【vol.138】誰もがすでに「つくる人」である(松岡慧祐)

ヤーマン!みんなもそろそろ試験やレポートが終わって本格的に夏休み突入でしょうか?

僕もテストやレポートの採点、オープンキャンパス業務を終えて、これから夏休み、、、いやいや研究期間(!)に入りますが、それはさておき、また性懲りもなくブログを書きます。この性懲りのなさに辟易する人もいるでしょうけれど、そもそも研究者って性懲りもない人たちの集まりなんですよね。誰に頼まれたわけでもない1つの研究テーマに執着して、それに膨大な時間を費やして、批判されても、見向きもされなくても、性懲りもなく探究し続ける。そんなしつこい人種です。

それはなぜ?と問われると、僕の場合、「好き」とか「やりたい」という単純な言葉ではあまりしっくりこなくて、おそらく僕にはそれが「必要」なのだと思います。前にもブログで述べたように、話し下手な僕にはじっくり考えて、書くという営みが「必要」なのです。

先日、東吉野で人文系私設図書館を開いている思想家の青木真兵さんと、「都市と撤退」というテーマで、大阪のブックカフェでトークセッション(対談)をさせてもらったのですが、僕個人としては、ま~上手くいかんかった(涙) 普段、人と会話するのは好きだし、授業や学会発表は事前にしっかり準備しておけば何とかできるのですが、トークセッションは即興性が求められるので、それが得意でない僕は、あらかじめ考えていたことの10分の1くらいしか話せませんでした。つくづく何て話し下手なんだと自己嫌悪にも陥ったし、参加してくれた1期生のあかりん、4期生のがえ、8期生のまる(マジでありがとう!4人での打ち上げは超楽しかった!)には、かっこ悪いところを見せたなぁと思いますが、それでも、だからこそ、僕には「書く」という営みが必要で、それが救いになるのだとあらためて思いました。

なので、本当は、僕がトークしたかったことをここに書きなぐりたいところではあるのですが、長くなるので、それは割愛するとして、対談相手の青木さんがご自身の思想の1つとして一貫して主張されているのが、他者のニーズや評価から自由になるということです。なぜなら、何もかもが商品化されたり数値化されたりする資本主義の社会の中で、私たちは自分自身も商品化され、ニーズや生産性がないと生きていけない存在になってしまうからだと言います。ただし、青木さんもこのことを100か0かで考えているわけではなく、実際のところ他者のニーズや評価を全く気にしないというのは難しいし、その必要もないと思います。青木さんだって、自分の本がどれだけ売れたかは絶対に気にしてるはずだし。でも、他者のニーズや評価に依存し、執着してしまうと、自分の商品価値や生産性にしか存在意義を見いだせなくなる。だから、そういうものから一時的にでも自由になる思考や経験「も」必要だということです。

先日のトークセッションでは、わざわざ1000円の参加費を払ってトークを聞きに来てくれた方々に対して、そのお返しが十分にできなかったことに対しては、とても申し訳なく思うけれど、その一方で、今回のトークイベントに自分自身がチャレンジしたこと、そして、たとえ10分の1であっても、自分の立場から言えること・言いたいことを言った、ということには価値があるのだと、そう思うようにしています。自分の本を出した時もそうでした。反省だらけの拙い著書でも、それを出すことによって、批判されることもあれば、面白がってくれる人もいて、それが新しい仕事につながって、TOKYO FMに出演したり、朝日新聞に載ったり、色んな高校・大学の入試問題に使われたり、予想もしていなかったことがたくさん起こりました。

まあそんなわけで、先生からの「評価」に晒されるレポートから解放された今こそ、みんなも自由にブログを書いてみませんか?しつこいようですが、自分のペースで、じっくり考えて、「いいね」の数や再生回数も気にせずに、自由に「書く」ことが許される時間はとても貴重です。最近はnoteでブログを書く人も一部いますが、2000年代に比べると、ブログの文化がSNSに取って代わられる形で衰退したのは少し残念に思います。

思い起こせば、数年前にゼミガイドに掲げた松岡ゼミのテーマは、「社会学で情報生産者になる」でした。そう、松岡ゼミで最初に読む上野千鶴子さんの『情報生産者になる』にインスパイアされたものです。上野さんによれば、情報消費者に甘んじるよりも、情報生産者になる方がよっぽど楽しい。ただし、情報生産の手段が論文やレポートとなると、大上段に構えてしまって楽しくなくなるのも、まあ分かる。そこで、ブログ、ラジオ、フリーペーパーなど、色んなメディアをつくって、もっと気軽に、自由に情報生産してみようというのが、旧来の松岡ゼミのテーマだったし、今も隠れた理念としては残っていて、何となくは共有されているものだと思います。

僕が登壇したトークイベントの翌日、青木さんがまた別のトークイベントを、県大のすぐ近くの船橋商店街に最近オープンした「ほんの入り口」という本屋さんで開催し、建築家の光嶋裕介さんと対談するということで、聞きに行って来ました。これは、青木さんと光嶋さんが最近出版した書籍『つくる人になるために』の出版記念トークイベントだったのですが、このイベントの中で、光嶋さんは「つくる」という営みをもっとやわらかく、広く捉えたいというようなことをおっしゃっていました。光嶋さんは建築家なので、建築物をつくっているわけですが、しかし、有形・無形問わず、人は誰でも何かをつくっているのだと。例えば、料理をつくることも「つくる」だし、自分がその日に着る服のコーデを組むことも「つくる」ことなのだと。それは何も特別な創作料理でなくてもいいし、突出したお洒落である必要もありません。お味噌汁でいいのです。お味噌汁はおいしい。

一方、青木さんは、そのイベントで「シュートを打つ」という言葉をよく使われていました。それは、おそらく「言いたいこと・言うべきことを言う」ということなのだと、僕は解釈しました。青木さんは元々、大学院で歴史学の研究をしていて、論文を書いていたわけですが、論文には「審査」や「評価」が付き物なので、それではシュートを打てている気がしなかったのだそうです。それで、体調を崩されたことなども重なって、東吉野村に移住し、就労支援の仕事に従事しながら、私設図書館を開いたり、本の執筆活動をされるようになりました。そんな青木さんにとっては、本を書くことはもちろんですが、「オムライスラヂオ」というネットラジオをやったり、自宅を図書館にするという営みが、「つくる」ことなのだと思います。青木さんはラジオが何人に聴かれているかは一切気にせず、もう何年も週に一度、ラジオを配信し続けているそう。ゼミの4回生には、ラジオ「鹿の国から」を始める時に、そんな話をしましたよね。

そんな青木さんたちの話を聞いていると、「つくる」という行為は、もっと自由で気軽なものでいいんだと思えてきます。「作る」や「造る」だと、いわゆる有形の「ものづくり」のイメージが付きまとうし、「創る」だとアートな感じがします。だから、青木さんや光嶋さんはあえて平仮名で「つくる」という言葉を使っているのだと思いますが、これがとてもやわらかくて、所謂「生産性」とは次元が違っていて、とてもいいなと思いました。著書のタイトルは『つくる人になるために』ですが、しかし、誰もがすでに「つくる人」であると考えることもできそうです。

その意味では、こうしてブログを書くことも「つくる」ことだし、トークイベントで拙いながらも自分なりの考えを発信したことも「つくる」ことだから、僕自身、論文を書くこと以外にも、「つくる」ための多様な方法を持つことができている。そう思うと、もっと自分にもできることがたくさんあるのではないかと勇気が湧いてきます。

そして、「つくる」上での出発点にあるのは、他者からのニーズではなく、自分の願望や欲望でいい。そこで、ふと思い出すのは、4回生のちはるちゃんが、「お通夜ゼミ」と言われていた(らしい)2回生ゼミの時に、「ショタコン」の研究をするにあたって、ゼミの研究発表の時に、「ショタ」の魅力を熱量たっぷりに解説した冊子を作って配布したこと。誰に頼まれたわけでもありません。そこにあるのは、ただ「伝えたい、知ってもらいたい」という気持ちだけ。そして、同じく4回生のえんどぅ~が、このあいだ課題でも何でもないのに自主的にブログを書いたのは周知の通りです。こういったことを、みんなは「凄い」「ヤバい」と思うかもしれませんが、そうでしょうか? たしかに、その主体性は素晴らしいとは思いますが、2人ともただ自分にできること、やりたいことをやってみただけで、「一発カマしてやろう」なんていう気負いは、全くではないかもしれないけれど、そんなにはなかったのではないかと思います。それよりも、その行為がやはり自分にとって「必要」だったと言った方が適切かもしれません。ボランティアとかだって、きっと自分のために、自分に必要だからやっているという人も多いのではないかと思います。

「つくる」ことは、そんなに特別なことではない。実は、もっと多様で、自由で、身近で、個人的なものなのではないでしょうか。「シュートを打つ」という言葉も良いけれど、元サッカー少年の僕に言わせれば、シュートは力を入れすぎると入りません。ちょっと力を抜いて、まるでゴールにパスをするような感覚で打つべきだというのは、元ブラジル代表のレジェンドで、元日本代表監督でもあるジーコの格言です。

だから、これから僕は、もちろん本業の論文も書き続けるけれど、もっと色んな方法で、気軽に「つくる」を実践していこうと思います。スキルや才能があるとかないとかは、気にせずに。

そう思っていた矢先に、先日のトークイベントに参加してくださった方から、新たなトークイベントの登壇のお誘いがありました。自信はないですが、性懲りもなく、またチャレンジしたいと思います。トークセッションはきっとみんなの方が得意だと思うから、ぜひフェスでやってみてほしいな。

先月、People’s Clubが開催した夏祭りでは、奥さんと古着屋のポップアップをやらせてもらったけれど、あれも一種の表現の場だったと思うし、メンバーたちの多大なるサポートのおかげ(本当にありがとう!)だけど、自分なりの「つくる」だったなと思います。でも、思いのほか繁盛して、他者ニーズがあったので(笑)、今度は、青木さんの住む東吉野村を訪ねて、山奥で誰からも求められない古着屋を開いたり、誰もいないところでオシャレをしてみるいう実践を画策中です。

そこで、ゼミ1期生のあかりんが勤めているNPO法人(実はえんどぅ〜も卒業したらここで働くことになっています)が運営に携わっているトークイベントで、「無駄づくり」を実践している藤原さんがゲストに登壇するそうなので、お話をルクアに聞きに行こうと思っています。誰か一緒に行きませんか?https://shigotofield.jp/turning_point/#fujiwara

このイベントは連続のシリーズになっていて、9/5には青木さんと梅田先生が撤退学研究ユニットを代表して登壇する予定です。こちらはオンラインなので、気軽に参加してみては?https://shigotofield.jp/turning_point/#tettai

さて、そんなわけで、みんなもせっかく夏休みに入ったことだし、ぜひブログを書いてみたり、不合理なことをやってみたりして、自分なりの「つくる」を実践してみてください。そして情報生産者になりましょう。どんなに拙くても構いません。結局、いつも同じことしか書いていませんが、下手でもいいのです。アマチュアリズムを称えましょう。むしろニーズがないこと、めちゃくちゃなことをやってみましょう。その延長線上に、松岡フェス(仮)があるのではないかと思います。先日のトークイベントに来てくれていた卒業生のあかりんやがえも、フェスに参加したい(何か出したい)と言ってくれています。なので、フェスをどうするかについても、夏休みの間に、各自じっくり考えておいてもらえたらと思います。

しかし、ゼミでフェスをやるというのも、もしかしたらこれで最初で最後になるかもしれません。というのも、(今の在学生には関係ないですが)現在検討されている学部再編にともない、今のような形の「ゼミ」はなくなってしまうかもしれないからです。僕が前々から呟いているように「松岡ゼミ」という名称の看板を下ろすのを待たずして、そもそも「ゼミ」というもの自体がなくなってしまうかもしれません。詳しいことは組織の情報なのでここには書けませんが、その理屈はそれなりに分かるんです。分かるのですが、ゼミが大好きな松岡個人の感情としてはさびしくてなりません。だからこそ、最後に、思い残すことがないように、松岡ゼミの集大成として、フェス(必ずしも「フェス」という名称でなくてもいいのですが)を実現できればと思っています。個人的には、それこそニーズがなくても構わないし、あえてニーズがないことをやってみるのも面白いのではないかと思ったりもしますが、みんなはどう思いますか?そうそう、昨日のオープンキャンパスで、KZM先生が休憩スペースに『無目的―行き当たりばったりの思想』という本を展示していて、とても惹かれました。これから読んでみます。http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3828

長くなりましたが、最後に今回のエンディング曲は、松本英二郎『まぁすぃーの丘』。誰も知らないと思いますが、知る人ぞ知る大阪在住の素晴らしいミュージシャンである松本さんには、かつて僕が制作に参加しているフリーペーパーの取材でライブレポとインタビューをしたことがあります。音源化もされておらず、2年前にYouTubeにアップされただけの曲ですが、8/12現在、まだ247回しか再生されていません。そのうち50回くらいは僕だと思います(笑) でも、この曲はもっと聴かれるべき名曲だと思うので、シェアします。陳腐な言葉で批評したくはないので、とりあえず聴いてみてください。僕は泣きました。人は失ったときのために、「つくる」のかもしれません。

ではでは、良い夏休みを。次はみんなの番だ!

(松岡慧祐)

【vol.137】前期おつかれ、オレ(松岡慧祐)

みんな、ヤーマン!(※レゲエの用語で「調子どう?」みたいな意味です)

僕は、先日の「夢ナビ」のオンライン研究室訪問に参加してくれた高校生たちから、続々と好意的なメッセージが届いていてハッピーです。もうそれだけで、この仕事をしていて良かった!と心底思います。以下は、その中のメッセージの1つです。

「ファッションから個人の社会的な立場や他者との関係の話に繋がっていってこんな考え方があるんだなと思いました。今の時代にぴったりな学問で、ゼミの様子も受講生の方のお話と共に詳しく伝わってきて楽しい学びがありそうだなと感じました!」

社会学だけでなくゼミの魅力も伝わったのは、参加してくれたゼミ生のおかげです。本当にありがとう!

さてさて、気づけば、前期もほぼ終了。学生のみんなはこれからが試験やレポートで大変ですが、僕はようやく一息つくことができています。この前期は、コロナ禍の制限がほとんどなくなり、対面で授業をすることの意味を問い直す必要が生じたので、本務校でも非常勤先でも、授業のやり方や内容を、コロナ禍以前の対面授業から大きく見直すことにしました。同時に、コロナ禍での遠隔授業の経験から得られた知見や方法も活かしながら。

そんなわけで、前期は授業準備やフィードバックに多くの時間を割くこととなり、学務においては今年度から教務委員会副委員長の任務を仰せつかったので、(僕の要領の悪さもあいまって)とても忙しかったです。正直。おつかれ。

まあ、そんな「忙しい自慢」はさておき、前回のブログで大学生時代の写真を晒したけれど、そう言えば、昔はよく学部・大学院の指導教授に、事あるごとに長文のメールを送っていたなと思って、過去のメールを遡ってみました。僕はその先生に「思いは表現しないと伝わらないよ」と教わって、ああ見えて(?)尊敬する人には従順なところもあったので、その教えを素直に受け取って、ゼミの行事があった時には、必ずお礼や感想を綴った長文のメールを先生に送っていました。そのメールの中に、大学院の修士課程の時に、指導教授の片桐先生と、同じ学部の永井先生が対談形式で授業をしてくださった時に書いたメールがあって、それには僕の「社会学観」の原点があると感じたので、今度はメールを晒し、共有したいと思います。

以下、長文ですが、実際に送ったメールです。日付は2006年11月2日。

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先日の大学院の授業での片桐先生と永井先生の貴重な社会学教育論議、とてもワクワクしながら聞かせていただきました。お二人の研究スタイルの違いはよく知られていることですが、どちらも教育熱心な先生ですから、あえて教育観の違いというのは考えたことがありませんでした。まだわずかの先生にしか出会っていない僕ですが、片桐先生と永井先生は最も尊敬する社会学者であり、そのお二人が珍しく真面目な議論をなされたということで、僕にとってはまさに「夢の対談」でした。

そこでまず明らかになったのは、永井先生が「調べ方、資料の集め方(メソッド)」を教えることを重視するのに対して、片桐先生は「社会学的見方、問題発見能力(パースペクティブ)」を重視するということでしたよね。これは「虫の眼」と「鳥の眼」に置き換えてもいいかもしれませんが、結局その両方を常に往復し続けることが「社会学」なのだということは、おそらく一致したお考えなのだと思います。よって、どちらもちゃんと教える必要があるのは当然なのですが、やはり僕が思うのは、「メソッド」はあくまで「パースペクティブ」の後に付いてくるものだということです。ただし、永井先生がおっしゃるように、たしかに学部生レベルでは、初めから鋭い視点をもって問題を発見することは難しいので、とりあえず徹底して調べさせることによって問題を見つけさせるというやり方も正しいと思いますし、僕自身も問題意識というのは研究を進めていくうちにどんどん湧いてくるものだと思っています。しかし、ただやみくもに調べればいいというわけではないはずで、ある程度は(せめて感覚的には)その対象にどのような社会との連関や問題がありうるかを考える力は必ず必要だと思います。つまり、それが「(社会学的)想像力」なのだと思います。フットワークが軽い人は世の中に結構いると思いますが、「想像力」がないために、よくミスを犯すという人も少なくないと思います。いまオシムの「考えて走る」という言葉が流行っていますが、社会学でも「考えて走る」ことが大切なのかもしれません。どこにどのように走るかは、フィールド全体の敵や味方の動きを感知した上で選択しなければなりませんからね。

永井先生は「日常生活の中で何か問題が起きたときに、自分で『調べる』ことができる力」を身に付けさせたいとおっしゃっていましたが、現代人はとても忙しいので、何事も徹底して調べるほどの時間を割くことはできないかもしれません。だからこそ、調べる力(虫の眼、行動力)に加えて、考える力(鳥の眼、想像力)が必要なのだと思います。それを片桐先生は、「何もない日常生活のなかでも、問題を見つけることができる力」と表現されていましたが、たしかに多くの人は、何らかの問題が潜んでいることに気づかず、「何もない」毎日をやり過ごしていると思うので、「問題が目に見える/見えない」に関わらず、それを自分で見つけるための「常識を疑う視点」が、平和ボケしがちで多忙な日本人にはやはり必要だと思います。調べることはできなくても、考えることは、いつ、どこででもできると思うので。

片桐先生も永井先生も、社会学者である以上現実主義者であることは間違いないのですが、この話を聞いて、社会学には理想主義的な面も少しは必要なのかなと感じました。つまり、差し当たり問題がない(と感じる)ことに満足するのではなく、さらに「よりよく」生きていくためにどうすればいいかを考える必要があるということです。もちろん社会学者なら誰でも考えていることだと思いますが、片桐先生は、そういう意識をしっかり持っている人なのだろうと思います。ゼミの運営の仕方を見ていてもそう思いますし、先生の書く文章が時に毒々しかったり、思い切りが良かったりするのも、そのためではないかと思います。

あらためて僕がこんなことを言うまでもなく、片桐先生と永井先生はお互いをよく分かり合った上で、あえて僕たちのために議論してくださったわけで、非常にありがたかったです。ゼミによって教育方針に違いがあるのは当たり前のことですが、あらためてお二人がどれだけ「教育」について考えてくださっているかがよく分かり、片桐ゼミ、永井ゼミに入った人は本当に恵まれていると思いました。そして、両ゼミには、毎年いい人材が集まるようになっているのはもちろん偶然ではなく、年々お二人の教育観、指導法が成熟してきているからなのでしょうね。片桐ゼミでは「考える力」が、永井ゼミでは「走る力」が特に鍛えられると思うのですが、もちろん片桐ゼミでも「走る力」は身に付きますし、永井ゼミでも「考える力」は十分養われると思います。結局は、学生次第ということになるんでしょうね。

ただ、僕は片桐ゼミに入らなければ、間違いなく今の自分はなかったと思います。きっと埋もれたまま、そして社会学の本当の魅力に気づかないまま、普通に卒業していたでしょう。先生はときどき「何も教えていない」なんておっしゃいますが、そんなことありえないですよ。僕は、研究に関しては「ああしろこうしろ」と言われるよりも、ただ良いお手本を自分なりに吸収するのが得意なだけだと思います。そして先生はそういったパーソナリティを理解し、それに適した指導をしてくださっていると思うので、本当に感謝しています。では、長くなりましたが、今年も片桐ゼミに(永井ゼミにも)いいゼミ生が入ってくることを期待(確信?)しています。

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こんなメールを、この時だけでなく、しょっちゅう送っていました。我ながら、内容がなかなか良くまとまっていることに加え、なんて律儀な学生だったんだろうと、感心してしまいました(笑)
見方によっては媚びを売っているように思われるかもしれませんが、本当に思ったことを伝えているだけなので、それは媚びではなく、むしろ自然なことだと思いますし、それで喜んでくれる人がいるのであれば、ぜひ伝えるべきだと思います。結局、小中高とサッカーばかりやってきたから、出どころが体育会系なんですよね。義理、人情、礼儀‥‥そういう「浪花節」的なものが何だかんだで好きで、ある意味では「マッチョ」なところがあるのだと思います。

前回のブログでは、かつて尖っていた話をしましたが、でも、決してそれだけではなく、こういう律儀でマジメな一面もあって、こういう二面性は、今も残っていると思います。

で、結局、何が言いたいかというと、1つは、上記のメールを共有して、僕の社会学観の原点を伝えたかったのですが、もう1つは、何かを伝えたり、表現したりすることって、やっぱり大事よな、ということです。僕はその手段が、「書くこと」でしたし、今も基本的にはそうです。書くことは、自分のペースで、じっくりとおこなうことができます。しかも文明の利器により、現代では書いたり消したりを簡単におこなうことができます。

ということで、夏休みに入って、ちょっと時間ができたら、みんなもブログを書いてみませんか? 3回生も4回生も最近はフリートークができていないので、それとは関係なく、もっと自由に。それは何も特別なことではありませんし、そんなに大層なことを書く必要もありません。ただ自分の好きな曲やコンテンツを紹介するとか、そんなことで全然いいので。論文やレポートは苦手かもしれないけれど、ブログはみんな上手やん!だから書かないと勿体ないよ!

最近、僕が書いてばかりだから、そろそろみんなのブログが読みたいです。みんなは今、どんなことを考えていますか? 何が好きですか? 何が面白いですか? 何がムカつきますか?

最後に、コンテンツ紹介ということで、先日3回生のゼミで、はなちゃんが銭湯の研究をしている関係で思い出したのが、こちらの映画『湯を沸かすほどの熱い愛』です。

これ、控えめに言って、大名作です。舞台が銭湯であること、そして、このタイトルが大きな意味を持つ、感動的なヒューマンドラマです。きのこ帝国の主題歌もいいんよなぁ。アマプラではレンタル(¥407)にはなるけれども視聴できます。松岡ゼミの夏休みの課題映画はこれで決まり!ぜひ観てください!

あと、3回生も4回生も、夏休みは研究を進めるチャンスです。遊ぶことも大切だけど、研究も忘れずに。悩んでいる人こそ、積極的に相談してください。夏休みも事前に連絡くれたら、研究室で相談に乗りますので!

僕は今から、映画『君たちはどう生きるか』を観に行って、相も変わらず古着をディグして、うめきた広場で4年ぶりに開催される2000人のDJ盆踊りに行ってきます。これも全部フィールドワーク。みんなもよく遊んで、楽しく学べ。3回生はインターンとかもあって大変だな。でも、それも社会を覗く感覚で、なるべく楽しんでほしいな。

(松岡慧祐)

【vol.136】なめんなよ 2023(松岡慧祐)

明日はいよいよ夢ナビのオンライン研究室訪問。計100名程度の高校生と対峙します。そのための仕込みをしなければならないし、他にも仕事は山積みなので、ブログなんて書いてる場合ではないのですが、それでもいま書かなければならない。そう感じたので、緊急で筆を取ることにしました。推敲する時間は一切ないので、乱文をお許しください。

先日の3回生ゼミでは、大切な前期最後の個人研究の発表をするはずでしたが、結局、後期に開催予定の「フェス」のあり方について喧々諤々の議論に大半の時間を費やすことに。先週の4回生との合同ゼミで、いまひとつ議論が噛み合わなかったためです。これに関しては、色々な面で僕に責任があります。本当に申し訳ありません。

そのあたりの詳細は、ここでは端折りますが、やはり「フェス」を「みんな」でやるからには、大枠の基本理念はこちらで提示し、共有しておく必要があったことは間違いありません。以前のブログで「~からの自由」という理念は提示したものの、さすがにそれだけではフワッとし過ぎだったかと反省しています。

「自由」であることに加えて、僕が元々イメージしていたのは、みんながそれぞれの方法で何かを「表現」するということです。前のブログにも書いたように、既存の評価軸にとらわれる必要はありません。もちろん「アート」である必要もありません。もっとライトな言葉に言い換えると、それぞれが自由に何らかの「出し物」をするというイメージです。と言うと、「学芸会」のような、ちょっと陳腐な感じがするかもしれませんが、そこは「グレート・アマチュアリズム」。シロウトでも工夫次第で、単なる「学芸会」ではないことができるはずだと思っています。工夫は大事です。そこに知性と創造性が宿ります。

自分には特に表現したい(できる)ことなんて何もない、あるいは表現したくないと思っている人がいることは理解しています。でも、そういう人にも、むしろそういう人にこそ、どんなに小さいことでもいいから、自分にできることをやってみてもらいたいと思っています。1人でなくても構いません。自分だけでは無理でも、誰かと一緒ならできることはあるはず。そこは強制するんですか?と言われるかもしれませんが、はい、これまでなるべく強制は避けてきたけれど、今回はゼミの規律と秩序のためにお願いします。

たしかに特定の思想を押し付けるのは良くないけれど、特定の価値について教え、考えるのが大学だって、そうでないと大学は何を教えるのかって、梅田先生も山岳新校の本で書かれていました。

そして、これはあわよくばの願望ですが、このフェスを通じて、大学を揺るがすことができればいいなと思っています。ひなの言葉を借りれば、“UPSET”。既存の価値をひっくり返す、とまではいかなくても、揺るがす、そして、どうせ大学では無理だよね、ゼミでは無理だよね、松岡では無理だよねと思われていることをやって、番狂わせ(UPSET)を起こす。そのためには、やっぱりある程度の人を呼ぶ必要はありそう。そういった集客の仕組みづくりについては、あらためて考えましょう。

そんなことを考えていたら、ちょうどiTunesのライブラリから、RHYMESTER の “なめんなよ1989 feat. hy4_4yh”という曲が流れてきました。

日本語ラップを長年突き詰めてきたRHYMESTERと、その弟子であるガールズラップユニットの共作であり快作。かっこいい・おしゃれな・ヤバいヒップホップは今やいくらでもあるけれど、さすがレジェンド。ここまで「愚直」なヒップホップはなかなかないと思います。hy4_4yhも今まで色々あった苦労人。昨年にはプロデューサーを亡くしています。その2組が共作した曲のタイトルが“なめんなよ 1989”。1989年にグループを結成したRHYMESTER。そして1989年に出生したhy4_4yhの2人。ちょうど20歳ほど年が離れた2つのグループが、クソみたいな世界に堂々と「なめんなよ」。

そうそう、これだ!と思いました。

僕と今のゼミ生たちの年齢差も、だいたい20歳差。僕が大学に入って社会学を学び始めた頃に、みんなが生まれてきています。僕たちもこんな風に、20歳離れていても、一緒になって、「なめんなよ」とは言わないまでも、そんな姿勢で何かをやれたらいいなと思います。まあ、なめられがちな松岡個人としては、「なめんなよ」と叫びたいと思っていますが。

ちなみに、これは僕が大学生の時に、先月亡くなった祖母と撮った写真です。これを見てると、「オレ、ちゃんと老けたなぁ」「顔も心も丸くなったなぁ」と、そんなベタなことを思います。

何者かになりたくて、「なめんなよ」が行き過ぎて、こじらせて、色んなことに中指を立てて、いつもカメラを睨み付けていたあの頃。ゼミの先輩の卒論発表会に1人で殴り込んで、ディスをかましまくったのもこの頃。そんな良くない尖り方をしていたから、大学で友達はあんまりできなかったけれど、しかし3回生から、おそらく日本一タテヨコつながりの活発なゼミに入って、色んな人に出会って、みんなでUNITEして、青春することの喜びを知って、僕の大学生活は救われました。その原体験が、今の松岡ゼミにつながっています。

でも、やっぱりあれから20年も経って、時代も変わって、大学を取り巻く環境も、大学生の価値観も変わって、昔と同じようにはできない。ありがたいことに松岡ゼミには1期生から魅力的な学生が毎年集まって、楽しいゼミを作ってきてくれたけれど、しかし僕自身の力不足もあって、理想にはなかなか届かない。ましてやゼミでタテヨコつながって青春するなんて‥‥。そう諦めていた頃に、今の4回生・3回生と出会いました。カマすなら、今しかない。直感的にそう思います。たしかに、両学年のノリは全く違う。違うけど、少なくとも松岡という人間のゼミを選んだ、その感性だけは同じではないか? その感性さえあれば、きっとUNITEできるんじゃないかと信じて、もういい加減明日の準備をしないといけないので、筆を置きます。

2023年も、早くも折り返し。このまま終わらせはしない。

続きはウェブじゃなくてゼミで!

(松岡慧祐)

【vol.135】後付け上等(松岡慧祐)

怒濤のブログ更新です。怒濤です。完全にエンジン掛かっちゃいました。いや、決して暇ではないんですが、何かをやり始めると、やる気って出てくるものなんです。やる気が出たらやるんじゃなくて、大してやる気がなくても、とにかくやってみる。そのうちに、やる気が湧いてくることってありません?(研究も、あ~めんどくせーって思ってるだけじゃ一向に何も始まらないし面白くならないから、とりあえず何かやってみような!)

で、今回ブログを書こうと思ったのは、いま3回生がインスタに公開中の「I‘M AGaIN E」と題された動画制作プロジェクトについて、その意味を僕なりに整理しておきたいと思ったから。このプロジェクトは、もともと誰かが動画作りたいって提案したところから始まって、じゃあどんな動画作る?ってなって、紆余曲折を経て(というほどではないか)、誰かが「自分が大事にしていること/したいこと」がテーマでいいんじゃね?って言って、それで行こか~ってなって、じゃあプロジェクトのタイトルどうする?ってなって、どういう訳だったか、誰かが「IMAGINE」でいいんじゃね?って言って、そしたら誰かがそれを文字って、IMAGINEとI’M AGAINEを掛けて、「I’M AGaIN E」にして‥‥。

そんなふうにして、みんなでノリでパスを繋いで、フワッとしたループシュートみたいなのを打ってみたらゴールに入った、というのが、いかにも松岡ゼミって感じがするのですが、そんなことだから、各自が動画作ってみて、披露し合って、わ~素敵!ってなるのはいいけど、そんで結局これって何だったの?となるわけです。

それで先日のゼミでそのあたりを少し話してみたところ、「この子はこういう子だろうなと思っていたことが、動画を見て、やっぱり、って「確認」できました。それは推測や想像にすぎなかったものが「確認」できたってことです」という意見が出ました。

それを聞いて思い浮かんだのが、C.H.クーリーという社会学者の「鏡に映る自己」という理論。自分の姿は自分で見ることができない。だから鏡が必要になる。その鏡になるのが他者で、他者が自分のことをどう思っているかを推測することを通して(つまり自分を他者という鏡に映すことで)はじめて人は自己を認識することができる、というものです。

しかし、今回のプロジェクトでは、別に「他者から見た自分」を表現しようとしたわけではなくて、他者にとっては「イメージ」に過ぎなかった自分を表現し、他者に「再確認」させる営みだったと言えるでしょう。あるいは、自分が「イメージ」している自分を表現し、自分自身を「再確認」する営みだったと言うこともできるかもしれません。

いずれにしろ、自分という存在は、自分にとっても他者にとっても、多かれ少なかれ曖昧なところがある「イメージ」なのではないでしょうか。だとすれば、まさに「IMAGINE」。
「イメージ」は、操作することができます。A.ゴフマンという社会学者は、「印象管理」という概念を用いて、人は何らかの役柄を演じ、他者に与える印象に気を配り、それを操作しながら生きている、と考えました。

今回作った動画に関しても、「これが「本当の自分」ということではないかもしれません」という意見がありました。動画というコンテンツ(作品)に仕立てる以上、そこには何かしらの「演出」がどうしても介在します。それは「ありのままの自分」ではあり得ません。そもそも「ありのままの自分」なんてものは存在するのでしょうか?

動画を作るまでもなく、普段から自分は自分を演じているわけですが、時に、こうして自分を語ったり、表現したりすることを通して、自分は「構築」されていくものであるという考え方もあります。それは「物語論的自己論」と呼ばれています。自分を物語ることを通して、はじめて自己は産み出されていく。しかし、この時、全てがありのままに語られることはなく、自己の物語にとって不要な(不都合な)要素は排除され、無いものとされる。

この理論に従って考えると、今回の動画で「語られなかったもの・表現されなかったもの」とは何か?ということを考えてみるのもいいかもしれません。「ありのままの自分」というものがあるのだとしたら、それはもしかしたら「語られなかったもの・表現されなかったもの」の中にあるのかもしれませんね。

ところで、今回のプロジェクトでもそうだったように、「自分」について考えたり、表現したりすることは大切なことだとは思いますし、それが「アイデンティティの危機」(H.エリクソン)の只中にある若者らしさだとも言えますが、一方で、自分に矢印が向きすぎるのもどうなんだろう?と思ったりもします。「自分」に囚われるのって、ちょっとしんどくないですか?

今年度の3回生の初回のゼミで、「自己表現の問い直し・実践」を提案した張本人は僕なので、またまた矛盾したことを言っている自覚はあります。ありますが、その一方で、「自分」ばかりじゃなくて、「他者」にも、もっと関心を持った方がいいのではないか、という気もします。僕もそうですが、他者の視線を気にし過ぎるという人は少なくないと思います。でも、他者にどれだけ興味を持っていますか?と問われると、どうでしょう。ゼミ生の研究テーマを見ても、「自分」に関わることを研究対象にしている人は多いですが、「他者」を研究対象にしている人は、そんなに多くない気がします。

日本のジェンダー研究の先駆者である上野千鶴子さんは、かつて『情熱大陸』に出演した際に、こんなことをおっしゃっていました。

「社会学者って他人に興味がある人間なんですよ。自分にかまけるなんて、なんてつまらないことだろうと思う。自分を掘ったってしょうがないじゃない。他人の方が謎ですよね。他人は未知です。ほんと他人は謎です」

まあ、いざ研究しようってなると、自分の好きなもの、身近なものを研究対象にしないと、なかなかやる気が出ないっていうのは分かります。それ自体は決して悪いことではありません。最近は「当事者研究」とか「オートエスノグラフィ」という方法論も注目されていて、それはそれでめちゃくちゃ面白いので。でも、「他人」のように、未知のもの・異質なものに触れ、その謎に迫ってみると、世界はもっと広がるかもしれません。いや、今から研究テーマをそういう方向に変えろって言っているわけではないですよ。研究のことはさておき、生きる姿勢として、そういうことって、やっぱり大事よなって。自戒も込めて。

さてさて、こうやって、いつも「後付け」であれこれと捲し立てるのが、「はいはい、松岡節」というところでしょうか。ゼミではいつも見切り発車で何かをやってみたりするので、大体こうなります。もちろん、実践から思考を導く、実践と思考を往復するという狙いがあって、こういうことになっているわけですが、しかしマジメな学生からは、この「後付け」に違和感を持たれ、困惑されたことも、過去に何度かありました。何かやるにしても、もっとちゃんとした目的やビジョンを持ってやるべきというのは、ごもっともです。ただ、その部分こそ学生の主体性に委ねたいので、うまくまとまらない場合は、仕方がないかな、とも思います。それでも、学生たちがやってみたことについて、僕が持っている知識で、社会学的な広い視野で、何とか説明することを試みるのは、僕の最低限の役割かなと思って、今回も拙いブログを書いています。

これも「後付けに過ぎん!」と一刀両断されたらそれまでですが、でも社会学という学問自体、「後付けの学問」なんですよね。良くも悪くも。でも、すでに起きている事象を広い視野で捉え直すことで、時には当事者ですら気づいていなかったことを指摘することもできる。人間はどうしても近視眼的に物事を見てしまいがちなので、例えば地域の問題を考える場合も、地域住民の視点に立つだけでは不十分なことがあります。しかし、地域のことを大して丁寧に調べもせず、何らかの提言や提案をしてしまうのはもっと良くない。だから、「後付け」と言われようとも、まずは対象となる物事について「虫の目」で丁寧に調べ、その上で、それを「鳥の目」で俯瞰する。これが社会学の方法です。

話が逸れましたが、そもそもヒトの人生も「後付け」で成り立つものではないでしょうか。「自分はなぜ生まれたのか?」という問いには答えがありません。「生まれた意味」や「生きる意味」なんて、何もないのかもしれません。でも、人間は真っ白なキャンバスの上に色んな絵を描いて、カラフルな「色付け」をするようにして、生きる意味を「後付け」していくのだと思います。苦い経験や辛い経験にも、きっとこういう意味があったんだ、無駄じゃなかったんだって、ポジティブな「後付け」をする。そこには何の根拠もありません。でも、それも人間の生きる技法であり、一種の知性であり、創造力だと、僕は思っています。少なくとも、僕は今までそうやって何とか生きてきたし、これからもそうすることで何とか生きていくことができるんだろうと思います。

後付け上等。それで人生上々。
一見無駄に思えることも、どうしたら無駄じゃなくなるかを考えよう。
こんな常套句も、想像力と創造力で超えていこう。

今回は、最近ドロップされたばかりの極上のジャパニーズ・ソウル・ミュージックでお別れです。好きなことだけで どこまでいけるかな?

(松岡慧祐)

【vol.134】「自由」をめぐるジレンマ(松岡慧祐)

早くもブログ更新!もともと書く予定だったテーマとは違うことを書きます。
っていうか、前回のブログの補足です。

前回のブログを読んでくれた人!どこか違和感はありませんでしたか?

おまえの個人的な嫉妬心のために私たちを巻き込むなよ。って思った?
いやいや、決してそういうことではないので、そこは行間と文脈を読んでください。

そこではなくて、補足しておきたいのは、「自由」をめぐる問題についてです。
「○○からの自由」を考え、表現したり実践したりしよう。これを当面のゼミ活動の軸としたい。というようなことを前回のブログに書きました。

ここに違和感を抱いた人は、真っ当な知性の持ち主です。

この社会に存在する様々な規範や制度にギュッと縛られて、窮屈さや生きづらさを感じるのであれば、その縛りをちょっと緩めて、解放されてみるのもいいんじゃない?っていうのが趣旨なのですが、しかし、そんなことを声高に言わずとも、現代社会は、個人の自由な選択や生き方を許容しようという方向に進んできています。最も顕著なのは、ジェンダーに関する事柄ですね。男らしく/女らしくなくてもいい、恋愛や結婚もしなくてもいい。近年は、そんなメッセージが強い力を持つようになってきました。

もちろん、あらゆる差別は絶対にダメです。なくしましょう。ジェンダーも平等にしましょう。「普通」や「標準」から外れた人には、ちゃんと配慮しましょう。弱者には手を差し伸べましょう。

変わった方がいい制度も多々あると思います。例えば、新卒一括採用とか、夫婦同姓とか。また、合理性のない固定観念・ルールにすぎないと判断できるものは、「じゃなくてもいい」という別のあり方を模索した方が、むしろ社会にとっても合理的です。

しかし、「普通」や「標準」って、本当に要らないものなのでしょうか?
この点について、社会学者としては、それこそ一歩立ち止まって、慎重に考えたいところです。

「普通」が変化するのは、当然です。最近普及してきた「ニューノーマル」なんていう言葉をあえて持ち出さなくても、「普通」は一定のものではなく、時代とともに変化してきました。「普通」はアップデートされるものです。

でも、極論になりますが、「普通」や「標準」がなくなり、「規範」も弱まり、みんなが本当に自由気ままに生きるようになると、社会はどうなるでしょうか。きっと人口はさらに減少し、社会は衰退し、存続も困難になるでしょう。そうなると、いま私たちが当たり前に享受している「それなりに豊かな生活」を維持することも難しくなるのではないでしょうか。そもそも、「普通」や「標準」がなくなった社会を、私たちはうまく生きることができるのでしょうか。

社会の「成長」や「発展」はもはや期待できないし、その神話からは撤退すべきだと思うけれど、「定常」であれ「脱成長」であれ、個人の生活を守るために社会をどう維持・存続させていくかは真剣に考えないといけません。

残念ながら、僕はこの点についての明確な答えは持っていませんし、社会的にも共有されたビジョンはありません。でも、1つ言えることは、ひたすら個人の「自由」に振り切る方向ではマズいんじゃないかということです。

「○○からの自由」を標榜した矢先に、なに矛盾したこと言ってるんだと思われるでしょう。おまえはどこまでブレブレなんだって。

たしかにそうです。でも、それが社会学なんです。歴史を振り返っても、社会学は、個人の視点(ミクロ)と社会の視点(マクロ)の間で揺れ動いてきました。個人が自分の利益のために利己的に行為すると、集団や社会には不利益が生じることになるというジレンマを説明する理論もあります。

個人の自由と社会の秩序はいかに両立し得るのか。
これは社会学の永遠のテーマだと言ってもいいかもしれません。

社会学は常識を疑う学問だとよく言われますが、しかし社会学は必ずしも常識をぶち壊すためにそれを疑うわけではありません。常識がなぜ常識として通用しているのかを問い直し、その常識を成り立たせている社会の仕組みを分析する。そのために、昔はどうだったか、海外の国ではどうか、というように、その常識が通用しない時代や社会のことも視野に入れ、比較する。これが社会学の考え方の基本です。「常識を疑う=批判する」ということでは必ずしもないのです。

僕も常識を全部ぶち壊して自由になろう!って言いたいわけではありません。
こういったことは、実はすでにゼミ生のみんなには話したことがあります。覚えてますか? コモンズゼミⅠの最初の方に、必要だと思う常識と不要だと思う常識を腑分けしてみるグループワークをやってもらいましたよね。そんなのもう忘却の彼方って感じですかね。その際に、常識には社会にとって必要だから機能しているものも多いっていう話をした上で、個人の自由と社会の秩序の間にはジレンマがあるっていう話もしたと思います。

また、ゼミの初回には、松岡ゼミは自由なゼミだけれど、規律はしっかり守ってほしいということも強調しました。自由というのは、あくまで秩序や規範、そして信頼の上に成り立つものであると。だから僕は、ちょっと意外に思われることもありますが、実は、締切、時間、約束、礼儀などには厳しいのです。大学生はもう大人だし、大学は学問を修める場なので、そんなことをいちいち口うるさく指導したくはないし、実際にブチ切れることはありませんが、ゼミも一種の組織なので、みんなが規律を守らずに本当に自由に行動すると、おそらく崩壊します。ましてや「フェス」なんて、一定の規律や秩序がなければ、できるわけがありません。

付き合いの長いゼミ生ならもう分かってくれていると思いますが、松岡は意外と「常識人」なのです。むしろ、つまらないほどに。大学時代は4年間、全ての授業を一度も休まず、遅刻もせず、皆勤賞。実につまらない大学生です。僕がちょっと奇抜な服を好むのは、そんなつまらない自分に対する抵抗なのかもしれません(こう書くと超ダサいな、、単に好きだからというのもあります!)。でも、たしかに天邪鬼なところはある。他人とちょっと違うことをしてみるのも昔から好き。いつもそうやって常識と非常識、合理と非合理、秩序と自由の間で、僕自身も揺れ動いています。だから時に矛盾しているように見えるかもしれませんが、そうすることで、二元論に陥らず、グラデーションのある世界を生き、自己を調整しているのだと思います。それが「社会を生きる」ということなのではないかと、個人的には考えています(今のところ)。

結局、何が言いたいかというと、「撤退」でも「ハズレる力」でも「自由」でも何でもいいんだけど、それは決して「普通」や「標準」、または「規範」や「秩序」を一概に否定するものではなく、むしろそれを前提として、一旦、一時的に、縛りを緩めてみる。そして、上から外から、自己と社会を眺めてみる。そんな知性・創造性も大事なんじゃないか、ということです。

たしかに、社会は個人の自由を認める方向に進んでいるけれど、それなのに、心を病んでいる人、何かに追い詰められている人が多いのはなぜ??? 「○○からの自由」を考えたいと思った背景には、そんな問題意識があります。

僕も所詮、大学という組織の一員として働き、お給料をいただいている立場なので、組織に適合し、組織に尽くす義務があります。そこはそれなりに頑張っているつもりですが、全員がただ組織に適合しているだけでは、その組織は硬直化し、慣性の力学に呑み込まれますので、そこで組織にもプラスの変化をもたらす人やアイディアが必要なのです。

あ~補足のつもりが、また長くなってしまっています。。。

最近、ゼミのことでも色々と悩んだり、考えたりすることが増えました。ゼミがあった日は、帰宅後、晩ご飯を食べながらドラマを観ようとしても、大体ゼミのことをつい振り返ってしまって、反省して、ドラマの内容が全然頭に入ってきません。でも、それは全然マイナスではなくて、ゼミのみんなのおかげで脳が活性化している証拠です。そうやって普段からたくさん考えていると、こうして書きたいことも増えて、筆も進んで、そして、書くことで思考が整理されていきます。だから、みんなも、普段から研究のこと、人生のこと、社会のこと、そしてゼミのこと、たくさん考えて、悩んでください。大学生活は、それが許される、とても贅沢な時間だから。

今の4回生ゼミと3回生ゼミは、やや毛色は違うけど、どっちもおもしろい。だから、ゼミ史上初めて、今度、合同ゼミをやります。どんな化学反応が起こるんだろう。何も起こらないかもしれないし、爆発しちゃうかもしれないけど、これもやってみないと分からないから、やってみよう。中には、嫌だな~憂鬱だな~サボっちゃおうかな~と思っている人もいるかもしれないけど、ここはすいません、規律を守って、頑張って参加してください。もちろん体調不良の場合は無理しないで。

最後に、梅雨でジトッと不快な今日この頃なので、カラッとしたレゲエのBIG TUNEを。One Loveだなんて、若い時には絶対に言いたくなかったし、今でもそうだけど、それにずっと憧れている自分もいる。これもジレンマです。

(松岡慧祐)

【vol.133】ザ・グレート・アマチュアリズム宣言!(松岡慧祐)

久しぶりにブログを書きます。書くことが生業のはずなのに、近頃なぜか(要領が悪いから?それとも非常勤のやりすぎ?)それ以外の仕事に忙殺されて、じっくり何かを書く時間がとれないのが悩みだ。でも、今日はちょっとだけ時間ができたので、ちょっとだけ書いてみようと思う。

書きたいテーマは今のところ4~5つほどあるのだが、取り急ぎ今回は、先日の3回生ゼミで話したことの記録を。

松岡ゼミでは、社会学のゼミでありながらも、文化的な実践を重視し、みんなで何かをやってみたり、作ってみたりしている。といっても、決して個人の研究を軽視しているわけではなく、むしろそれを重視しているからこそ、一人一人の調査の期間をゆったり確保するために、そして義務的な課題に追い立てないようにするために(僕が言うのもアレだが、今の大学生は課題が多すぎるんよね)、その合間に(ちょっと言い方は悪いが時間を稼ぐために)、グループでの文化実践を挟んでいるというイメージなのだ、実は。だから、みんな、その間に個人の研究を地道に進めておいてくれよな!

とはいえ、僕自身も、メディア制作やアートの専門家ではないから、その「スキル」を教えることはできないし、学生たち自身もそういう専門教育は受けていないから、実践や作品のクオリティは必然的に粗く、拙いものになりがちだ。それを嘲笑する人も、もしかしたら学内にはいるかもしれない。

でも、だから何だ。人間には誰にでも創造性があって、「やってみること」が何より大事で、上手いとか下手だとか、そういう既存の評価軸にとらわれない表現を模索する。そんなことを教えてくれたのが、県大で唯一の同期かつ同い年だった美術家のN先生や、その後任で、先日5時間サシ飲みして「ダチ」になれた(と勝手に思っている)アートプロジェクトの専門家であるK先生だったりする。現代アートから学ぶことはとても多い。特に「刑務所アート」が専門のK先生は、受刑者による拙い表現も、互いに褒め称えることに意義があるのだという(K先生、間違ってたらすいません)。

しかしながら、特定の美学や美意識から逃れることは難しいのも確かだ。僕自身、オシャレでカッコいいものは大好きだし、ましてやアートの専門家は、常にその葛藤との闘いなのだろう。なんだかんだで「アート・ワールド」に回収され、その中での評価を受けたら嬉しい、的なことをN先生も言っていたように記憶している(N先生、間違ってたらすいません)。

結果、「アート」はカッコいい、凄い、ヤバい、面白い、ものになる。だから正直、嫉妬する。

だけど、僕は所詮、社会学者の端くれだから、「美」や「芸」で勝負したって、敵うわけがない。もちろん同じ土俵で勝負する必要なんてないし、そもそも学問の世界に勝ち負けなんてないし、社会学という学問には誇りを持っているから、自分の専門分野を真っ当に頑張って、そこでオリジナリティを追求すれば、それでいいのだろう。

だけど、最近は社会学とアートの境界領域が開拓されつつもあるし、せっかく県大でN先生やK先生ともお近づきになれたわけだから、松岡個人としてもゼミとしても、実践的な研究にもチャレンジしていきたいと思っている。

そもそも、ゼミ生すら知らないとは思うが、僕は過去に「実践的研究としての地図づくりー天神橋筋・中崎町界隈古書店マップを事例に」というタイトルで、地域のマップ作りを企画・監修し、アクションリサーチの結果を論文にしたことがある。
そして、現在は大阪で地域の多様な人たちと協働してフリーペーパー(ローカルメディア)を作る実践もしている。
さらに、今後は奈良で、既存の観光マップとは異なる視点で、奈良のサブカルチャースポットを調べ、マッピングする実践を構想している。N先生にも「需要あるし、売れると思いますよ」って言われて、俄然やる気満々になっている。

(そう、実はめっちゃ「地域創造」してるんです)

ちょっと話が逸れたが、そんな僕のメディア実践も、社会学研究としてはやや異色だが、自分で何かをやってみる/作ってみることで、その経験や出来事の意味を分析する試みだ。このような研究の背景の一部には、やはり僕自身も含め、芸術家やクリエイターではない人々(シロウト)の創造性に対する関心がある。

そこで、だ。松岡ゼミでは、この秋に「フェス」を開催しようと思っている。「アートプロジェクト」でも「アート展」でもない。もちろん「学園祭」とも違う独自の「フェス」を。1日で多種多様なプログラムが混在し、融合していく、まだ誰もやったことがないイベントを。

その中身や全体のコンセプトについては、これから3回生と4回生に合同ゼミで詰めてもらうが、僕が個人的にイメージしているのは、「○○からの自由」だ。本当は「撤退」という表現を使いたいところだが、成長の途上で、絶賛就活中の学生たちに「撤退」の思想を押し付けるのは、水を差すようで申し訳ないから。

でも、誰だって、何かに縛られながら生きていて、それがしんどくなる瞬間はあるだろう。そんな時に、一瞬でも、そんな自分を俯瞰し、自分を縛る何かから解き放たれ、「自由」になってみる。

撤退学の提唱者であるH先生は、「そういった力を養うのは、今の大学では無理だ。だから山へ撤退しよう」と仰った。でも、僕は大学で「○○からの自由」を実践することを諦めたくない。そんなことを、近刊の共著『山岳新校、ひらきました』に書いたので、まだ買っていないゼミ生諸君は、買ってください。いつでも500円で売るからさ!

松岡ゼミは、たぶん県大の中でも特に自由度の高いゼミだから、研究であれプロジェクトであれ「何をやってもいい」という自由がある。しかし、それはなかなか難しいことでもあって、「何をやってもいい」と言われると、「何をやればいいか分からない」というのが、松岡ゼミの厳しさでもある。まあ、社会学や人類学のゼミなら、どこも大体そんな感じだとは思うが、それでも、他のゼミなら、ゼミの先生の好みやポリシーを汲み取って、それに合わせる学生も少なくないような気がする。僕はゼミも一種の宗教みたいなものだと思っているから、それも全然アリだと思うし、僕にもある程度の好みやポリシーはあるけれど、いかんせん良くも悪くもフワッとしているので、他の先生に比べると、その辺がちょっと分かりにくいのではないだろうか。

いずれにせよ、そんな松岡ゼミの「緩さの中の厳しさ」を承知の上で、松岡ゼミを選び、自由と格闘してくれているゼミ生たちのことは誇りに思う。でも、「何をやってもいい」という意味での自由に加えて、みんなに実践してもらいたいと思っているのは、「○○でなくてもいい」という自由なのだ。

そこで、問いかけたい。

みんなは何からちょっとだけでも解放されたい?自由になりたい?あなたが考える「○○からの自由」とは?

この「○○」の部分を考えておいてほしい。これが、今週の3回生ゼミの宿題だ。

僕自身も色々なものに縛られて生きているけれど、このブログの文脈に沿って1つ挙げるなら、それは「アートへの嫉妬」だ。繰り返すが、アートから学ぶべきことは多い。だからこそ、嫉妬してしまう。だが、それに固執しているだけでは何も始まらない。

そこで、「アートへの嫉妬」から自由になって、今まで誰もやったことがないようなフェスをゼミ生たちと一緒にやってみたいのだ。

僕も含めて、素人集団の初めての試みだから、きっと「アート」のようにシュッとしたものにはならないだろう。ダサいとかイタいとかって、笑う人もいるかもしれない。

でも、これはフェスを開催する自分たち自身が、何かから自由になるためのものだから、外野の言うことは気にしない。自分たちが面白い、やりたいと思うことを、どんなに拙くても、やってみる。どんなスタイルも表現も許容される。集客や宣伝に関しても、最低限はやるだろうけれど、それに囚われることはしない。そういうマーケティング的なものからも自由でありたい。

勇気を出して何かをやってみること、それ自体を称賛し合い、拙さも肯定する。これも結局「アート」から学んだことではあるから、「アート」には最大限の敬意を払いつつ、「アート」という概念にとらわれないことをやってみる。

『ザ・グレート・アマチュアリズム』

これは90年代の日本語ラップの黎明期を支えたRHYMESTERが2004年に発表した曲だ。
この曲には、以下のようなリリックがある。

こちとらシロウト 気にしねぇ トチろうと/偉大なるアマチュア どシロウト 止まらない初期衝動

ネコ踏んじゃったすら弾けないが 韻踏んじゃったらオマエもライマー/願ってもないチャンス ブサイク・音痴だって歌えちゃう スッゲー敷居低い歌唱法 ちょうどオレが生きた証拠

元々ヒップホップは、楽器も弾けない、楽譜も読めない「シロウト」たちが創り出した音楽なのだから、誰にだってできるし、やっていいんだ、というメッセージが、この曲には込められている。

ヒップホップからも学ぶことは多い。

アマチュアは偉大である。舐めてはならない。この精神を、僕も大事にしたい。が、今では社会学の研究者や教員として大学から給料をもらい、それでメシを食っているという意味では、僕自身はプロフェッショナルだ。そのことに対する責任と誇りはあるが、しかし最初からプロだったわけではなく、元々はドシロウトだったのだ。高校まではサッカーしかしていなかったドシロウトの僕が、大学で社会学を学んで、下手なりにレポートや論文を頑張って書いて、院生時代は学会発表でボロカスに言われたりもして、頑張って書いた投稿論文もサクッとリジェクト(却下)されて、その度に泣いて、その積み重ねの上に、今がある。下手であることを受け入れて、それでもめげずに頑張ってきたからこそ、今がある。

下手でもええやん。

最近は、こんな呪文を唱えるように心掛けている。人一倍かっこつけで臆病で実はマジメな僕だからこそ、その呪縛からちょっと自由になるために。

って、そんなことを書きながらも、今しがたインスタでかっこいい服を見つけて、ポチって、早速かっこつけようとしている自分もいる。「おしゃれ」の呪縛は、僕にとっては実に強力だ。

言ってることと、やってることが、ちゃいますねん。
これは、SHINGO☆西成『U.Y.C』という曲からの引用です。

まあ、そんな矛盾を抱えているのも人間だから。それも受け入れよう。

あ~結局、長大な、その上に推敲不足のまとまりのない文章になってしまいました。
こんなんだから、筆が重くなるんよなぁ。

ところで、ここまで読んでくれた人って、どのくらいおるかな?
たぶん、あんまりやろなぁ。
LINEすら、最近の学生はなかなか読んでくれんからなぁ。
もっと僕に威厳やカリスマ性があれば、そんなことはないんかな。

そのあたりの苦悩に対するアンサーは、次回のブログに書く予定です。次こそ簡潔に書きます(たぶん)。別に書くこと自体がめちゃくちゃ好きというわけではないんですが、喋るのが下手すぎるから(大学教員としては致命的やけど)書くしかないんですわ。ごめんなさい。

まあ、下手でもええやん。

「最後まで読んでくれてありがとうございました」とか、ありきたりなことは書きたくないけど、最後まで読んでくれたあなたには、何かを「やってみる」以前に大切な、人の話を「聞いてみる」力があることは保証します。誰も知らんと思うけど、ほら、奈良県立大学のディプロマポリシー(卒業認定・学位授与の方針)ってやつには、「4.他者の意見や思いに耳を傾け・・・」って書いてあるぞ!一歩、卒業に近づけたんちゃうか?よかったな!

(松岡慧祐)

【vol.86】読み手に届くように(松岡慧祐)

新年あけましておめでとうございます。今年の年末年始も、念のため…ということで実家への帰省を自粛することになり、大阪の自宅でゆる~く仕事をしながら、奥さんとまったり過ごしている松岡です。年が明け、気持ち新たに1年をスタートさせたいところですが、この時期になると、例年、4回生の卒業や2回生ゼミの“中締め”が近づくことで、否応なく「終わり」を意識させられます。4回生は年末に卒論の第1稿を提出して一息ついているところだと思いますが、2回生は研究報告書の第1稿を冬休み中に書いてもらうことになっているので、きっと落ち着かない年末年始を過ごしていることでしょう。

ところで、昨年、個人的に嬉しかった出来事の1つが、2016年に出版した拙著『グーグルマップの社会学』の中の一部の文章が、『ちくま評論入門』(https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784480917416) という、高校生が入試対策で現代文の読み方を学ぶテキストに掲載されたことです。大学生が物事を深く考えるのに役立つテキストでもあるので、これから3回生のゼミで読むことにしているのですが、このテキストの帯文には「現代評論27本を厳選」とあり、見田宗介さんや鷲田清一さんや上野千鶴子さんといった錚々たるレジェンドの中に、どういう訳か、松岡が名を連ねているのです。学生のみんなは全然ピンと来ないでしょうけれど、自分の名前が中沢新一さんと若林幹夫さんの間に挟まれることになるなんて、、、学生時代の何者でもなかった自分に教えてあげたら、「またまたご冗談を」と言うでしょう。

『グーグルマップの社会学』は、今となっては反省だらけの作品ではあるのですが、こういうことがあると、書いて良かったと、心から思えます。この本は、幸運にも安価な新書として出版することができたので、研究者以外の人々にも広く読まれることになったのですが、特に受験業界の人々に刺さったようで、これまで数えきれないほどの高校・大学の入試問題や学習塾の模試に採用されました(有名なところだと、同志社大学や中央大学など)。これは想定外の出来事でしたが、内容はともかくとして、文章が読むに値するものとして評価されたということは確かでしょう。

しかし、私は決して文章力に自信があるわけではありません。これは決して謙遜ではなく、人よりも文章を書くのに時間がかかるし、時間をかけたからと言って読者を唸らせるような巧みな表現ができるわけでもない、凡庸な書き手だと思っています。しかし、だからこそ、せめて「読者に届く文章を書く」ということは、学生時代から強く意識してきました。読者の貴重な時間を頂くのだから、そんな読者への思いやりを持って、なるべく平易な言葉で、読みやすい文章を書くということには労力と時間を惜しみません(と言うか、時間をかけないと書けない)。その根底には、自分自身が本を読むほうもあまり得意ではないので、自分のような人でも読める易しい文章を書かなければ、という思いがあります。また、「書く」という行為は、「話す」という行為とは異なり、時間をかけて何度も推敲できるので、自分の思いや考えをじっくり整理した上で他者に伝えることができるチャンスでもあります。

私は、文章も「デザイン」の一種だと考えてます。デザインとは、情報を「整理整頓」する技法だと、知り合いのデザイナーから教わりましたが、文章にこそ、そのような「整理整頓」が不可欠です。そして、そこに宿るのは、書き手の「美意識」と「サービス精神」です。グラフィックデザインであれ、文章であれ、受け手のことを想像し、きちんと届くように整理整頓し、美しく仕上げる。厳しい言い方をするなら、このような美意識とサービス精神の欠けた文章は、落書きと一緒です。誤字・脱字なんて、もってのほか。誰かに読んでもらうなら、少なくとも二度や三度は読み手の立場に立って、(できれば声に出して)自分の書いた文章をゆっくり読み返すという作業をすべきです。今までの卒論指導の経験上、こういうことが自然にできるのは、几帳面な人や本が好きな人だけでなく、アートやデザインが好きな人に多かった気がします。そういう人には、自分の文章を「作品」として美しく仕上げようとする感性が備わっているからでしょう。

ゼミでみんなにブログを書いてもらっているのも、こうした感性を養い、読み手に届く文章を書くためのトレーニングという狙いがあるからです。そのことは、みんな何となく理解してくれているようで、ブログを書く際には、きちんと読み手を意識して、読み手に届く文章を書いてくれます。しかし、論文となると途端に雑な文章を書く人が出てきます。それは、論文の場合、書き上げるだけで精一杯になり、読み手への配慮がおざなりになるからでしょうか。あるいは、論文はブログと違って、“みんな”に読ませるものではないから、ということでしょうか。たしかに、卒論や研究報告書をじっくり読むのは、指導教員である私だけかもしれませんが、読者が1人でもいる限り、手紙を書くような気持ちで、その人にきちんと届くような文章を丁寧に書くべきだと思います。ただし、今は卒論も研究報告書もmanabaで全教員が閲覧できるようになり、卒論は学内のリポジトリにアーカイブされるようになり、松岡ゼミでは、毎年、卒論集を製本して図書館に配架しているので、“みんな”に読まれると思って書いてくださいね。いや、「“みんな”に読まれる」とか言うと、受動的でネガティブな感じがして良くないですね。「“みんな”に読んでもらえる」と考えるようにしましょう。

そして、きちんとした文章を書くための美意識とサービス精神は、どんな仕事にも活かされると考えています。もちろん、思考力や発想力も大事ですが、何はともあれ、丁寧な仕事ができる人は、上司や同僚からの信頼を得ることができます。逆に、どんなに能力があっても、いい加減な人には、大事な仕事は任せられないでしょう。私も一応、大学組織の一員として他者と協働しながら色々な仕事をしていますので、その経験から断言できます。だから、自分の能力に自信がなくても、そういう人こそ何事も「きちんと仕上げる」ことを意識しましょう。そして、そのためのトレーニングとして、ゼミでのあらゆるアウトプット作業を位置づけてもらいたいと思っています。

「そうは言っても、私には文章力や語彙力がないので…」と言う人がいるかもしれません。でも、それはスキルだけの問題なのでしょうか。先述のように、私だってスキルはありませんが、それでもここまで来れたのは、「読み手に届けよう」というスピリットの賜物だと思います。今回、このようなブログを書こうと思ったのは、『ちくま評論入門』のことを自慢したかったからというのも少しはありますが(笑)、ある程度まではスピリットでスキルを補えるということを伝えたかったからです。

でも、こんなことを書くと、特に研究報告書を執筆中の2回生にはプレッシャーを与えてしまうでしょうか。今まで書いてきたことと少し矛盾するかもしれませんが、どんなに拙くても、何かを表現すること、アウトプットすることは、それ自体が尊いことです。100点になるまで煮詰めて何も表現しない人より、10点でも20点でも、自分の中から何かを出した人のほうが偉い。これは、私が大好きな映画『何者』(2016年、出演:佐藤健、有村架純ほか)で、有村架純演じる女子大生が言った言葉です。何はともあれ、自分が表現したいことを表現し、表現することを楽しむ。これは大前提。でも、何かを表現するとき、独りよがりにならずに、他者に届くように表現することができれば、その喜びは何倍も大きくなる可能性があります。その喜びを知っている私には、それを教え子たちにも伝える義務があると思い、新年早々から、やや冗漫で説教くさい文章を書かせてもらいました。

偉そうに言うくせに、このブログが読み手に届くものになっていないとしたら、、、すみません!精進します!!(誤字・脱字があったら、しばいてください)

というわけで、私も今年はアウトプットを頑張ります。たまにはブログも書きたいな。今年もどうぞよろしくお願いします。

(松岡慧祐)

【vol.79】先生、もっと勉強しとけば良かったっすわ(松岡慧祐)

秋が深まり、一気に肌寒くなってきた今日この頃。松岡ゼミの4回生は卒論の佳境に突入、3回生は某プロジェクトを始動、2回生はゼミ生の判断で思い切って全員での対面ゼミを休止し、各自が自分の調査研究にじっくり向き合う期間へ。それぞれ様相は違えども、「学問の秋」真っ只中だ。

2回生・3回生は、毎回、話題提供の担当者を決めてフリートークをおこない、それをもとにブログを書いてもらっているが、ゼミ生に書かせてばかりで、指導教員が何も書かないのは正直ズルい。そこで先日、2回生のゼミで私がフリートークを担当し、お手本になるような高尚なブログを書いてドヤ顔をしようと思ったのだが、そんな意気込みも虚しく、フリートークでは大したネタを投下できず、面目ない限りである。

なので、今回はフリートークとは関係なく、学問の秋らしく、たまには「大学での学び」について思うところを綴ろうと思う。

先日、松岡ゼミのOB(1期生)で、今はサラリーマンをやっているMが、研究室に遊びに来てくれた。軽音学部に所属し、音楽やファッションに夢中だった彼は、いわゆる「コミュ力」のバケモンで、ゼミでも抜群のムードメーカーだったのだが、お世辞にも学問や研究に真摯に取り組む学生ではなかった。それでもMとは卒業後もプライベートで何度か飲みに行くような間柄で、その人懐っこさは、会社でも存分に発揮され、上司にとても可愛がられているようだった(それゆえ、私も彼にとても甘かった)。

そんなMが、先日、研究室に来るやいなや、「先生、僕の弱音を聞いてください」と、仕事の悩みや苦労を吐露し始めた。詳細は端折るが、会社内で難しい立場に置かれているらしく、Mのコミュ力をもってしても、簡単に解決できる問題ではなさそうだった。そして、一通り愚痴をぶちまけたMは、こう呟いた。

「学生時代、もっと勉強しとけば良かったっすわ」

大学で学ぶ学問、特に社会学は、社会に出てからこそ役に立つというのが私の持論だが、実際に社会の荒波に揉まれた卒業生の口からこぼれたこの言葉は、重い意味を持つ。「やっぱそう?具体的には?」。そう問いかけると、Mはこう言った。

「てゆうか、姿勢、アティチュードの部分ですね」

つまり、「何を学んだか」ではなく「どう学んだか」が大切なのだ。これは、私のオールタイムベストである青春ドラマ『白線流し』(1995年放送、出演:酒井美紀、長瀬智也ほか)の最終回で、主人公の担任の高校教師が言った台詞でもある。結局、大学で学んだ専門的な理論や概念などは、すぐに忘れてしまうが、学問を通して様々な考え方に触れた経験、先生や仲間たちと空理空論の議論をした経験、自分で問いを立てて探究した経験、地道に調査をして情報やデータを収集した経験、これらの経験はすべて、社会に出てから直面する様々な問題に向き合うための「姿勢」を形成する。こういった「姿勢」は、社会に出てから一朝一夕で出来上がるものではないし、「コミュ力」などで代替できるものでもないので、学生時代からしっかりと整えておく必要があるし、それができている人とそうでない人とでは、後々、大きく差が付いてしまう。Mが言いたかったのは、きっとそういうことなのだろう。

しかし、問題は、みんなそれに気付くのが、社会人になってからということだ。私たちは、いつも後になって色々なことに気が付く。そして、後悔する。私だって(大学院に進学したわけだから人一倍は頑張ったが)もっともっと学生時代から勉強しておけば良かったと思う。「読モ」全盛期の神戸の女子大出身で元パリピである私の妻も、同じことを言っていた。しかし、それは、ある種の成長の証であり、大人になって「社会」を体感したからこそ気付けることなのかもしれない。だからこそ、近頃「リカレント教育(社会人の学び直し)」などというものが謳われている。実際、私の母校の出身ゼミでは、年齢・世代を超えてOB・OGが年に2回、大学に集まり、社会学を学び直すための勉強会をやっている。なんて意識が高いのかと思われるかもしれないが、そこに集まる人たちだって、学生時代は大して勉強していなかった人たちだ。だから、学び直すのである。

そう考えると、「もっと勉強しておけば良かった」という後悔を抱くことは、至極自然なことのようにも思えてくる。これを読んでくれている現役生のみんなも、きっといつか後悔する。そういうものなのだ。

しかし、それは本当に仕方がないことなのだろうか。その後悔が少しでも小さくなるように、私に今できることはないだろうか。もちろん、学問の楽しさ・面白さ、学問を楽しむ技法を伝えるのが一番の役割なのだが、とりあえず、「きっといつか後悔するよ」ということも伝えておきたい。ナンセンスな気もするが、それも先達の役割だろう。

ちなみに、Mは、先の言葉の後に、苦笑しながら、こう続けた。

「とはいえ、もし今、学生時代に戻れたとしても、きっと勉強しないんでしょうけどね」

今週末に、Mを含む1期生たちと、久しぶりに再会し、飲みに行くことになった。今年でみんな26歳。今の彼ら・彼女らに問うてみたい。「もっと勉強しておけば良かったと思う?」と。

(松岡慧祐)

【vol.16】社会学は何の役に立つか(松岡)

今回は「ゼミ生のブログ」ではなく、スピンオフとして松岡が書かせていただきます。

大学が「就職予備校」化し、学生の学ぶ意欲が低下していると言われています。ある調査結果によると、就職のために大学に入ったという学生が増加する一方で、学問だけでなくモラトリアムや遊びという目的すら希薄になっているというのです。それでも、今の学生が昔の学生に比べて一概にダメだというつもりはありませんし、学生たちをそうさせている社会的要因があることも理解しています。それに今の学生だって、それと意識していないだけで、結果的に大学生活をモラトリアムとして活用し、様々な経験を通して人間的に成長しているのだと思います。しかし、やはり大学教員としては、それだけでOKというわけにもいきません。われわれには、たとえ学生に煙たがられようとも、学問の意義を説く義務があります。

とはいえ、かならずしも職業に直結しない人文系の学問が何の役に立つのかを、われわれ教員が十分に伝えることができていないというのも事実です。役に立つ/立たないという次元で物事を考えるのはあまり好きではないのですが、特に社会学は何の役に立つのかがわかりにくい学問なので、就活の時にアピールするのが難しいという声もしばしば耳にします。私もどんな言葉でそれを伝えればよいのか、まだまだ模索中ですが、さしあたり、社会学は物事を広い視野で柔軟に捉える力を身につけることができる学問であり、それは、この生きづらい社会をしなやかに生きていくための大きな武器になると言うことができるでしょう。社会に出れば、学生時代には経験しなかったような困難や問題に必ず直面します。学生時代には出会わなかった色々な立場の人と出会います。そこで、色々な問題に対処するための思考力、色々な人を理解するための想像力を養うのが、社会学のような学問なのだと思います。

ある学生が「学問よりも、部活やサークルで培われるコミュ力の方が役に立つ」と言っていましたが、複雑な社会で生きていくためには、同質的な学生間で通用する表面的なコミュ力よりも、もっと多面的なコミュ力(例えば、伝える力、聞く力、理解する力)を身につける必要があり、社会学のような学問はそのためにも役立ちます。この社会にはどんな人がどんな価値観で生きているのか、いまの社会はどんな流れや状況にあるのかを知ることは、どんな仕事をする上でもきっと役立ちます。営業だって公務員だって「社会」や「人」ありきの仕事なわけですから、「社会」や「人」を理解する力はとても大切ではないでしょうか。そして社会学では、社会や人を理解するために、さまざまな方法で調査をおこない、信頼に足るデータをコツコツ収集するわけですが、このようなリサーチ能力も、さまざまな仕事に活かされることでしょう。また、企画やマーケティングの仕事においても、現代人の多様な価値観や嗜好性を把握するための社会学的思考は不可欠だと思います。自分・友人・家族だけでなく、社会にはもっと多様な立場・価値観で生きている人がいること、常識とは絶対的なものではなく時代や社会によって変化しうることを念頭に置いておかないと、あらゆる場面で判断ミスをおかす恐れがあります。あるいは、ビジネスだけでなく、結婚や子育てといったプライベートな領域においても、自分の問題を社会のしくみと結びつけて相対化することができれば、その時々の社会状況をふまえた適切な判断や行動選択ができるでしょう。さらにミクロなレベルでは、社会学を学ぶと他者への理解力が高まり、会話の幅も広がるので、他者とのコミュニケーションもしなやかなものになると思います(かく言う私はそんなに優れた人間なのかというツッコミどころは大いにありますが、ここでは置いておきましょう)。

たしかに、学問は難しいです。特に、社会学はややこしい学問です。私自身も逃げたくなることがあります。それでも、難しいこと、ややこしいことから逃げてはいけません。学問に向き合うということは、いずれ降りかかってくるであろう難しいこと、ややこしいことに向き合うための訓練でもあると思います。表面的なコミュ力や狭い知識では対処しきれない問題に立ち向かうには、物事をじっくりと広い視野で洞察する力が必要になります。

また、現代は不透明な社会ですので、そのなかで、ビジョンを描けず、刹那主義に逃げる若者の気持ちもわかります。けれども、不透明な社会だからこそ、その社会を何とか見通すための思考力と想像力が必要なのではないでしょうか。不透明だからと諦め、安易に適応してしまうのではなく、長期的で広い視野をもって不透明さに対峙するために、社会学のような学問を学ぶ意義があるのではないでしょうか。

社会学は、自分で問いを発し、自分が興味のあるテーマを自由に追究できる学問ですから、「興味がないから頑張れない」という言い訳は通用しません。自分の興味があることにすら向き合えない人が、社会に出てさまざまな難問に向き合っていくことができるでしょうか。

もちろん、学問だけが人を成長させるわけではありません。大学生活は貴重なモラトリアムですから、学問以外の様々な経験も大切です。むしろ学問ばかりではバランスが悪いでしょう。それでも、せっかく大学に来ているのだから、学問にもしっかり向き合い、せめて自分で選んだ研究はやり切って、人間的に成長してほしいというのが、私の切なる願いです。

(松岡)