ヤーマン!みんなもそろそろ試験やレポートが終わって本格的に夏休み突入でしょうか?
僕もテストやレポートの採点、オープンキャンパス業務を終えて、これから夏休み、、、いやいや研究期間(!)に入りますが、それはさておき、また性懲りもなくブログを書きます。この性懲りのなさに辟易する人もいるでしょうけれど、そもそも研究者って性懲りもない人たちの集まりなんですよね。誰に頼まれたわけでもない1つの研究テーマに執着して、それに膨大な時間を費やして、批判されても、見向きもされなくても、性懲りもなく探究し続ける。そんなしつこい人種です。
それはなぜ?と問われると、僕の場合、「好き」とか「やりたい」という単純な言葉ではあまりしっくりこなくて、おそらく僕にはそれが「必要」なのだと思います。前にもブログで述べたように、話し下手な僕にはじっくり考えて、書くという営みが「必要」なのです。
先日、東吉野で人文系私設図書館を開いている思想家の青木真兵さんと、「都市と撤退」というテーマで、大阪のブックカフェでトークセッション(対談)をさせてもらったのですが、僕個人としては、ま~上手くいかんかった(涙) 普段、人と会話するのは好きだし、授業や学会発表は事前にしっかり準備しておけば何とかできるのですが、トークセッションは即興性が求められるので、それが得意でない僕は、あらかじめ考えていたことの10分の1くらいしか話せませんでした。つくづく何て話し下手なんだと自己嫌悪にも陥ったし、参加してくれた1期生のあかりん、4期生のがえ、8期生のまる(マジでありがとう!4人での打ち上げは超楽しかった!)には、かっこ悪いところを見せたなぁと思いますが、それでも、だからこそ、僕には「書く」という営みが必要で、それが救いになるのだとあらためて思いました。
なので、本当は、僕がトークしたかったことをここに書きなぐりたいところではあるのですが、長くなるので、それは割愛するとして、対談相手の青木さんがご自身の思想の1つとして一貫して主張されているのが、他者のニーズや評価から自由になるということです。なぜなら、何もかもが商品化されたり数値化されたりする資本主義の社会の中で、私たちは自分自身も商品化され、ニーズや生産性がないと生きていけない存在になってしまうからだと言います。ただし、青木さんもこのことを100か0かで考えているわけではなく、実際のところ他者のニーズや評価を全く気にしないというのは難しいし、その必要もないと思います。青木さんだって、自分の本がどれだけ売れたかは絶対に気にしてるはずだし。でも、他者のニーズや評価に依存し、執着してしまうと、自分の商品価値や生産性にしか存在意義を見いだせなくなる。だから、そういうものから一時的にでも自由になる思考や経験「も」必要だということです。
先日のトークセッションでは、わざわざ1000円の参加費を払ってトークを聞きに来てくれた方々に対して、そのお返しが十分にできなかったことに対しては、とても申し訳なく思うけれど、その一方で、今回のトークイベントに自分自身がチャレンジしたこと、そして、たとえ10分の1であっても、自分の立場から言えること・言いたいことを言った、ということには価値があるのだと、そう思うようにしています。自分の本を出した時もそうでした。反省だらけの拙い著書でも、それを出すことによって、批判されることもあれば、面白がってくれる人もいて、それが新しい仕事につながって、TOKYO FMに出演したり、朝日新聞に載ったり、色んな高校・大学の入試問題に使われたり、予想もしていなかったことがたくさん起こりました。
まあそんなわけで、先生からの「評価」に晒されるレポートから解放された今こそ、みんなも自由にブログを書いてみませんか?しつこいようですが、自分のペースで、じっくり考えて、「いいね」の数や再生回数も気にせずに、自由に「書く」ことが許される時間はとても貴重です。最近はnoteでブログを書く人も一部いますが、2000年代に比べると、ブログの文化がSNSに取って代わられる形で衰退したのは少し残念に思います。
思い起こせば、数年前にゼミガイドに掲げた松岡ゼミのテーマは、「社会学で情報生産者になる」でした。そう、松岡ゼミで最初に読む上野千鶴子さんの『情報生産者になる』にインスパイアされたものです。上野さんによれば、情報消費者に甘んじるよりも、情報生産者になる方がよっぽど楽しい。ただし、情報生産の手段が論文やレポートとなると、大上段に構えてしまって楽しくなくなるのも、まあ分かる。そこで、ブログ、ラジオ、フリーペーパーなど、色んなメディアをつくって、もっと気軽に、自由に情報生産してみようというのが、旧来の松岡ゼミのテーマだったし、今も隠れた理念としては残っていて、何となくは共有されているものだと思います。
僕が登壇したトークイベントの翌日、青木さんがまた別のトークイベントを、県大のすぐ近くの船橋商店街に最近オープンした「ほんの入り口」という本屋さんで開催し、建築家の光嶋裕介さんと対談するということで、聞きに行って来ました。これは、青木さんと光嶋さんが最近出版した書籍『つくる人になるために』の出版記念トークイベントだったのですが、このイベントの中で、光嶋さんは「つくる」という営みをもっとやわらかく、広く捉えたいというようなことをおっしゃっていました。光嶋さんは建築家なので、建築物をつくっているわけですが、しかし、有形・無形問わず、人は誰でも何かをつくっているのだと。例えば、料理をつくることも「つくる」だし、自分がその日に着る服のコーデを組むことも「つくる」ことなのだと。それは何も特別な創作料理でなくてもいいし、突出したお洒落である必要もありません。お味噌汁でいいのです。お味噌汁はおいしい。
一方、青木さんは、そのイベントで「シュートを打つ」という言葉をよく使われていました。それは、おそらく「言いたいこと・言うべきことを言う」ということなのだと、僕は解釈しました。青木さんは元々、大学院で歴史学の研究をしていて、論文を書いていたわけですが、論文には「審査」や「評価」が付き物なので、それではシュートを打てている気がしなかったのだそうです。それで、体調を崩されたことなども重なって、東吉野村に移住し、就労支援の仕事に従事しながら、私設図書館を開いたり、本の執筆活動をされるようになりました。そんな青木さんにとっては、本を書くことはもちろんですが、「オムライスラヂオ」というネットラジオをやったり、自宅を図書館にするという営みが、「つくる」ことなのだと思います。青木さんはラジオが何人に聴かれているかは一切気にせず、もう何年も週に一度、ラジオを配信し続けているそう。ゼミの4回生には、ラジオ「鹿の国から」を始める時に、そんな話をしましたよね。
そんな青木さんたちの話を聞いていると、「つくる」という行為は、もっと自由で気軽なものでいいんだと思えてきます。「作る」や「造る」だと、いわゆる有形の「ものづくり」のイメージが付きまとうし、「創る」だとアートな感じがします。だから、青木さんや光嶋さんはあえて平仮名で「つくる」という言葉を使っているのだと思いますが、これがとてもやわらかくて、所謂「生産性」とは次元が違っていて、とてもいいなと思いました。著書のタイトルは『つくる人になるために』ですが、しかし、誰もがすでに「つくる人」であると考えることもできそうです。
その意味では、こうしてブログを書くことも「つくる」ことだし、トークイベントで拙いながらも自分なりの考えを発信したことも「つくる」ことだから、僕自身、論文を書くこと以外にも、「つくる」ための多様な方法を持つことができている。そう思うと、もっと自分にもできることがたくさんあるのではないかと勇気が湧いてきます。
そして、「つくる」上での出発点にあるのは、他者からのニーズではなく、自分の願望や欲望でいい。そこで、ふと思い出すのは、4回生のちはるちゃんが、「お通夜ゼミ」と言われていた(らしい)2回生ゼミの時に、「ショタコン」の研究をするにあたって、ゼミの研究発表の時に、「ショタ」の魅力を熱量たっぷりに解説した冊子を作って配布したこと。誰に頼まれたわけでもありません。そこにあるのは、ただ「伝えたい、知ってもらいたい」という気持ちだけ。そして、同じく4回生のえんどぅ~が、このあいだ課題でも何でもないのに自主的にブログを書いたのは周知の通りです。こういったことを、みんなは「凄い」「ヤバい」と思うかもしれませんが、そうでしょうか? たしかに、その主体性は素晴らしいとは思いますが、2人ともただ自分にできること、やりたいことをやってみただけで、「一発カマしてやろう」なんていう気負いは、全くではないかもしれないけれど、そんなにはなかったのではないかと思います。それよりも、その行為がやはり自分にとって「必要」だったと言った方が適切かもしれません。ボランティアとかだって、きっと自分のために、自分に必要だからやっているという人も多いのではないかと思います。
「つくる」ことは、そんなに特別なことではない。実は、もっと多様で、自由で、身近で、個人的なものなのではないでしょうか。「シュートを打つ」という言葉も良いけれど、元サッカー少年の僕に言わせれば、シュートは力を入れすぎると入りません。ちょっと力を抜いて、まるでゴールにパスをするような感覚で打つべきだというのは、元ブラジル代表のレジェンドで、元日本代表監督でもあるジーコの格言です。
だから、これから僕は、もちろん本業の論文も書き続けるけれど、もっと色んな方法で、気軽に「つくる」を実践していこうと思います。スキルや才能があるとかないとかは、気にせずに。
そう思っていた矢先に、先日のトークイベントに参加してくださった方から、新たなトークイベントの登壇のお誘いがありました。自信はないですが、性懲りもなく、またチャレンジしたいと思います。トークセッションはきっとみんなの方が得意だと思うから、ぜひフェスでやってみてほしいな。
先月、People’s Clubが開催した夏祭りでは、奥さんと古着屋のポップアップをやらせてもらったけれど、あれも一種の表現の場だったと思うし、メンバーたちの多大なるサポートのおかげ(本当にありがとう!)だけど、自分なりの「つくる」だったなと思います。でも、思いのほか繁盛して、他者ニーズがあったので(笑)、今度は、青木さんの住む東吉野村を訪ねて、山奥で誰からも求められない古着屋を開いたり、誰もいないところでオシャレをしてみるいう実践を画策中です。
そこで、ゼミ1期生のあかりんが勤めているNPO法人(実はえんどぅ〜も卒業したらここで働くことになっています)が運営に携わっているトークイベントで、「無駄づくり」を実践している藤原さんがゲストに登壇するそうなので、お話をルクアに聞きに行こうと思っています。誰か一緒に行きませんか?https://shigotofield.jp/turning_point/#fujiwara
このイベントは連続のシリーズになっていて、9/5には青木さんと梅田先生が撤退学研究ユニットを代表して登壇する予定です。こちらはオンラインなので、気軽に参加してみては?https://shigotofield.jp/turning_point/#tettai
さて、そんなわけで、みんなもせっかく夏休みに入ったことだし、ぜひブログを書いてみたり、不合理なことをやってみたりして、自分なりの「つくる」を実践してみてください。そして情報生産者になりましょう。どんなに拙くても構いません。結局、いつも同じことしか書いていませんが、下手でもいいのです。アマチュアリズムを称えましょう。むしろニーズがないこと、めちゃくちゃなことをやってみましょう。その延長線上に、松岡フェス(仮)があるのではないかと思います。先日のトークイベントに来てくれていた卒業生のあかりんやがえも、フェスに参加したい(何か出したい)と言ってくれています。なので、フェスをどうするかについても、夏休みの間に、各自じっくり考えておいてもらえたらと思います。
しかし、ゼミでフェスをやるというのも、もしかしたらこれで最初で最後になるかもしれません。というのも、(今の在学生には関係ないですが)現在検討されている学部再編にともない、今のような形の「ゼミ」はなくなってしまうかもしれないからです。僕が前々から呟いているように「松岡ゼミ」という名称の看板を下ろすのを待たずして、そもそも「ゼミ」というもの自体がなくなってしまうかもしれません。詳しいことは組織の情報なのでここには書けませんが、その理屈はそれなりに分かるんです。分かるのですが、ゼミが大好きな松岡個人の感情としてはさびしくてなりません。だからこそ、最後に、思い残すことがないように、松岡ゼミの集大成として、フェス(必ずしも「フェス」という名称でなくてもいいのですが)を実現できればと思っています。個人的には、それこそニーズがなくても構わないし、あえてニーズがないことをやってみるのも面白いのではないかと思ったりもしますが、みんなはどう思いますか?そうそう、昨日のオープンキャンパスで、KZM先生が休憩スペースに『無目的―行き当たりばったりの思想』という本を展示していて、とても惹かれました。これから読んでみます。http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3828
長くなりましたが、最後に今回のエンディング曲は、松本英二郎『まぁすぃーの丘』。誰も知らないと思いますが、知る人ぞ知る大阪在住の素晴らしいミュージシャンである松本さんには、かつて僕が制作に参加しているフリーペーパーの取材でライブレポとインタビューをしたことがあります。音源化もされておらず、2年前にYouTubeにアップされただけの曲ですが、8/12現在、まだ247回しか再生されていません。そのうち50回くらいは僕だと思います(笑) でも、この曲はもっと聴かれるべき名曲だと思うので、シェアします。陳腐な言葉で批評したくはないので、とりあえず聴いてみてください。僕は泣きました。人は失ったときのために、「つくる」のかもしれません。
ではでは、良い夏休みを。次はみんなの番だ!
(松岡慧祐)