきです。

本は1年に1冊さえも読まないような人間なので文章力には自信がないのですが、熱量と気持ちで頑張って書き上げようと思います。

さて!本題に入ります。私が今回ゼミのフリートークで提案したテーマは「美容整形は親不孝か?」というものです。

ゼミの個人研究でも美容がどうとか外見がどうとかいうことを考えていて、今回もそれに関連するような話題になってしまいました。

「コイツいつも同じような話題しか話さんやん」「くどいし、その外見でそんなこと語られても説得力欠けまくりやん」って思われるだろうから、少し違う話題にしたかったのですが、ブログまで書くとなると本当に興味のあることしか無理だ!となり、このテーマにしました(ので、ゼミの皆さんお許しを…)。

という言い訳的な前置きはさておき、「美容整形は親不孝か?」ということに対する議論前の私の考えは「どちらとも言えない」という感じでした。

(ちなみに、今回は「親不孝か?」ということについて考えたいのであって「整形肯定派か否定派か?」という話ではないこともお断りしておきます。)

私は、初めは、親不孝だとは思っていないつもりでした。整形を「親からもらった身体に傷をつける行為」という人もいるけれど、そうではなくて、「親からもらった身体と心で健やかに生きられるようにするために選ぶ手段」だと思っているからです。自分の顔の良くない部分が気になって、お洒落も楽しくないし堂々と人と話せないし鏡を見て泣き叫んでしまうくらい精神的に不安定になるような状態は絶対に健やかではない。だから、整形によってそんな状態を少しでも改善することができて、生きやすくなるのならいいじゃない、と思うのです。そして、親も、子が健やかに生きている方が嬉しいはず。だから親不孝ではないという理論です。

ちなみに、私は、プチ整形の類のものはしているのですが、それも上記のような理論で自分を説得してやりました。

生きやすくするために選ぶ手段だと信じてやったし、しなければ生きていくことができないと思ってしたことなので後悔はないです。

でも!プチ整形をしたことを親には言えていません。私の親は「整形断固反対!」というタイプなので(その気持ちも理屈も苦しいほど理解できます)、事前に相談はせずに整形をしました。相談したら反対されることが目に見えているから事後報告にしよう、本当にやりたいことは事後報告に尽きる!という感じで。私は頑固なので(←隙あらば自語り)、親不孝かもしれないと分かってはいてもやらない選択はなかったです。

で、無事(?)無断で整形を終えたのですが、バレなかったんです。そして、事後報告のタイミングを失ってしまいました。今もどこか罪悪感があって、カミングアウトしてしまいたい気持ちもあるのに言い出せずにいます。

それは、親が整形断固反対派だからという理由だけではなくて、五体満足に産んでもらったのに親からもらった身体に満足できない自分は最悪な人間だな、贅沢な人間だなと思うから。

しかも、自分が整形をすることで、親の遺伝子や親の顔まで否定しているようで申し訳ないし、悲しませるだろう。つまり、やはり整形は親不孝だな、と思う自分もいるのです。

ゼミのみんなに意見を聞いてみると、
「プチ整形までは許されると思う。」
「自分の人生だからしたかったらしていいと思うし、むしろ親がしていいよと言ってくれるタイプ。」
「したかったらしたらいいけど、メスは入れないでね、そのままで可愛いんやから。って言ってくれる。」
「親に整形シュミレーションを見せたら”こんなんやったらあかんで!”って言われたから辞めておこうって思った。ってことは親不孝って思ってるんかな。」
などの意見が出ました。

家庭やそれぞれの親子関係によって捉え方も変わってくるなぁとも感じました(それはそう)。

そのなかで、特にグッときてしまったのが次の2つです。

一つ目は「好きなアイドルが整形とかして変化したら、整形することに対しては肯定するつもりでいても寂しさを感じてしまうし、私は前の姿でも既に大好きだったのに自信を持てなかったんだなぁ…と悲しくなっちゃう。だから親となるともっとかも。」という意見です。

共感の5億いいね…分かり過ぎて苦しいです。本当にそうだ…整形がどうとかじゃなく、自己肯定感を持てなかったんだなぁと思うと悲しく、というか心がキューっとなってしまうよな…と思いました。私は親になったことはないから想像することしかできないし、親の気持ちの1%も想像できていないのだろうなとは思いますが、この悲しさのような感情を親に抱かせるのだとしたらやはり親不孝なのかもしれない、と感じます。

グッときた意見その2は、
「その子の人生だから親は受け入れるべきだとは思うけど、自分が親なら育て方が悪かったかなと思ってしまうかも。子どもにはありのままの自分を愛してほしいのに、自己肯定感を持たせられなかったのは自分が親として良くなかったからかなと思ってしまうかも。」というものです。

これも5億いいね…。親不孝かもなと思うのは反抗的な行為だからとかいうことではなく、親が悲しんだり自分を責めたりするだろうな、と思うからなんです。

…となると、整形はやっぱり親不孝だ。という結論に落ち着きそうなのですが、そもそも親不孝はいけないことなのか!?という意見も出ました。

たしかに。”親不孝” “親孝行”というのはあくまでも親のエゴ的な価値観であるし、親の期待通りに生きることが親孝行なのではなくて自立することこそが親孝行なのだとすれば、子は好きなように生きてよいのではないか?とも考えられます。

また、少しテーマからは逸れるかもしれませんが、所謂「毒親」も存在するのだから、必ずしも親に感謝して親孝行をすべきとは限らないですし。

このようなことを考え出すと、親不孝の何が悪い!的な結論にもなりそうです。

「整形は親不孝か?」ということについては、親からもらった身体がどうこうというよりも、愛情や育て方や自己肯定感の面で親を悲しませる(悲しませるという言葉がベストなのかは分かりませんが)という意味では「整形は親不孝だ」という結論になるのかもしれませんが、親も子も別々の人間である以上、親孝行だとか親不孝だとかをそれほど気にかける必要がない、と考えることもできます。

そうなると、「整形は親不孝か?」というテーマについて議論すること自体があまり意味をなさないのかもしれないぞ?などと考えてしまい、明確な結論が出せなくなってしまいました。

しかし、結論を出すとすれば…。
整形は親の育て方などを否定するような行為であると捉えれば親不孝であるのかもしれないが、自立することが親孝行なのだとすれば整形はそれほど親不孝な行為ではないし、そもそも親不孝が悪であるとも言い切れない、という結論になりそうです。

ここまで長々と書いてみたものの、生きづらさの原因がそこにあるような気がするとはいえ、外見がどうだ、自己肯定がどうだ、生きづらさがどうだ、などと言っている自分は贅沢で視野の狭い人間だな、と改めて感じてしまいました。命や健康に比べれば重要性の低い話を「私にとっては切実な問題だ!」と言って問おうとしている自分は、高望みな人間…というか最高の幸せを求め過ぎているという自覚もあります。

こうして贅沢な悩みや問題意識をもってしまうところが人間の厄介なところだなぁ。。。

(6期生 みさき)

【vol.79】先生、もっと勉強しとけば良かったっすわ(松岡慧祐)

秋が深まり、一気に肌寒くなってきた今日この頃。松岡ゼミの4回生は卒論の佳境に突入、3回生は某プロジェクトを始動、2回生はゼミ生の判断で思い切って全員での対面ゼミを休止し、各自が自分の調査研究にじっくり向き合う期間へ。それぞれ様相は違えども、「学問の秋」真っ只中だ。

2回生・3回生は、毎回、話題提供の担当者を決めてフリートークをおこない、それをもとにブログを書いてもらっているが、ゼミ生に書かせてばかりで、指導教員が何も書かないのは正直ズルい。そこで先日、2回生のゼミで私がフリートークを担当し、お手本になるような高尚なブログを書いてドヤ顔をしようと思ったのだが、そんな意気込みも虚しく、フリートークでは大したネタを投下できず、面目ない限りである。

なので、今回はフリートークとは関係なく、学問の秋らしく、たまには「大学での学び」について思うところを綴ろうと思う。

先日、松岡ゼミのOB(1期生)で、今はサラリーマンをやっているMが、研究室に遊びに来てくれた。軽音学部に所属し、音楽やファッションに夢中だった彼は、いわゆる「コミュ力」のバケモンで、ゼミでも抜群のムードメーカーだったのだが、お世辞にも学問や研究に真摯に取り組む学生ではなかった。それでもMとは卒業後もプライベートで何度か飲みに行くような間柄で、その人懐っこさは、会社でも存分に発揮され、上司にとても可愛がられているようだった(それゆえ、私も彼にとても甘かった)。

そんなMが、先日、研究室に来るやいなや、「先生、僕の弱音を聞いてください」と、仕事の悩みや苦労を吐露し始めた。詳細は端折るが、会社内で難しい立場に置かれているらしく、Mのコミュ力をもってしても、簡単に解決できる問題ではなさそうだった。そして、一通り愚痴をぶちまけたMは、こう呟いた。

「学生時代、もっと勉強しとけば良かったっすわ」

大学で学ぶ学問、特に社会学は、社会に出てからこそ役に立つというのが私の持論だが、実際に社会の荒波に揉まれた卒業生の口からこぼれたこの言葉は、重い意味を持つ。「やっぱそう?具体的には?」。そう問いかけると、Mはこう言った。

「てゆうか、姿勢、アティチュードの部分ですね」

つまり、「何を学んだか」ではなく「どう学んだか」が大切なのだ。これは、私のオールタイムベストである青春ドラマ『白線流し』(1995年放送、出演:酒井美紀、長瀬智也ほか)の最終回で、主人公の担任の高校教師が言った台詞でもある。結局、大学で学んだ専門的な理論や概念などは、すぐに忘れてしまうが、学問を通して様々な考え方に触れた経験、先生や仲間たちと空理空論の議論をした経験、自分で問いを立てて探究した経験、地道に調査をして情報やデータを収集した経験、これらの経験はすべて、社会に出てから直面する様々な問題に向き合うための「姿勢」を形成する。こういった「姿勢」は、社会に出てから一朝一夕で出来上がるものではないし、「コミュ力」などで代替できるものでもないので、学生時代からしっかりと整えておく必要があるし、それができている人とそうでない人とでは、後々、大きく差が付いてしまう。Mが言いたかったのは、きっとそういうことなのだろう。

しかし、問題は、みんなそれに気付くのが、社会人になってからということだ。私たちは、いつも後になって色々なことに気が付く。そして、後悔する。私だって(大学院に進学したわけだから人一倍は頑張ったが)もっともっと学生時代から勉強しておけば良かったと思う。「読モ」全盛期の神戸の女子大出身で元パリピである私の妻も、同じことを言っていた。しかし、それは、ある種の成長の証であり、大人になって「社会」を体感したからこそ気付けることなのかもしれない。だからこそ、近頃「リカレント教育(社会人の学び直し)」などというものが謳われている。実際、私の母校の出身ゼミでは、年齢・世代を超えてOB・OGが年に2回、大学に集まり、社会学を学び直すための勉強会をやっている。なんて意識が高いのかと思われるかもしれないが、そこに集まる人たちだって、学生時代は大して勉強していなかった人たちだ。だから、学び直すのである。

そう考えると、「もっと勉強しておけば良かった」という後悔を抱くことは、至極自然なことのようにも思えてくる。これを読んでくれている現役生のみんなも、きっといつか後悔する。そういうものなのだ。

しかし、それは本当に仕方がないことなのだろうか。その後悔が少しでも小さくなるように、私に今できることはないだろうか。もちろん、学問の楽しさ・面白さ、学問を楽しむ技法を伝えるのが一番の役割なのだが、とりあえず、「きっといつか後悔するよ」ということも伝えておきたい。ナンセンスな気もするが、それも先達の役割だろう。

ちなみに、Mは、先の言葉の後に、苦笑しながら、こう続けた。

「とはいえ、もし今、学生時代に戻れたとしても、きっと勉強しないんでしょうけどね」

今週末に、Mを含む1期生たちと、久しぶりに再会し、飲みに行くことになった。今年でみんな26歳。今の彼ら・彼女らに問うてみたい。「もっと勉強しておけば良かったと思う?」と。

(松岡慧祐)

【vol.78】ゼミでは無口な私がYouTubeに動画投稿してみた(6期生 ひめたん)

私は文章を書くのがとても苦手です。小学生の頃は、私の将来の夢は(ミルモでポンのゆうきくんに憧れて)小説家と周りに言いふらしていましたが、今考えるとゾッとします。書き終えてから見てみると自分語りしすぎてしまったし、上手な文章ではないかもしれないけれど、頑張って書いてみたので読んでくれる人がいれば私の心はハッピーです。

ゼミのフリートーク、何の話をしようかな〜〜、みんなが知らなさそうで私が熱い思いを持って語れるものはなんだろうかと考えた時、真っ先に思いついたのが「乙女ゲーム」についてでした。

高校生の頃、受験勉強に疲れて愛に飢えた私の心を救ってくれたのが乙女ゲームだったな〜。私は一体、戦国武将何人と恋したんだろう。世界の偉人と恋したこともあったな、楽しかった。笑

でもこんな話をしても面白くないかもしれない、どうしよう〜と思っていたところ、ゼミでたまたま「自己表現」の話になりました。その時、どんな話をしたのかは私の語彙力では説明しきれないので省きますが、自己表現という言葉に私はすごく興味を持ちました。

夏休みは毎日毎日バイトしかしておらず、虚しい日々を過ごしていて何も楽しいことがないなあ〜、何かすることないかな〜とずっと考えていました。夏休み中に自分の研究も進めないといけないのに、迷走中で全く進まず(ごめんなさい)。そこで、暇潰しでメイク動画撮っちゃえばいいんじゃない?という考えに至りました。何故?

そこから動画を撮影して編集するまではすごく早かった。1人で動画を撮ったり、動画に字幕やBGMを入れて編集したりしたのは生まれて初めてだったけれど、夏休み中では私のやる気が1番ぶち上がっていた時間でした。達成感もすごかった。久しぶりに夢中になれるものを見つけられたなという気持ちでした。元々動画は1人にしか送らないつもりだったけど、動画を撮りながら、「これ、いろんな人に見てもらいたいな!」と思い、すぐにURLを仲の良い友達数人に送ってみると、私が思っていた以上の反応をもらえて大興奮しました。
ちなみに最近ゼミのLINEグループにも送りました。先生やみんなが予想以上に素敵な感想を送ってくれてすごく嬉しい気持ちです。ありがとうみんな。先生もありがとうございます。

ちなみに動画はこちらです。宣伝みたいだけど宣伝です。是非見てください。笑

この動画、今私がブログを書いている時点では限定公開なので、このブログをここまで読んでくれた人じゃないと見れません。ラッキーだね。

動画の様子から分かる通り、私はすごくおしゃべりです。ただのメイク動画なのに20分を超える長編動画になってしまいました。これでも大分カットした方で、元の動画だと1時間以上あります。けれど、大学で私のことを知ってくれている人のうちほとんどは、おそらく私のこのような一面を知らないんじゃないかな、と思います。

私はとにかく人と対面して話すのが苦手です。家族や本当に親しい友人やだと、気兼ねなく話すことができるけど、そんな友人は本当に片手で数えるくらいしかいないんじゃないかな。こんな私といつも仲良くしてくれてありがとう。だいすき。

親しい友人の前以外だと私の人格はコロッと変わります。1対1ならまだしも、大人数になるともうダメ。空気になるのに必死です。普段は大人しい女の子を演じています。というか、そうせざるを得ないという感じ。

けれど、私の中には少しでいいから目立ちたい、面白いと思われたい、おしゃべりを聞いてほしい、というような思いもあり、日々葛藤しています。対面で人と上手にコミュニケーションが取れないけれど、ありのままの自分を知ってほしいなんてワガママを叶えてくれたのがYouTubeでの動画投稿でした。メイク動画を撮るとなると、やはりすっぴんから始めるしかなくて、すっぴんを色んな人に晒すのは抵抗があったけど、それ以上に本当の私を知って!!という気持ちが強く、公開しちゃお〜〜って開き直れました。

目立ちたいなんて思いは昔からあったので、自分に似合わない軽音部に入ったり(これは大学生になってからも一応続いてはいる)、Twitterでポエムみたいなことをつぶやくアカウントを作ってみたり、自分で描いた絵を載せるブログを始めてみたり、最近ではTik Tokに動画を載せてみるか!と思い投稿したこともありました。けれど、なんだか自分には合っていないと感じたり、楽しさがなかったりで続かなかったです。

YouTubeに動画を載せてみて、色々考えるきっかけになりました。そもそも私は有名YouTuberになりたいのかと考えるとそれは違う気がしています。別に登録者を増やして大物になりたい!!という思いが強いわけでもないし、そこでお金を稼ぎたいという感覚はないです。ただ、自分の思いを色んな人に発信するツールとして直接おしゃべりするよりも、Twitterよりも、 Instagramよりも、YouTubeが1番自分に合っていた、というだけです。みんながTwitterで呟いたり、Instagramで投稿したりストーリーを載せたりするような感覚で私は動画をあげているんです。(まだ動画は1つしかないですが汗)載せたばっかりの頃は自己表現なんて言葉には行き着いていなかったけれど、自分らしさ、ありのままの自分を色んな人に知ってもらえるチャンスやん!と捉えていました。その後、ゼミで自己表現という言葉が出た時、これだ!!と思い、フリートークのテーマを急遽自分の中で変更しました。ごめんね乙女ゲーム…。

そこからゼミでみんな流の自己表現というか、本来の自分ってどういう時に出るものなのかとみんなに聞いてみました。まず、私とは反対で人と対面で会話する時とか、歌ったり演奏したり踊ったりしている時に自分らしさが出ているという意見がありました。対面で自分らしさを出せたり、パフォーマンスをしている時に出せたり、私とはまた違った方法で、かっこいいなあ、憧れるなあ、すごいなあという気持ちで心がぽかぽかしました。私は自分を周りの人に出さない!という人がいたり、自己表現というものを意識したことがないという人も何人かいました。

自己表現って言葉、難しいですよね。ネットで「自己表現」と検索をかけると1番上には、「自分の内にあるものを別の形にして外部化することを意味する語。自己表現には、自分の考えを言葉で人に伝えることや、自分の感情を反映させた芸術作品を作ることなどが含まれる。」と出てきました。他にも様々な解釈の仕方があると思いますが。

これを踏まえてみて、私も意識して自己表現しているかと言われれば違うと思います。けれど、思い返した時にあれは一種の自己表現なのかな…?と思うことはあります。みんなも案外思い返してみれば、あれは自己表現だったかも!と思うものがあるかも。

自己表現という言葉を使うと、自分の思いや考えを周りの人に発信したり、絵や歌などの作品を作るアーティストになるということを思い浮かべたりして、自分は自己表現をしているつもりはないと考えてしまうかもしれないけど、もっと単純なことで良いんじゃないかな。ゲームやアニメ、アーティストなどの何かに熱中するオタクになったり、流行にのっかりひたすら流行りを追いかけたりと、別に誰かに発信しなくても自分の好きな自分で生きていくこと自体が、立派な自己表現になっているんじゃないかと思っています。これが私なりの自己表現の捉え方です。完全に間違っていたらごめんなさい!泣

他にも、自分らしさというものを周りの人に理解してもらいたいものなのか、それとも別に理解されなくてもいいものなのかという質問もしてみましたが、これもすごく意見が分かれたような気がします。やはり生きていく以上、人の目を気にしないで生きるのってすごく難しい。やっぱり人間って、限られた人だけでも良いから自分らしさを理解してほしいと思ってしまうものなんじゃないかなと思います。私のゼミには、誰にどう思われたっていいというような、すごくカッコいい人もいます。芯があって強いな…とただただ尊敬してしまいます。これも私の考えでいくと自己表現にあたるような気がする。けれど、そんな人がゴロゴロいるわけじゃないし、とにかく人の目は気にしてしまうものだと思っています。私が動画を投稿してから色んな人に見せようと思ったのは、本当の自分を誤解してほしくないからです。つまり私は自分らしさというものを色んな人に分かっていてほしい、理解してほしい立場の人間です。けれど、私の周りには誰にどう思われようがどうだっていいという考えの人もいて、人の目を気にするかどうかとか、自己表現の方法も人によって様々だね。

ゼミでのフリートークを通して思ったのは、「みんな違ってみんな良い」ということです。色んな場所で言われ尽くしてきた言葉だし、私が言わなくても皆分かっていることだけれども!
ゼミのメンバー内でもそれぞれ全然異なる意見や考えを持っているし、自分の周りに自分と全く同じ考えや生き方の人なんていません。みんなそれぞれの自分があって生き方があります。それが私たちの自己表現に繋がってきます。別に誰かに伝えなくても、自分らしく生きてそんな自分を愛せたらそれは自己表現なのです。みんな、自己表現という堅苦しくて難しいフレーズに囚われないで、自分なりの自己表現をしてみようよ〜!!

(6期生 ひめたん)

【vol.77】自分の好きと向き合った夏、2021(6期生 きそらん)

これから何したらいいんやろうか 

夏休み前の研究計画書の時点では、魅力的に年齢を重ねることと「遊び」の重要性について研究を進める予定だったけれど、自分自身が飽き性なのと「この研究内容ほんまにおもろいか?」と薄々思ってたのもあって、たぶんこれを卒論まで持っていったとしても自分の納得いくようなものは作れない気がした。そろそろ時間も無いから早くテーマ決めないといけないのに、やりたいことが漠然としすぎている。やばいぞ!

就活を経験して

研究については一回置いといて、この夏休みを振り返ってみると、バイト、ボイトレ、就活、マッチングアプリに打ち込んだ日々だった。特に印象的なのが就活。めんどくさそーやりたくねーなーとは思ってたけど、マジめんどくせえ。弱冠21歳にしてワタシはこんなニンゲンです!将来はコレをやりたいんです!なんて考えらんないよ〜と頭を抱えるばかりだった。そんな就活における説明会やインターンは主にzoom開催だったので、企業の人の話をフワッと聞きつつ参加者たちの様子を眺めていると、心ここに在らずの奴、メモ取ってる風の奴、「笑顔」でググって出てきた画像そのままコピペしましたみたいな顔してウンウン相槌打ちながら聞いてる奴、いろいろいて面白かった。あと、どっかの企業の若手社員が言ってたけど就活はとにかく相性なんだそう。無理して繕わずに自分らしく居れば、きっとあなたに合うところは見つかる、らしい。まず自分らしさってのが何か分からんからみんな苦労してるんだけどね!

まだまだ終わりが見えない就活を通して、自分はどういうことが好きで何がしたいのかを改めて考えられたし、論理的思考(私が全然できてないことである)の重要性ってやつを、身をもって感じることができた。今までの人生、感覚だけで生きてきたが、何をするにしても筋立っていないと説得力に欠ける。総じてめんどくさい就活だけれど、得られるものも大きかった。

これから進めていく研究にしても、今まで考えてきたテーマはどれもなんとなくの思いつきでしかなくて、自分の中にあるやりたいこと、好きなこととの繋がりが弱い。「好きこそ物の上手なれ」って言うけど、ほんとそれな、である。就活も研究も、私は好きだと思えることじゃないと上手くやれないんだろう。そんなこんなで夏休みは、自分の好きと向き合う日々だった。

デザイン思考とは

前の研究計画書で挙げたテーマは、
① 魅力的に年齢を重ねることと「遊び」の重要性について
② 何者かになりたい私たち
だったが、どちらにしても途中でフリーペーパーを制作したいということは共通していた。たぶん私はどんなことを研究するにしても何かしら作りたいんだろう。元々あることを調べたりしてまとめるよりも、自分の作り出したものから生まれる現象に興味があるのだと思う。にしても、現象を作るって何すりゃええの!?って感じだ。とりあえず「作る」というワードから連想して、「デザイン」について調べてみることにした。

石川(2019)によると、「デザイン思考は、ビジネス用語の中でもっとも『誤解』されやすい言葉」なんだそうだ。私自身、デザイン思考はクリエイティブ系の人たちに必要な考え方だと思っていたが、そういうことではないらしい。似たような意味に感じられる「アート」の特徴が「自己表現」であるのに対し、デザインの本質は「課題の発見とその解決」にある。これら二つは、似て非なる本質や役割を持つということだ。

私が研究を通して行いたいのは、アートかデザインどちらなのかというと、明確にはわからない。「作りたい!」の源泉は「人の心を動かしたい、人を喜ばせたい」という気持ちであって、アーティストになりたいのではない気がするが、なんせ超絶ナルシストの私は自己表現も大好きなのである。

テクノロジーが日に日に進化し、そのハードルが下がったこの時代では、アーティストとデザイナーの境界線というものは曖昧になってきているようだ。そのため、課題からはじまるデザイナー的な考え方に併せて、主観からはじまるアーティスト的な思考を持った表現がしたいと考えている。って言うとメッチャ意識高い感じがしてしまうけど、今こうやって研究を進めている私たちはみんなデザイナーなのである。与えられた課題ではなく自分が設定した課題に対する解決策を練り、結果として論文を創り出すデザイナーなのだ。かっこいいねウチら。

私のファンを作りたい

自分の中にある、ものを作りたい、思いを伝えたいという気持ちからなる自己表現を礎として、人に喜んでもらったり、人の抱える課題を解決したりするためには、受け手側に私や私の作るもののファンとなってもらう必要がある。所属している軽音学部でのバンド活動においても大事にしている考えだ。上手に歌を歌って褒めてもらいたいのではなく、バンドメンバー含めオーディエンス全員を楽しませてファンになってもらいたいのである。パフォーマンスで興奮させたいし、見る人の心を動かしたい。プロでも何でもない癖に本気でそう思っている。

自己表現から現象を作り出すデザイナーになるために重要となる考え方が、「ファンベース」である。佐藤(2018)は、「ファンベースとはファンを大切にし、ファンをベースにして(ベースには、土台、支持母体などの意味がある)、中長期的に売上や価値を上げていく考え方である」という定義付けに加えて、「ファンとは、『企業やブランド、商品が大切にしている〈価値〉を支持している人』」であると述べている。ファンという言葉から思い浮かぶアイドルや俳優だけでなく、企業やブランド、商品などにおける「支持者」みーんなファンってワケだ。

あらゆる物事は、ファンによって支持され、愛され、価値を上げていくもの。私たちは、たとえば行きつけの喫茶店のファンであり、目につくと買ってしまうお菓子のファンであり、あけすけに何でも話せちゃう親友のファンである。人と関わるときに私は、私自身のファンになってほしいと思うし、周囲の人たちの良いところや尊敬できるところを支持するファンでありたいと考えている。

今や馴染みのある言葉、クラウドファンディングにおいても、成功例はファンベースの考え方が活用されていると考えられる。社会現象にまでなった映画「カメラを止めるな!」は、監督・俳優・プロデューサーがプロジェクトに全力を注ぎ、当時無名であった上田慎一郎監督が自ら顔出しをして熱いメッセージを人々に伝えて目標金額を達成した。また、アイドルグループSMAPの解散報道を受けて、2016年12月にファン有志が立ち上げた「SMAP大応援プロジェクト~新聞メッセージ・どうか届きますように~」は、わずか1週間で購入型のクラウドファンディングの支援者数で日本最高記録を達成した。達成率は実に399%である。長年にわたって支持してきたファンの熱意が生んだ社会現象と言えるだろう。

若者から圧倒的な支持を受けるYouTuberやインフルエンサーたちも、佐藤(2018)の主張するファンベース施策「共感・愛着・信頼」、そしてそれらをアップグレードさせた「熱狂・無二・応援」を要として、自らの価値を高めていると考えられる。YouTubeのコメントひとつひとつに返信したり、Instagramでファンたちの質問に回答したりと、地道なファンサービスを行うことが彼らを支持するファン獲得の一端を担っている。また、テレビに出演している芸能人とファンとの関係性とは異なる「身内感」も強みだろう。ファンの言葉を傾聴し、自信を持ってもらい、共感を覚えたファンを身内として扱う。この身内感はSNSにおける企業の公式アカウントや、政治家のアカウントにおいても言えると感じた。

私は、私自身、もしくは私の作るもののファンを作ってみたいと考えている。その過程を経る中で、アーティスト的な衝動からなる、課題解決を行うためのデザイン思考を養っていきたいのだ。自己表現を通してファンを作り、人を喜ばせることが、オリジナリティのある学びに繋がるのではないかと期待している。私のしたいファン作りは、ゆりにこ(2020)が述べる「『あなた』と『ファン』が、価値観・信念・理念を共有して、つながれるようにすることがファン化です。そして、つながったご縁が長く大切に育まれていくにふさわしい自分であることがファン化です」という考え方と類似している。自己表現という行為から、私とファン、そしてファンどうしが繋がりを持てるような現象を作りたい。

具体的にやりたいことを考えてみる

先述したデザイン思考やファンベースの考え方を利用しながら、実際に私に何ができるだろうか。考えてみた案は、

① まだ見ぬファンを作るためのファンベースを考える。自分がインフルエンサーになってみる(YouTubeで動画あげてみる?)

② フリーペーパー制作から考えるファンベース
・マッチングアプリ奮闘記のフリーペーパーを作ってみる(座談会とかしたい)
・みんなの変な趣味をまとめたフリーペーパーを作る(私の場合、角栓や耳垢の除去、アリの巣にミルワームぶちこむ等の気持ち悪い動画の視聴とか)
・県大の非公式萌えキャラクターを作る(俺たちの考える最強萌えキャラ)

③ フリーペーパーじゃなくてnoteの形で発信してみる(フリーペーパーより見てくれる人が多いかも)
フリーペーパーを作るとしたら、フリーペーパーについて研究しているゼミメンバーめぐの力を借りながら、今までに見たことない変なやつを作って、もっと読みたいと思ってくれるファンを作れるのか試してみたい。でも、そこから何が得られそうかの仮説立てが難しい。ただ作るだけになってしまわないか?そこから現象を作り出すなんてできるのか?

ゼミでせっかくフリーペーパーを制作したし、やっぱりかなり楽しかったので、またやってみたいとも思う。これからどうしよう〜

(6期生 きそらん)

【参考文献】
・石川俊佑,2019,『HELLO,DEGIGN 日本人とデザイン』,幻冬社,pp.4-43
・佐藤尚之,2018,『ファンベース』,ちくま新書,pp7-175
・MotionGallery:Magazine,2019,『クラウドファンディングの成功例と、成功のために押さえておきたい4つのポイント』(最終閲覧日 : 2021年9月29日) https://motion-gallery.net/blog/tips_2
・産学官連携ジャーナル,2018,『朝日新聞社 A-port 敏腕女性プロデューサーの熱い思いが社会現象をつくり出す』(最終閲覧日 : 2021年9月29日) https://www.jst.go.jp/tt/journal/journal_contents/2018/06/1806-02-4_article.html
・ゆりにこ,2020,『ファンづくりをしたいと思ったらはじめに見るnote ~「なんにもない」を武器にする、SNS時代の新ルール~』(最終閲覧日 : 2021年9月30日) https://note.com/yurinico/n/nd2cbb4b19b1c

【vol.76】空気をよむということ(2回生 ぽん)

みなさんこんにちは!ぽんです。夏休み楽しんでますか?コロナでなかなか外出することが難しいですが、できるだけ楽しみましょう!そして、休憩としてこの記事を読んでいただけると嬉しいです☻

さてさて、今日の本題に入りたいと思いますが、その前に、みなさんは自分が「空気よめる人」だと思いますか?おそらく自分のことが「KY」だと思う人はいないはずです。「KY」は自覚できないと言われてますからね(小声)

おそらくみなさんはなんとなくでも空気をよむということを心かけているでしょう。ではでは、なぜ今の社会では「空気をよむ」ことが必要とされているのか?社会学で考える場合、効率性や協調性が重要視されている社会だから、その社会にいる私たちが空気をよまなければならない立場に置かれています。

空気をよむことによって、物事が円滑に進められます。例えば、何かについて話し合いする時、他の人がある意見について賛成な時、自分は意見が違う時でも、黙って何も言わない経験はありませんか?なぜかというと、その時に反対意見を出してしまうと、物事がスムーズに進まないだけでなく、自分の発言が他の人に反感を持たれる可能性もあります。自分の一言で場の雰囲気を変えたくないですよね、、

ところで、空気をよむっていいことなのかな?確かに物事がスムーズに進められるし、人間関係にも役立つ能力ではありますが、実は空気をよむことにはデメリットも存在します。

先程の例をもう一回出しますが、空気をよむことを気にしすぎると、自分が異なる意見を持っていてもなかなか言い出すことができません。周りの意見に合わせ続ける結果、いざ自分の意見を言おうとしてもできなくなる可能性があります。したがって、空気をよむことで自己主張ができなくなることがあります。

そこで、このような疑問が浮かぶかもしれません。「じゃあ、結局空気をよまないべきなん?」私なりの答えになりますが、空気をよむことは欠かせないことではありますが、空気をよむということの本当の意味をまず正確に理解しなければいけません。

空気をよむことは、ただ争いが起きないために無理やり合わせることではありません!人は空気をよむときに、争いが起きる、自分の意見がマイナスに思われるなどなど、「KY」になった時の場面を勝手に想像してしまってます。しかし、現実は本当にそうなることばかりなのでしょうか?

話し合いの時に、異なる斬新な意見を出している自分は、「KY」ではなく、むしろすごい人だと思われることもあります。そもそも議論することは、最初から異なる意見を持つものがその意見を交換し、刺激を与え合うために行うものです。皆さんが今それぞれ所属しているゼミは良い例です。「空気」というものが常に気にされるわけではありません、場合によっては、気にしているのは君だけかもしれないよ(笑)

結論として、空気をよむことにはメリットやデメリットの両方が存在します。空気を全くよまないと支障が出ますが、空気をよみすぎるのも危険です。そのため、メリットとデメリットをうまく理解して、状況に応じて空気をよむ・よまないを使い分ける必要があります。「あえて空気をよまない」と「空気をよめない」は違うので、そこは要注意!

はい、いかがでしょうか。少しざっくりとした文章ですが、ここまで読んでいただいてありがとうございます。少しでもこの文章がいいなと思っていただけると幸いです!
コロナで普段通りに出かけたりすることはできないが、できる範囲で夏休みを楽しみましょう!体調に気をつけてくださいね〜良い夏休みを☀️

(2021年度2回生 ぽん)

【vol.75】男女の区別と差別の違い(2回生 とーや)

このようなブログを書くのは初めてで少し戸惑っていますが、まずは当ブログを開き、お読み頂きありがとうございます。7月に入りましたが、皆さまはいかがお過ごしでしょうか。

私は今、電車の中でこれを書いています。今日はその電車も話題の一部として提示していきたいと思いますが、その前に私の現在進行形の悩みを聞いてください。興味のない方はブラウザバックせず、「さて、…」という部分から読み進めて頂けるとありがたいです。

さて、では一体どうして、私の隣に誰も座りたがらないのでしょうか。このコロナ禍でも周りは満席。なのに私の隣だけ空いてるのはどういった訳があるのでしょう。まぁ、このコロナ禍ですし、私も隣に座られるのはパーソナルスペースを侵害されているような感じがするという意味では有難い気もします。ですがここまで周りが満席となると話は別です。なんだか避けられている、ハブられているような気がして寂しさを少し感じます。まぁ別にいいんですけどね、別に。


では話は逸れましたが、今回は、ゼミのフリートークで議論した「男女の区別と差別」について少し綴っていきたいと思います。私は大学やバイトは電車に乗っていきますが、時間に余裕を持つということがあまり出来ず、いつも急いでしまいます。改札を走り抜け、階段を上がる時にはもう電車は来ているので、急いで入ろうとすると、そこは女性専用車両。私は入るのをやめてしまい、電車を見送ってしまう、ということが度々ありました。

そこで私はいつも疑問を持ってしまうのです。確かに、女性専用車両は女性を痴漢という危険・恐怖から守る、もしくは過去の経験から男性の近くに居られないような人にとって大変意義のあるモノであると思います。過去から現在にかけて女性が痴漢されてきた歴史があり、それは今までの男性の行為がそうさせてきたのでしょう。しかし、ではなぜ男性専用車両がないのでしょうか。男性にも少なからず痴女経験をされた方がいらっしゃるのに、そのような人達を無視しているのではないか。

同じゼミの子は私以外みんな女性なのですが、これに共感してくれた人もいました。もちろん、痴漢のような規模で発生していないことはわかっています。だからといって、そのような経験をされてきた男性を見て見ぬフリするというのは少し違うのではないでしょうか。その点で私は男女を区別しているのか、はたまた男性だけが危険因子とみなされ差別されているのか、という迷いが生まれました。ただ、松岡先生も仰っていましたが、男性専用車両のようなむさ苦しいところには需要は全くないです(笑) だから私は女性専用車両の使用を平日の終日ではなく、ラッシュ時のみとすればよいではないか、と考えます。

私はこのフリートークを通じて、ゼミの中でも少しまとまったように、個人と社会の関係も考えなくてはならない、と気付きました。個人にとって合理的なものが、社会にとっては必ずしも合理的なものとは限らない、というものです。今回の話題で言えば、一部の男性にとっては合理的かもしれない男性専用車両を設けることが、社会全体にとって合理的と言えるかどうかは疑問です。しかし、あまりにも社会に傾いた考えでは、マイノリティ、つまり少数派の意見も無視してしまうことにもなりかねません。そういった声に耳を傾け、この社会がどうあるべきかという問題は依然として我々がこれから持つ課題にもなるでしょう。私自身も、この正解のない問いについて、これからも考え続けていきたいと思います。ご精読ありがとうございました。

(2021年度2回生 とーや)

【vol.74】人を数値で判断することって...?(2回生 あや)

皆さんは「PSYCHO-PASS」というアニメをご存知でしょうか?

このアニメの中の世界では人を数値で測る「シビュラシステム」が確立され、「シビュラシステム」が秩序となっています。「シビュラシステム」は人の精神状態の情報を数値化し、その数値によって、職業適性の判断をしたり、これから罪を犯す危険性を表した「犯罪係数」を測定します。一定の「犯罪係数」を超えてしまうとたとえ実際に罪を犯していないとしても殺されてしまいます。このアニメはフィクションなので現実に「シビュラシステム」は存在しません。しかしこのアニメを観ていて、現実でも普段何気なく暮らしている中で「シビュラシステム」程ではなくとも、人を数値で表現し、その数値で人を判断することは多くあるなと感じました。

例えば、小中高のテストでとった点数やセンター試験の点数、5段階評価の成績、年収、年齢などです。私は、今までテストの点数は高ければ高いほど勉強ができる人だと判断していたし、年収が多くてお金持ちの人に対しては漠然とこの人はすごい人なんや、と判断していたことがあります。私自身、人を数値で判断することがありましたが、人を数値で判断することによって数値で判断できない人の性質を見失っているのではないかとも思いました。私は数値をもとに人を判断することはどうなんだろう...と疑問に思いゼミのフリートークのテーマにすることにしました。

ゼミのメンバーの話を聞いて、人には数値という物差しで測ることができる部分とその物差しで測ることができない部分があり、数値という物差しをどのように使うかが大切なことだと気づきました。

例えば、人の能力や実績を判断する際、どれだけの売り上げに貢献したか、テストで何点をとったかなどの目に見える数値で判断することで、客観的に人を評価することができ、固定観念や偏見にとらわれず人を平等に判断することができると考えられます。

しかし、人の能力や実績は本当に数値で判断できるのでしょうか?結果自体は数値で表すことができても、その人の能力や実績に内面の部分が関係していたら、能力や実績を数値だけで判断することはできないと思います。なぜなら、示された数値はそれ以下でもそれ以上でもないただの数値であるので、その数値が曖昧で複雑な人の内面を測ることはできないと考えるからです。私は曖昧さと複雑さの部分にこそ人の本質があると思います。もし人の内面を数値で判断することがあれば、それは数値で表すことのできない曖昧さと複雑さ、その中にある本質をも排除して人を判断してしまうと考えられます。

例えば、学校ではテストで高得点を取れる人に「優等生」、赤点を取る人に「劣等生」というレッテルを貼ることがあります。確かに、点数によって高得点を取るための努力も含めた一定の評価はされてもよいと思いますが、その点数だけで「優等生」「劣等生」という判断を下すのは間違っていると考えます。なぜなら、テストの点数は低くても、リーダーとしてクラスをまとめることに長けていたり、誰とでも分け隔てなく接することができるなどのコミュニケーション能力に長けている人がいるからです。この能力は必ずしも客観的に判断することはできず数値で測ることはできません。このような人の内面の部分から発揮される能力を無視しテストの点数という数値だけで人を判断しても表面的な判断にしかならず、「優等生」「劣等生」と判断しきることはできないと考えます。

人の内面の部分は数値と言う物差しでは測れないし、測るものでもないと思いますが、将来もっとAIが発達したら、情報を何から何まで数値化する世の中になるかもしれません。私は、人の内面の部分を客観的に判断できる数値で表されてしまったら、正直怖いと感じます。一度人の内面が誰にでもわかりやすい数値で表されてしまうと、効率性を求めるがあまり数値だけが人の内面を表すすべてだと捉えられる可能性があります。そうなると数値だけでは表せない自分自身の不確定で複雑な人間性を無視し、一度きりの人生を自分自身のためではなく数値のために生きるようになるのではないかと考えられます。人を判断する材料の一つに数値があってもいいと思いますが、数値だけで判断することで数値だけでは判断できない人間性を無視してしまうと考えます。

とはいっても、結局数値で判断すべきか否かという線引きをどこに引けば良いのか難しくて結論は出せず...フリートークのテーマ難しくしすぎた!と今若干後悔しております(笑)しかしこういったテーマで真面目に話し合うことが今までなかったので、フリートークの際ゼミのメンバーと真面目に話し合えたのはとても新鮮でした!

(2021年度 2回生 あや)

【vol.73】男らしさ/女らしさって必要?(6期生 りかてぃー)

こんにちは。りかてぃーです。

ブログを書いたことはないし、自分の思考や言葉を発信するのもたかが数十字のTwitterくらいだし、前回のきそらんのブログもすごく素敵だったので、非常にやりづらいです(いま必死にハードルを下げています)。が、とにかく頑張ってみます。

さて、本題に入りますが、みなさんは「男らしさ/女らしさ」って、必要だと思いますか。こう聞かれたら、いまは多様性を重んじる時代だし、「古い考えの人」にはなりたくないから、「必要ないと思う」「撤廃しないといけないんじゃないか」と答えていました、私なら。

しかし今では、それが必ずしも正しいとは限らないのではないか、と思っています。きっかけは、現在松岡ゼミで行っている、担当者がもってきた議題についてみんなで話そうという時間。私が議題に#KooTooという活動を挙げたときのことです。今回はそれをお話していこうかな、と思います。

ところで、みなさんは#KooTooという活動を知っているでしょうか。発端は2019年1月、女優でフェミニストの石川優実さんが発信したこちらのツイート。
https://twitter.com/ishikawa_yumi/status/1088410213105917952?s=20

「私はいつか女性が仕事でヒールやパンプスを履かなきゃいけないという風習をなくしたいと思ってるの。専門の時ホテルに泊まり込みで1か月バイトしたのだけどパンプスで足がもうだめで、専門もやめた。なんで足怪我しながら仕事しなきゃいけないんだろう、男の人はぺたんこぐつなのに。」

このツイートは広く拡散され、石川さんも何か行動に起こしたいと、企業に対しヒール着用を義務付けないよう呼び掛ける活動を本格的に始めたそうです。

当時の私も何となく耳にしていましたが、どこか他人事のように感じていて、この活動について調べてみようと思ったのは最近。きっかけは、アルバイトにあります。

私も、現在ホテルでアルバイトをしていて、そこでは女性は全員ヒールを履くという規則になっています。中学2年生のとき足首を怪我してからというもの、私にはヒールを履く習慣がほとんど無いので、これが結構しんどいのです。あんなに健やかだった足が外反母趾になりつつあるし、つま先もかかとも痛いし、タコもできてしまいました。7時間の立ち仕事というのもあるかもしれませんが、膝や腰までやられます。連勤するとわりと地獄です。男性はヒールじゃないし、制服もパンツだから動きやすそうでいいなあと思うこともよくあります。

そんなとき思い出したのが#KooToo。ゼミの時間にみんなで話したいことを考えてきてね、と言われたとき、一番に浮かんだのがこれでした。

「この活動についてどう思う?」と投げかけたとき、正直、みんなの反応は私の想定とは違うものでした。なんというか、あまりピンと来ていなさそうで。まあ勝手に人の思考や意見を想定するのが悪いんだけど。「私もヒール嫌!!」「めっちゃわかる!!!」みたいな意見がたくさん来るかなあと思っていたんですが、そうじゃなかった。みんな、う~ん、と微妙な表情で考え込んでいるように見えました。「えっ、ヒール履かされるの嫌じゃないの?!?!?めっちゃ痛いのに!?!?なんで?!?」というのが私の率直な感想でしたね。

ということで、そもそもどうして女性はヒールを履かなくてはいけないとされるのか、というところから考えてみることにしました。私たちの中で出た意見は、女性は「女らしさ=美しさ」を求められているのではないか、というもの。ヒールの良さは、脚やスタイルが綺麗に見えて、見た目が良くなるという点にあって、それを求められるのは、「美しさ」を求められているからではないか、という理屈です。

考えてみれば、女性は化粧をすることや、体毛をきれいに処理することなど、「美しくあること」がマナー・当たり前とされているのではないでしょうか。(もちろん男性だって化粧をしたり、体毛を処理したりすることは存じていますが、それはしていないといけないから、というより、自分がしたいからしているように感じます。)

私自身は、他人から「女性」として見られることに少し抵抗があるというか、なんとなく違和感を覚えます。自分で自分は女だと思うけれど、それはたまたま性別が女だというだけというか。女というより人というか。うまく言葉にできませんがそんな感じ(伝われ)。言動も服装も、「女らしさ」に自分から意識して寄せに行くことはあまりしていないつもりです。

だから私は、私がたまたま女というだけで、「美しさ」(=女らしさ)を強制されることに違和感を覚えるのだと思います。嫌だ、と拒絶するまではいかないから、まあ面倒くさいし従っておこうという感覚。(本格的に社会に出たらまた変わるかもしれませんが。)

反対に、問いかけたときにピンと来ていないように見えた子は、自分が「女らしく」あることに違和感や嫌悪感をあまり抱いていないようでした。私にとっては、自分が女であることを強く意識するより、その時の気分で着たいものを自由に着ることが「自分らしさ」だし、仕事の時は仕事が滞りなくできればよいと思うので、美しさよりもむしろ動きやすいぺたんこ靴のほうが仕事できて良いじゃん、と思うのですが、綺麗でありたい、美しくありたい、という気持ちのほうが大きいのかな。「女らしさ」を内包する「自分らしさ」なのかもしれません。

現在では、スカートやスラックスなどを自分で選べる高校が増えていたり、「ジェンダーレス男子/女子」をテレビやSNSでよく見かけるようになったりするなど、「ジェンダーレスな社会」に少しずつ近づいていることは事実だと感じます。

私も、性差による差別や偏見などで生きづらいと感じる人を減らすためには、ジェンダーレスな社会を目指すべきかな、と思います。それに関連していろいろと調べてみるのですが、「『男らしさ/女らしさ』は撤廃しなくてはならない」という記述がなされていることがほとんどです。しかし、今回の話し合いでみんなの話や意見を聞いて、それだけが正しさではないのかもしれない、と感じました。

「ジェンダーレスな社会」で求められているのは、あくまでも多様性。いわゆる「男らしさ/女らしさ」に悩む人もいれば、それを好んでいる人もいる。それを短絡的に「撤廃しなくてはならないもの」とするのは、後者の人たちにとってはどうなのだろう、と思ったわけです。男らしくしたい人はしたらいいし、女らしくしたい人はしたらいい。男、女の枠にはまりたくない人ははまらなければいい。そしてそのどれもを受容するような社会が、目指すべき姿なのかな、と考えます。

この議題においては、これこそが正しい答えだ!というものは無いと思っています。このブログにも読んでくれた人それぞれに考えること、感じるものがあると思うし、誰かにとっては不快なものになってしまうかもしれません(該当される方、ごめんなさい)。

私は、物事を多角的かつ多面的に捉えて考え続けられる人になりたい、と常々思っています。多様性のある社会の一員として、これからも、考え、問い続けたい。だから、このブログを読んで、それは違うと思うとか、共感したとか、感想を抱いたのであれば、ぜひ聞かせてもらえたらもっと嬉しいな、と思います。おこがましいかな。気軽に意見聞かせてください!

長くなりましたが、ここまで読んでくださってありがとうございました!

それでは!

(6期生 りかてぃー)

【vol.72】家は生活の宝石箱でなくてはならない(6期生 きそらん)

タイトルに迷って、とりあえずカッコいい名言にしてみました。こちらは近代建築の巨匠でありスイス生まれの建築家、ル・コルビュジェの名言を引用したものです。建築には明るくないのでよくワカランのですが、素敵な言葉やなあと思い使わせていただきました。

ブログを書くのは、小学生の頃やっていたアメーバブログ以来で緊張してます。ちなみに当時のブログのタイトルは「そららんらん♪」でした。圧倒的黒歴史

そんな黒歴史を地で行くきそらんが今回お話したいのは、タイトルからも分かるように「住まい」について。私が住まいや部屋について考え始めたのは、コロナ禍の外出自粛でおうち時間が増えたことがきっかけです。一人暮らしをする中で自分の住む狭いワンルームは寝に帰るだけの場所と化していて、部屋にこだわりを持とうという気持ちはありませんでした。しかし、家にいる時間が増えたことで居心地の良い空間作りをしたい気持ちが芽生え、インテリアや小物ひとつひとつに自分らしさを反映できないかなー?なんて考えるようになったのです。

そんなこんなでお部屋への関心が高まっていたある日、こちらの本を見つけました。

この本は、アイドル戦国時代の2014年から5年間にわたり、アイドル総勢50名超の部屋と、彼女らを支えるファンの双方の部屋を撮影・取材したもの。

「どんなアイドルにもヲタがいて、ヲタがいるからこそアイドルがいる。アイドルはヲタの欲望や妄想の結晶化だし、ヲタはアイドルの輝きのなかに包まれたファミリーの一員でもある。 アイドルとヲタ、それは鏡の両面でお互いを見つめあう幸福な双生児なのだろう。」(序文より)

アイドルとそのファンの部屋を眺めていると、部屋って、そこに住む人々の思いや生き方が表れるものなんだ!と感じたのです。そこで、周りの人たちの部屋のこだわりについて知りたいと思い、松岡ゼミのみんなに部屋の写真を送ってもらいました。ご協力ありがとうございました!

ここからは、送ってもらったひとりひとりの写真に好き勝手つっこんでいきます!

【松岡先生】

わー、おしゃれ照明だ〜〜!こういうのがあると一気に部屋がおしゃれ空間になる。そういえば最近、部屋の明かりを電球色のオレンジっぽいものにしたい欲がすごい。料理が美味しく見えるらしい!同じ部屋の同じインテリアでも、照明の種類で雰囲気だいぶ変わる。 

私のお母さんもこういう置物好きで、実家に似たような子たちいたなあ。小さい頃めっちゃ怖かった覚えが…!

「ROCKERS STYLE」ってなんだろう〜と思って調べてみたら、レゲエ・ムービー「ロッカーズ」のスチール写真を集めた写真集らしい。映画観てみようかな。

ティーカップとか憧れる〜!ホームパーティーできちゃう量だ、すごい。いつか広い家に住んで、お家でアフタヌーンティーするのが夢。

【みさき】

Ririmewだ!!!めちゃんこある!!!Ririmewは指原莉乃ちゃんプロデュースのコスメブランドなんですが、さすがみさき。コンプリートしている〜!コスメの感想聞きたいです。SABONもあるね、私もスクラブ使ってるよー!なんて素敵な眺め。

【りかてぃー】

これまたおしゃんだ!!J‐Scentの香水は私も使ってる。持ってる種類も偶然りかてぃーとおそろい。香りの好みが似てるのね〜。出かける前に、この玄関おしゃれゾーンに置いてある香水たちの中から、その日の気分で付けるものを選ぶのが楽しいって前に言ってたよね、かわいい。アクセサリーたちもかわいい。前にあるのはマッチかな?右のドライフラワー3点セットも気になる。

【めぐ】

めぐの部屋は年中クリスマスしてて楽しい。そのうちでっかいツリーをドーンと置いて生活スペース無くなってほしいな、私のヨギボーみたいに。
真ん中のマトリョーシカは一緒に「ボリクコーヒー」っていうカフェに行ったときに買ったやつやね!マトリョーシカがたくさん置いてあって楽しいお店でした。おすすめ。
マフラーも一緒に京都の古着屋に行ったときのやつだ~!めぐの部屋は私との思い出でいっぱいね。

【ぼーい】

自転車のタイヤ飾るって!なにそれ、おしゃれやな!ここはカフェなんか?どうやって置いてんのこれ落ちひんの?(笑)なんか葉っぱ纏ってるし。
VAMPSのポスターかっけえ。ぼーいらしいお部屋です。

【なつみ】

なつみは部屋の写真送るのを面白いくらいに嫌がってて申し訳なかった(笑)
実家を思い出すドレッサーだ!マニキュア好きなんかな?いっぱいある!人に見せてもいい部分を頑張って探してくれたんやろうか?(笑)ありがとうな!!

【まいまい】

アクセサリースタンド、すごい!!羨ましい〜!私はアクセサリー類をぐちゃぐちゃに片付けてるから、絡まりまくって塊になってるやつとかある。
公衆電話、ガチャガチャのやんな?あれやってみたい。

↑キティちゃん欲しすぎな

【ひめたん】

ミニハムずかわいい〜!!ひめたんってハム太郎に似てるなあって前々から思ってたので、ひめハムのぬいぐるみ欲しいな。持ち歩きたい。ひめハム商品化希望。ボーちゃんもちょこんといらっしゃる。こんにちは。
端っこには、目黒蓮様。お疲れ様です。ぬいぐるみたちと世界観合わな過ぎておもろい。ジャニオタの宿命、アクリルスタンド。どんなにおしゃれな部屋も一気にオタク部屋へと変身させる魔法、アクリルスタンド。

【みつ】

すげえ、輝きがすげえ、この写真に写ってるもの総額いくらなんだろう!ReFaいいなあ~。
みつに住んでいてほしい部屋すぎるよ。部屋じゅうブランドものに囲まれてて開放感のある白を基調とした部屋に住んでてほしさある。みつの家で飼われる猫とかになりたい。

【きそらん】

私の部屋で1番おしゃれな部分。後方には橋本環奈様がいらっしゃいます。環奈ちゃんダイスキ

オタクゾーン。ひめたんの部屋にもあったジャニオタの宿命、アクリルスタンド。松村北斗くんです。いつもありがとう。後ろには牧野真莉愛ちゃんもいらっしゃいます。お美しい!
日めくりカレンダーは私の性格には合わず、気付いたときには数日過ぎている。日の目を見ることのないページがあったりして、日めくりの意味あんまり無い。

こちらのマトリョーシカは、めぐの部屋にもあったものと同じお店で買ったやつ。ちょーかわいいよね!?こぐまのミーシャっていう子で、モスクワオリンピックのマスコットキャラクター。初めて社会主義国で開催される大会となったモスクワオリンピックには、ボイコット問題が発生した悲しい背景があって、この開会式の動画でミーシャが涙を流す部分がとても切ない。ミーシャすき。

https://youtu.be/wgUwDi6GbSM

最後に

今回は、みんなのお部屋のこだわりを見られて、とっても楽しかったです。

コロナ禍を通して自分の部屋で過ごす時間が増えたことで、住空間の重要性に気付かされた方も多いのではないかと思います。みなさんにとって、理想的な住まいとはどんなものですか?住まいに求める要素は人によって異なるかもしれませんが、それぞれの好きなもの、個性、生き方、考え方をインテリアや小物で表現することによって、自分だけの素敵な部屋を作り出せるのではないでしょうか。部屋が好きなもので囲まれていると、家に帰るときもワクワクします。帰りたくなる住まい作り、楽しいよ~。

「家は生活の宝石箱でなくてはならない」この名言のように、毎日の暮らしが宝石みたいに輝くような住まいを目指して、これからも精進していきたいと思います!

(6期生 きそらん)