【vol.94】「フリートーク」に失敗した話(2回生 えび)

こんにちは。

松岡ゼミの2回生えびです、3回生になれるかは分かりません。

このブログは定期的に行われる「フリートーク」から議論内容と自身の考えを纏める自由な議事録のようなものですが、以下に綴る文章はほとんど私の反省文です。

来年度から松岡ゼミになる1回生は、あぁこんな失敗をした先輩がいるんだなぁと少しでも学びにしてくだされば幸いです。

もしかしたら同回生になるかもしれませんが。

まず私がフリートークの担当になったのは夏休み前のことでした。

私の記憶が正しければ二番手だったか三番手だったか、何にせよかなり序盤にフリートークを行いました。

今は何月でしょうか?2月です。
今年度が終了しました。

要はかなり序盤にフリートークの担当になりブログをしたためなければいけなかったのに、ここまで引っ張ってきてしまったということです。

これでもブログを書かなきゃ書かなきゃと向き合ってはいたのですが、何かが納得いかず、書きあげることができませんでした。

そもそもとして自分の担当したフリートークが不完全燃焼に終わってしまった感覚があり、本当にこれでいいんだろうか?というもやもやが拭えなかったのです。

何故フリートークが不完全燃焼で終わってしまったのか?
何故どう書いても納得がいかないのか?

考えに考えた結果、私は議題選びを失敗したことに気が付きました。

もっと正確に言えば、議題となった対象への「問い方」を失敗しました。

私が今回提示した議題の対象は、「脱コルセット運動」です。

脱コルセット運動とはフェミニスト達による韓国発祥の社会運動であり、女性を「女性らしさ」から解放するために行われています。

主な活動内容は世間一般的に「女性らしい」とされている服装や髪型、メイクを辞め、短髪、ノーメイクといった「自分らしい」ラフな格好を推奨することです。

“「男性らしい」ともとれる格好をすることが「自分らしい」格好なのか?”

”脱コルセット運動で良しとされている格好を強要することは、「女性らしさ」を押し付けることと何が違うのか?“

“そもそも女性は本当に男性のためにメイクやお洒落をしてきたのか?”

私は脱コルセット運動に対してこのような疑問…正直に言えば反発心を抱き、フリートークの議題に選びました。

「脱コルセットの是非」について、問うたのです。

しかし、今思えばこのような問い方は間違いであったと思います。

それは”この議題ではフリートークが盛り上がらないから“といった理由ではありません。

この問いは、単なる二項対立的な問い方であったからです。

「脱コルセット運動は良いの?悪いの?」

間違っているのか正しいのか、悪なのか正義なのか、メリットはあるのかデメリットは何なのか。

このような是非を決めるだけの問いは、対象の構造や生まれた要因など様々なことを見落とさせます。

そしてそれっぽい問いにそれっぽく考えて、それっぽい結論を出して満足するだけのものになりがちです。

つまり、この問い方は「議論」ではなく「ディベート」であり、そして「社会学」の問いではありませんでした。

(何故ディベート的な問い方が良くないと私が考えているかは、また長くなってしまうのでここでは省かせていただきます)

あんなに「問い」は大切にしなさいと言われてきたのに、そして私自身もディベートではなく議論がしたかったのに何をやっているんだとかなり反省し落ち込んでしまったことは置いておいて、

それではどのような議題設定が適していたのでしょうか?

「脱コルセット運動」についての議題設定を今の私がするなら、きっと脱コルセット運動は単なるきっかけであり、対象にはしなかったと思います。

例えば「何故人は着飾るのか」「メイクは本当に他人のためなのか」など、脱コルセット運動をきっかけにして生まれた疑問を問いにして、対象そのものの是非は問わなかったでしょう。

「社会学」は対象である社会現象の是非を判断する学問でも、社会問題を解決するための学問でもありません。

当たり前のように成立している社会現象に当たり前はなく、全ての社会現象には成立に至った要因が必ずあります。

そういった社会現象の構造やそれらが発生した要因、実態を探る学問、それが「社会学」なのではないでしょうか。

……と私は思っています。

あまりにも興奮状態で拳を突き上げているので、なんだか恥ずかしくなってきました。

社会学のオタクくんなんだなぁと受け流してくだされば私も助かります。

何はともあれ、ある社会現象に出くわしたとき考えるべきことは、「これって良いことなのかな?正しいことなのかな?」ではなく、「何故こうなったんだろう?」であると思うのです。

「脱コルセット運動」は、それをきっかけとして様々な社会現象を考えることができます。そこから様々な問いが生まれます。

それを“脱コルセット運動は正しいのか?”とった二項対立的な問いで終わらせてしまったのは、せっかく社会学ゼミに所属しているのにもったいないことだなぁと思いました。

もちろんこれはフリートークでの話ですので、そこまで堅苦しく考える必要もないっちゃないのかもしれません。

肩の力を抜いて自由に話すことで初めて得られることもたくさんありますからね。

何はともあれフリートークは自由に議題を決めることができ、ゼミメンバーと共有できる貴重な機会です。

来年度から松岡ゼミになる1回生の方々は、私のように不完全燃焼に終わらないよう貴重な機会をぜひ活かしきってくださればと思います。

そしてブログは早めに出しましょう。

(2021年度2回生 えび)

【vol.93】「過去」の言動が批判の対象になることをどう考える?(2回生 えんどぅ~)

みなさんはじめまして、えんどぅ~です。ブログは読む専門で、書くことは初めてなので拙い文章かもしれませんが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。

私は今、定期試験で頭がいっぱいですが、世間は冬季五輪で盛り上がっていますね~
前回の定期試験も私はレポートやテストに追われる中、オリンピックが行われていたことを思い出しました(笑)その時の夏季五輪は、日本人選手の活躍で、たくさんの金メダルを獲得したことが印象的でした。

私にはもう一つ印象的だったものがあります。それは、不祥事を理由に、開会式担当者が出演を辞退、解任したことです。過去に出演した作品やコントの中で、障害者をからかう場面やユダヤ人大量虐殺を揶揄する台詞を使っていたことから、担当者が開会式の出演を辞める事態がつづきました。

この事態を聞いて、大学の法学の授業で習った「法の不遡及の原則」を思い出しました。端的に説明すると、法律が制定された後の出来事に関しては効力を持つが、制定される前のことについては、効力を持たないというものです。しかし、今回のような法的な責任を問われない出来事に関してはどのように考えればよいのか気になりました。

そこで、「過去」の言動が批判の対象になることをどのように考えるのか、フリートークでゼミのメンバーに聞いてみました。

まず、今回非難された作品やコントは、すべて批判の対象に値するものだったのかという意見がありました。今回の問題となっている発言は、コント内の台詞で、お客さんを笑わせる目的であり、該当者を傷つけることを目的としていないという点を考慮する必要があるのではないかということです。「ユダヤ人大量虐殺」や「障害者をからかう」という見出しだけでなく、どのような文脈でこれらの言動がなされたのかという視点も必要なのではないかという指摘がありました。

また、批判の対象に値する言動だったとしても処分、抹殺的な批判の仕方に関して違和感を覚えるという意見がみられました。陸上のガトリン選手は、ドーピングをして好成績を出していたことがあったけれど、ドーピングをやめた後でも自己ベストを出たということを例に、「過去」の出来事によって、これから先頑張るチャンスを奪われるのはどうなのか、人は一面的にではなく、多面的にみる視点が必要なのではないかという考えに至りました。

そもそも、批判の対象に値するかどうかは、世間が判断していて、多数派の意見が採用されるという意見が出ました。そして、これらのことは「議論」がなされていないから生じるのではないかという結論に至りました。議論がなく、少数派が多数派に合わせる「簡単な選択」では、多様性がうたわれている一方で、モノが言いにくい社会、何も言えない社会になってしまう恐れがあります。

私は今回の話し合いから、オリンピックのように、一度の結果だけで判断するのではなく、過程やその先をみる視点も必要なのだと考えました。それはつまり、「過去」を批判するだけでなく、「今」「これから」を見る視点も大切だということです。また、議論したことで「過去」の言動に対してどのような視点からとらえるのか、自分の考えを深めることができたことから、現代は早く、簡潔に、が求められていますが、ゆっくり、丁寧に議論することの大切さを実感しました。この記事を読んでいただいた方の考えも深まると光栄です。

最後まで読んでいただきありがとうございました♪

【vol.92】みんなちがって、みんないい?(2回生 ちはる)

皆さんこんにちは、ちはるです。

ある日、同じゼミの子に私の印象は?と聞くと、大人しいと言ってくれました。私はその時、大人しい=個性があまりない人間だと解釈しました。なので、私はあまり大人しいと言われるのが好きではないと伝えると、なぜ?と言われました。まあ、傍から見ると私は特に何の変哲もないただの大学生です。自分でも特に何か特徴のある人間であるとはあまり思わないし、性格も目立ちたがりやなどでもなく静かに生きているので、確かに大人しいと言われてもおかしくはないと思います。

しかし、趣味が少し変わっていると思うのです。趣味というか嗜好なのですが、私はいわゆる「萌え系(アキバ系)」の女の子のキャラクターが好きです。アニメに出てくる女の子からアダルトゲームに出てくるような女の子まで好みの幅は広いですが、とにかくかわいい女の子のキャラクターを見ていると心が癒やされ、何とも言えない「萌え〜」な感情になります。他にもメイドカフェに行ったり、2次元の女の子のアイドルが好きだったりと、とにかく「萌え」に囲まれて生きています。もっと「萌え」を語りたいところではありますが、語りすぎると話が逸れるのでやめておきます(笑)。これを聞くと、なんかやばい人なのかなあ…?と皆さんは思うでしょうか。しかし、こんなのでも普通の人間に擬態して生きています。

以前、この趣味の話をゼミでした時に、私はてっきりドン引かれると思っていました。ただでさえ引いた目で見られる趣味であるうえに、私が女性であるためにさらに理解され難い趣味であると思っていたからです。しかし、私の好きなアダルトゲームのキャラクターの写真を載せて紹介すると、かわいい!と言ってくれて、メイドカフェに行っているということを伝えると楽しそう!と言ってくれました。

私はそれがとても嬉しかったです。それと同時に、今まで「自分の嗜好(感性)は他人よりも変わっている、理解されないものだ」と自負していたことに気づきました。世間は自分が思っていたよりも異質なものを受け入れてくれるようです。そして、それは主に若者の間に見られる傾向なのではないかとゼミ生の意見を踏まえて考えました。

最初の話に戻りますが、私は「他人よりも変わっている、違っている」と思われたいと思っています。なぜなら、自分の持つ何らかの要素で他人と存在を差異化、特別化することによって自分という存在が存在していることに意味を見出して生きることができると思っているからです。

しかし、完全に他人と異質に生きることは望みません。完全に他人よりも変わっている、というよりも”少し”他人と変わっていたいなあと思うレベルです。これはゼミ生の意見にもあり、みんなも多少は「他人と違って生きていたい」と思うことはあるようですが、どこか同質的でありたい、「みんなといっしょ」でありたいという願望があることが分かりました。

人間の集団には排他性があります(何かの授業で学びました、たぶん)。自分と異質なものは排除したがります。ですが、近年の教育によって「みんなちがって、みんないい」という門言が私達には植え付けられています。それにより、多様性を認め合う時代になっています。もちろん、多様性を認め合うということはとても良いことです。お互いに認め合うことによって生きやすい人が増えたという事実もあります。

ただ、多様性を認め合う時代であるからこそ、他人と自分とを区別して生きることが難しくなっているのではないのでしょうか。つまり、「自分」という存在を集団あるいは社会の中でどう表現するか、どう認識してもらいたいかということを自分の中で創り出さねばならず、個性というものを持っていなければ自分はなんの特徴もない人間で、じゃあ自分が存在している意味とは何なのか?となってしまうのです。

なので、私のような人間がいるのでしょう。自分という存在が存在している意味をどこかで見出したいと思っているため、何らかの形で他人と違っていたいと思うのです。他人との違いを見出したり表現したりするのは様々で、私のように研究でオリジナリティを出す人もいれば、ファッションやSNSなどで個性を表現する人もいると思います。特にSNSが発達している今、様々なコンテンツで個性を表現することが可能になっていると言えます。

この先、もっと多様性が重視される時代になっていくと考えられます。それによって、人々はより「自分」というものを見失ってしまうかもしれません。だからこそ、自分のアイデンティティを持つためにも個性を持つということが重視され、そのためにも様々な形で他人と違っていたい、他人と差別化したいと思う人が増えるでしょう。これからどのような形で人々が「自分」を社会の中で形成し、存在意義を見出すのか、とても興味があります!

あとがき
自分の思いを文章にするのがすごく好きなのでブログを書くのが楽しかったです(^_^)!長くなってしまいましたが読んでくださってありがとうございます。「萌え」は良いですよ!(笑)

(2021年度2回生 ちはる)

【vol.89】ライブハウス=怖い?(2回生 のむ)

こんにちは、のむです。普段から日記のようなものはちょこっと書いているのですが、こうして人に読んでもらうことを前提としたブログを書くのは初めてなので少しドキドキしています。

さて、みなさんはライブハウスに対してどのようなイメージを持っていますか?

ゼミのメンバーに同じ質問をしてみたところ、「騒がしそう」「いかつい見た目の人が多い」「ダイブやモッシュが怖い」など、あまり良くない印象を抱いている人が多いようでした。

私はライブハウスに対してそのようなイメージがなかったので、初めてライブハウスに行くことになったときも「近い距離でライブを観られるから楽しみ〜」くらいに思っていました。そのときは整理番号が遅めだったため入場してから友達と二人で他の観客の隙をくぐり抜けてどんどん前に行って最終的には2列目くらいまで進むことができたので、想像以上のステージの近さやライブハウスという狭い空間だからこそ感じる迫力にワクワクした記憶があります。

そもそもなぜこの質問をしたのかというと、それは、ライブでのMCや雑誌のインタビューなどにおいて複数のバンドマンが「ライブハウスは悪く思われがち」といった内容の話をしているものの、先ほども書いたように、私にはライブハウスやロックバンドが悪く思われているというような実感がなかったからです。どうしてバンドマンはライブハウスが悪く思われていると思っているのか、実際のところライブハウスは世間からどのようなイメージを持たれているのかを知りたいと思い、ゼミのみんなのイメージを教えてもらいました。

なかには「ライブハウスはダイブやモッシュが怖いけど大きい会場なら怖くない」といった意見もありました。私も同じ考えを持っていた時期がありましたが、実際にライブでモッシュやダイブを経験するようになってからその考えは覆されました。私が初めてモッシュに巻き込まれたのは忘れもしないRADIO CRAZYという屋内フェスの一番大きなステージ(おそらくアリーナ規模)でのことであり、これが初めてのフェスだった当時の私はもちろんモッシュに慣れていなかったため耐えきれずに地面に倒れ込んでしまった苦い思い出があります^^; そして初めてダイブを経験した(私がダイブしたわけではなくダイバーを前に送ったという意味で)のは04 Limited Sazabysというバンドのライブで、そのときの会場は大阪城ホールでした。どちらも大きな会場での出来事だったので、ライブハウスだからといって「ダイブやモッシュが怖い!」なんてことはないんだな〜ということを学びました。むしろ、ライブハウスのほうがダイブやモッシュなどに慣れている人が多く、もし倒れそうになっても誰かがすぐに手を引っ張ってくれるので、そういった意味では安心かもしれません。

他にも、「ロックバンドは世間から悪く思われがちだけど俺たちは意外とちゃんとしてるぜ」といった風に、その悪いイメージを利用することで(?)自身のイメージアップに繋げようとしている側面もあるのではないかという指摘もありました。私は思わず鼻で笑ってしまうくらい納得してしまったのですが、たしかに、ゴリゴリにロックなバンドが実はめちゃくちゃ穏やかな人達でしたなんてギャップがあったら確実にやられちゃいますね。たしかにライブハウスやロックバンドが世間から悪いイメージを持たれているとして、なぜそれをわざわざMCなどで話題に上げるのかということも疑問に思っていましたが、この意見のように、自分たちに悪いイメージがあることを前提にすることで良いイメージを植え付けやすくする狙いがあるのではないかという考えに至りました。正直、そんなに悪く思われていないんじゃ…?と言いたくなるほど自分たちは悪いイメージなんだ!と主張する人もいるので、バンドマンの発言に対して私が引っかかっていた部分はこれだったのだと思います。

最初はちょっとした疑問だったのですが、こうしてフリートークのテーマにしたことで私にはなかった考えや意見に触れることができ、自分の中の考えも深めることができたように思います。やっぱり私はライブハウスが大好きです。あの場所にしかない熱狂や空気感、スピーカーから鳴り響く爆音、全力でロックを鳴らすバンドマン、それに応えるように拳を突き上げる観客、そのどれもがライブハウスだからこそ作り出せるものです。世間からのイメージがあまり良くないものかもしれませんが、それは単純に、よく知らないからではないでしょうか。初めて行く場所が不安なのも、初めて会う人が怖いのも、それはただ知らないというだけで、知ってみると不安も怖さも消えることがほとんどだと思います。何が言いたいかというと、みなさん機会があればぜひ一度ライブハウスに足を運んでみてください〜ということです^_^ 怖くないよ!

(2021年度2回生 のむ)

【vol.88】現代における多様な価値観への向き合い方(2回生 り)

皆様はじめまして。ブログを書くのははじめてなのであたたかい目で見て頂けると嬉しいです。

早速ですが、皆さんは他人と価値観が異なるとき、どのような行動をとりますか?私がこのテーマについて考えるようになったのは大学に入学してからです。常識の違いに直面する場面が、高校のときよりも多くなったような気がします。

例えば、人の外見を馬鹿にして笑いをとることや、性犯罪や性暴力を思い起こさせるような冗談です。私は初めてこういった場面に遭遇したとき、単純に何故そんなことを言うのかが理解できずに条件反射のように注意してしまいました。しかし、その後もこういった内容が話題になる状況が少なくなかったため、その内にもしや自分がおかしいのではないかと考えるようになりました。「私は、 “自分の思うタブー” を “常識” として人に押し付けるような行動をとっていたのではないか」と考えるようになったのです。

そこで、他の方はこういった場面でどう行動するのかが気になり、ゼミで聞いてみました。すると、やんわり注意する、同じ価値観の人と付き合う、等の意見が挙がりました。関係性によって注意するか変わってくるという意見もみられました。いずれにせよ、相手の言動が目に余るようであれば我慢する必要はないのではないかということが共通見解のようでした。

また、私はこの話し合いの後、そもそもこういった価値観の差異はどこから生じるのかという疑問も持ちました。私の考えとして、「それについて自分自身が傷ついた経験があったり、身近でそのような経験を見聞きしたことがあるかどうか」がキーポイントになると考えます。先ほど出した性加害的な冗談を例にとると、私は性加害に実際に遭遇した友人を知っており、自分自身もそういった経験があります。友人の泣き顔が頭によぎったり、自分が怖さで固まってしまった体験について考えたりすると、そういった冗談については例え冗談だとしても本当に笑えないと思ってしまいます。冗談の中でも、特にブラックジョークを発言する際には、傷付く人がいるかもしれないということを踏まえながら慎重にならなければいけないと再認識しました。

こういった思考過程を踏まえ、私は以下のように結論付けました。①他人との価値観の違いは、問題となる事象が自身や身近な人のマイナスの経験と紐づいている場合に顕在化する②価値観の違いは当たり前に存在することなので、一概に拒否するべきではない③だからといって全てを受け入れる必要もなく、過度である場合は注意したり付き合いをやめたりするのも手である、ということです。

とはいえ、注意する場合は相手が傷付かないか気を遣いますし、距離を置くことでそれまで築いてきた関係が終わってしまうのではないかと思い悩む人もいると思います。特に相手が大好きな友人や家族であるときには尚更困るのではないでしょうか。それまでの人間関係や個人個人の感情の存在を踏まえると、やはり、どうしても受け入れられない価値観や言動に出会った時にどうするか、というのは難しい問題だと思います。本人に悪気がない失言については一層厄介ではないでしょうか。

さて、皆さんは他人と価値観が異なるとき、どのような行動をとりますか?多様性を受容することが重視される現代ですが、この文章が皆さんにとって多様な価値観にどう向き合うかを考えるきっかけになればと思います。

(2021年2回生 り)

【vol.87】生き物と食べ物の境界線とは?(2回生 ゆめか)

皆さんこんにちは。松岡ゼミ2回生のゆめかと申します。ブログ自体書くのは初めてでつたない文章だとは思いますが、ぜひ最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

私は魚をさばく動画を見るのが好きで、よくYouTubeで見ているのですが、そのような動画において、「魚がかわいそう」などというコメントを頻繁に目にします。私自身は、魚がさばかれているのを見て「おいしそう」と思いながら見ていたので、魚が泳いでいる「生き物」の状態から刺し身という「食べ物」の状態になるまで、どの過程において生き物と食べ物の境界線を引いているのだろうと疑問に思い、ゼミの人達にも聞いてみることにしました。話し合いの中で、大きく分けて2つの意見が挙がりました。

1つは、「生きているか死んでいるか」です。魚が泳いでいる状態では生き物と感じるが、死んでしまった状態(まな板の上に置かれた状態)ではすでに食べ物と感じるという意見がでました。

2つ目は、「原型をとどめているかどうか」です。例えば豚であれば、死んでいたとしても原型をとどめていれば生き物だと感じるが、豚肉に加工された状態では食べ物と感じるという意見がでました。

このように話を進めていく中で、倫理的に食べられる生き物と食べられない生き物の違いについて議論が展開していきました。その中の1つとして、「感情があると思うかどうか」という意見が挙げられました。つまり、魚に対して感情はないと思う一方で、犬や豚に対しては感情があると考えるため、そこで食べられる動物と食べられない動物の境界線があるのではないかということです。

では、動物に対しての感情の有無をどのように判断するのか。1つの指標として、鳴き声をあげるかどうかという答えがありました。確かに、魚は鳴き声をあげることもなく、人に対して応答はしてくれない(えさをあげれば食べる程度)ですが、犬は「ワンワン」と吠えたり、「お手」や「ふせ」などのように人間に対して応答してくれることからも感情があると感じるのではないかと思います。「人間との意思疎通ができると人間側が思うかどうか」が、倫理的に食べられる生き物と食べられない生き物の違いを生んでいるのだと感じました。

このような、生き物に対して抵抗なく食べられるものと食べられないものの価値観は、社会の影響を大きく受けていると思います。ここで、社会学者ピエール・ブルデューの「ハビトゥス」という概念を紹介します。これは、人々の日常経験によって蓄積され、個人の無意識的に行為や判断をする際に働く仕組みのことです。倫理的に食べられる生き物と食べられない生き物の違いが存在するのは、このハビトゥス概念が大いに関係していると考えます。犬を食べる文化のない国(環境)で育つことにより、犬を食べないことが当たり前として認識され、無意識のうちに食べることに抵抗を感じるのです。

このように、生き物を食べることに対する価値観は、宗教や文化の違い、人によっても様々です。実際に韓国や中国の一部の地域では犬の肉を食べる文化が存在します。しかし、そのような自身と違う文化に出会ったとき、ただ排除しようとするのではなく、一歩踏み出して他者の文化を理解しようと「努力」していくことが大切なのではないでしょうか。最後まで読んでいただきありがとうございました。

(2021年度2回生 ゆめか)

【vol.85】競馬場やギャンブルってどんなイメージ?(2回生 ゆずか)

こんにちは〜、ゆずかです。年を越す前にブログ書かないと!みたいなちょっと焦りもありつつ、実家に帰ってホッとしてるそんな状況です(笑) ブログをはじめて書いてみたので、たどたどしいと思いますが軽い気持ちで読んでくれると嬉しいです^^

早速ですが、皆さん!競馬場に行ったことありますか?? 競馬と聞くと、ギャンブルのイメージや最近だとウマ娘が流行ってますよね。(私は流行りに乗り遅れました。。)  こんな感じで、あるけど気持ち的に遠い場所だったり、あまり馴染みのない場所だったりするかもしれません。じゃあなんで競馬の話をするの?と言いますと、私は競馬場のインフォメーションのバイトをしています。バイトをする前は、競馬場のお客さんちょっと怖そう、馬券いっぱい落ちてそうとかマイナスなイメージがありました。けど、実際に働いてみると子連れや若いお客さんも来るし、競馬以外の目的で来ている人もいたりと、いろんな人間が集まる少しカオスな場所やなと思い始めました。

このような体験から、行ってみるとイメージ変わった場所って他にあるのかな?と思い、みんなに聞いてみました。すると、博物館や競輪場、スポーツスタジアムなどが挙がりました。博物館は老若男女集まったり、競輪場は、いろんなイベントをしたり、スポーツスタジアムは、グルメが充実していたり、いろんな要素を含んだ場所がたくさんあるなと思いました。

私も最近音楽フェスティバルに行った時、アーティストのグッズを買ったり、グルメを食べたりと音楽を聴いて楽しむ以外のことをやっていたなと思いました。こんな感じで、こういう場所!って決まってはいるけど、いろんなことができたり、楽しめたりする多様性のある場所が最近増えているのかなと感じます。競馬場や他のギャンブル要素を含んだ場所でも、気軽に行きやすいきっかけがあったり、もうちょっといろんな人たちが集まる場所になったら楽しいのかなと思います!もっと若いお客さん来てほしい!泣 (小声)

あと、もう一つギャンブルに対してどんなイメージがあるのかな?と思い、みんなに聞いてみました。すると、ちょっと怪しいとか、ハマると脱げ出せないといった意見がありました。他にも男女で違いがあったり、ゲーム性があったりと、いろんな意見がありました。たしかに、ちょっと合理的に考えるとギャンブルは一時的に得をしているつもりでも、長期的に考えると損しているかもしれません。けど、当事者にとっては魅力的で価値のある行動なのかもしれません。ギャンブル以外でも、推しに貢いだり、これしか食べない!といった、他の人にはちょっと理解できないけど、自分にとって好きなものや楽しいものって他にもあると思います。そういうものを、お互い100%理解できなくても、ちょっとでも感じ取ったり、共有できたりすると、気持ちが一瞬ほっこりするのかなと思いました。

今回は、競馬から始まり、いろんな場所やギャンブルのお話をみんなとしました。いろんな考え方や接し方があって、話していると凄く楽しかったです!!私も無事年を越せそうです(笑) 皆さんも良いお年をお迎えください!では!

(2021年度2回生 ゆずか)

【vol.84】悲しい曲がたくさんあるのはなぜ?(2回生 おざ)

こんにちは、おざです。ブログを書くのは初めてでなんだか新鮮な気持ちです。語彙力が無いのですがよろしくお願いします(笑)

私はフリートークで「悲しい曲がたくさんあるのはなぜか」「どんな時にどんな音楽を聴くのか」というお話をみんなでしました。

私にとって曲は気分を盛り上げたりしてくれる大事な存在です。落ち込んだ時に楽しい曲を聞くと、自分の気持ちを盛り上げてくれます。逆に失恋ソングのような悲しい曲を聞いてしまうと、感情移入して気分が下がってしまうということがあります。しかし、失恋ソングなどの悲しい曲は楽しい曲に比べて多いという気が私はしていて、それはなぜなのかという疑問がずっと頭にありました。そこで今回、この疑問を共有させてもらいました!!

ゼミのみんなの意見は様々でした。悲しい感情が好きだからという意見や悲劇のヒロインになれるという意見、悲しい時に楽しい曲を聞いても感情移入できないという意見、共感しやすいという意見などたくさん出ました。その中でも「気持ちを代わりに言語化している」、という意見にピンときました。確かに、悲しいことや悩み事があってそれを誰かに話すことが難しいということもたくさんあると思います。しかし、そのようなしんどい気持ちをどこかに発散しなければ私たちは生きていけないと思います。そんなときに悲しい曲を聴くことで悩みや辛さを可視化して言語化してもらうことは、私たちの心の救いとなっていて、自然とみんなしていたことなのかなと私は思いました。

考えてみると、カラオケで歌うのは失恋ソングや励ましてくれる歌が多いですし、悲しい時の自分のプレイリストは自然と悲しい重い曲ばかりになってしまっていて、曲に自分を照らし合わせて気持ちを代弁してもらっていたのかなと思います。

次に、おまけという感じなのですが「どんな時に、どんな曲を聴くのか」という疑問で、私は好きなアーティストの好きな曲をプレイリストに入れてそれをシャッフルして聴くというのが通常です。でも、友達の中には「朝だから」「夜だから」などシチュエーションに合わせて曲を聴くという子もいて、それが衝撃的だったので、ゼミのみんなにも聞いてみたいなという興味本位でお話ししました。笑

松岡先生はポジティブになれるプレイリストを作ると言っていて、気分のプレイリストも作ることができると分かり、参考にしたいと思いました。このように気分やシチュエーションに合わせて音楽を聴くという行為は、音楽を「感情サプリ」として消費するということであり、その傾向は音楽をデータとして自在に持ち歩いたり、プレイリストで管理しやすくなったりしたから強まったのではないかと考えることができます。他にも夏に暑いから冬の曲を聴くという意見や気分を変えるために曲を聴くという意見もあって、曲には気分を変える機能もあるということも分かりました。また、歌詞より曲調を大事にするという意見もあり、人によってさまざまな曲の聴き方があるなと思いました。

今回のフリートークで私の疑問を解消することができてみんなに感謝しています。
これからも曲を聴いて、気持ちを代弁してもらったり変えていったりしようと思います。

(2021年度2回生 おざ)

【vol.82】どうして同性を好きにならないの?(2回生 なかし)

みなさんこんにちは、なかしです。初めてのブログで緊張していますが、温かい目で読んでいただけたらと思います。

突然ですが、みなさんは同性を好きになったことがありますか?

私は同性を好きになったことがあります。最近認知されてきた『LGBT』のBに当たる、バイセクシャルが私のセクシュアリティです。バイセクシャルとは、異性も同性も恋愛対象になるというものです。バイセクシャルであることを自認したのは小学校高学年の時でした。当時、初めて同性を好きになり動揺したことを覚えています。ただ、私の恋愛観などは自分のセクシュアリティを自認した後のものになっているので、小学校高学年以前のヘテロセクシャル(異性愛者)の感覚はありません。個人的には男性も女性も恋愛対象になるので「私が男だったら絶対好きになる!」っていうセリフはピンときません。私ならそのまま恋愛的な感情を抱くことになるでしょう。

そこでふと「なぜ多くの人は同性を好きにならないのか」と疑問に思い、ゼミのフリートークでみんなに問いかけをしました。その場にいたほとんどの人がヘテロセクシャルであると自認していました(もしかしたらカミングアウトをしていない人もいるかもしれませんが)。しかし、「今まで同性を好きにならなかっただけで、絶対に今後同性を好きにならないと言い切れるわけではない」と答える人が多かったことが印象的でした。同性を好きかもしれないと悩んだりしたことがなかったから気にしなかっただけで、意外と自分でもわかっていないものなのでしょうか。

このゼミでは男女比が1:11という、圧倒的に女性が多いゼミです。絶対に今後同性を好きにならないとは言い切れないと答えた人は全員女性でした。ここである噂を紹介します。「女性はレズビアンかバイセクシャルしかいない」というものです。海外のとある大学の研究で、そのような結果になったらしいです(確かな情報が手に入らなかったので噂として取り扱います)。同性を好きにならないと言い切れないと感じている人が意外と多かったのも、この噂に関係しているのかなと感じました。先生を含めた男性陣は同性を好きにならないと言い切れるそうです。人数的に考えたら不確かなものですが、男性と女性では何か違う感性があるのかもしれません。

また、このフリートーク中に新しい疑問が生まれました。それは「好き」はどこからが好きなのかということです。私が考えていた「好き」と他の人の考える「好き」に違いがあったのです。この言葉については不明瞭であり議論され続けるものであると思います。私の場合は、恋愛的に好きだからといって性的対象になるとは限らず、性的対象になるからといって恋愛的に好きになることはありません。それぞれ別のベクトルのような感覚です。(よく女の人がこの人は付き合う分にはいいんだけど結婚となると違うんだよなぁ…と言っていますが、これと似たような感覚だと思います。)そのため性的な感情があってもなくてもその人のことを考えたり、その人の行動一つで気分の上下が激しくなったりと、所謂少女漫画で主人公が友だちに「それって恋だよ!」なんて言われるような感情が好きなんだと考えていました。しかし、他に性的感情も好きの判断基準になるという意見があり、「好き」とはいったい何だろうかとわからなくなりました。そもそも他者に性的欲求を抱かないという「アセクシャル」や、他者に恋愛感情を抱かない「アロマンティック」というセクシュアリティも存在するので難しいです。

恋愛の話をしてきましたが、わからなく難しいところがあるのが恋愛であり、そこが面白いところなんですよね。

なんて、いい女風に言ってみます。
でも、本当にそうなんだと思います。

これから先、異性か同性かはさておき、自分が思いがけない人を好きになったり好きにならなかったりすることがあると思います。それでも、深く思い悩んだりすることなく、みんなが幸せに過ごせたらいいですね。

(2021年度2回生 なかし)

【vol.76】空気をよむということ(2回生 ぽん)

みなさんこんにちは!ぽんです。夏休み楽しんでますか?コロナでなかなか外出することが難しいですが、できるだけ楽しみましょう!そして、休憩としてこの記事を読んでいただけると嬉しいです☻

さてさて、今日の本題に入りたいと思いますが、その前に、みなさんは自分が「空気よめる人」だと思いますか?おそらく自分のことが「KY」だと思う人はいないはずです。「KY」は自覚できないと言われてますからね(小声)

おそらくみなさんはなんとなくでも空気をよむということを心かけているでしょう。ではでは、なぜ今の社会では「空気をよむ」ことが必要とされているのか?社会学で考える場合、効率性や協調性が重要視されている社会だから、その社会にいる私たちが空気をよまなければならない立場に置かれています。

空気をよむことによって、物事が円滑に進められます。例えば、何かについて話し合いする時、他の人がある意見について賛成な時、自分は意見が違う時でも、黙って何も言わない経験はありませんか?なぜかというと、その時に反対意見を出してしまうと、物事がスムーズに進まないだけでなく、自分の発言が他の人に反感を持たれる可能性もあります。自分の一言で場の雰囲気を変えたくないですよね、、

ところで、空気をよむっていいことなのかな?確かに物事がスムーズに進められるし、人間関係にも役立つ能力ではありますが、実は空気をよむことにはデメリットも存在します。

先程の例をもう一回出しますが、空気をよむことを気にしすぎると、自分が異なる意見を持っていてもなかなか言い出すことができません。周りの意見に合わせ続ける結果、いざ自分の意見を言おうとしてもできなくなる可能性があります。したがって、空気をよむことで自己主張ができなくなることがあります。

そこで、このような疑問が浮かぶかもしれません。「じゃあ、結局空気をよまないべきなん?」私なりの答えになりますが、空気をよむことは欠かせないことではありますが、空気をよむということの本当の意味をまず正確に理解しなければいけません。

空気をよむことは、ただ争いが起きないために無理やり合わせることではありません!人は空気をよむときに、争いが起きる、自分の意見がマイナスに思われるなどなど、「KY」になった時の場面を勝手に想像してしまってます。しかし、現実は本当にそうなることばかりなのでしょうか?

話し合いの時に、異なる斬新な意見を出している自分は、「KY」ではなく、むしろすごい人だと思われることもあります。そもそも議論することは、最初から異なる意見を持つものがその意見を交換し、刺激を与え合うために行うものです。皆さんが今それぞれ所属しているゼミは良い例です。「空気」というものが常に気にされるわけではありません、場合によっては、気にしているのは君だけかもしれないよ(笑)

結論として、空気をよむことにはメリットやデメリットの両方が存在します。空気を全くよまないと支障が出ますが、空気をよみすぎるのも危険です。そのため、メリットとデメリットをうまく理解して、状況に応じて空気をよむ・よまないを使い分ける必要があります。「あえて空気をよまない」と「空気をよめない」は違うので、そこは要注意!

はい、いかがでしょうか。少しざっくりとした文章ですが、ここまで読んでいただいてありがとうございます。少しでもこの文章がいいなと思っていただけると幸いです!
コロナで普段通りに出かけたりすることはできないが、できる範囲で夏休みを楽しみましょう!体調に気をつけてくださいね〜良い夏休みを☀️

(2021年度2回生 ぽん)

【vol.75】男女の区別と差別の違い(2回生 とーや)

このようなブログを書くのは初めてで少し戸惑っていますが、まずは当ブログを開き、お読み頂きありがとうございます。7月に入りましたが、皆さまはいかがお過ごしでしょうか。

私は今、電車の中でこれを書いています。今日はその電車も話題の一部として提示していきたいと思いますが、その前に私の現在進行形の悩みを聞いてください。興味のない方はブラウザバックせず、「さて、…」という部分から読み進めて頂けるとありがたいです。

さて、では一体どうして、私の隣に誰も座りたがらないのでしょうか。このコロナ禍でも周りは満席。なのに私の隣だけ空いてるのはどういった訳があるのでしょう。まぁ、このコロナ禍ですし、私も隣に座られるのはパーソナルスペースを侵害されているような感じがするという意味では有難い気もします。ですがここまで周りが満席となると話は別です。なんだか避けられている、ハブられているような気がして寂しさを少し感じます。まぁ別にいいんですけどね、別に。


では話は逸れましたが、今回は、ゼミのフリートークで議論した「男女の区別と差別」について少し綴っていきたいと思います。私は大学やバイトは電車に乗っていきますが、時間に余裕を持つということがあまり出来ず、いつも急いでしまいます。改札を走り抜け、階段を上がる時にはもう電車は来ているので、急いで入ろうとすると、そこは女性専用車両。私は入るのをやめてしまい、電車を見送ってしまう、ということが度々ありました。

そこで私はいつも疑問を持ってしまうのです。確かに、女性専用車両は女性を痴漢という危険・恐怖から守る、もしくは過去の経験から男性の近くに居られないような人にとって大変意義のあるモノであると思います。過去から現在にかけて女性が痴漢されてきた歴史があり、それは今までの男性の行為がそうさせてきたのでしょう。しかし、ではなぜ男性専用車両がないのでしょうか。男性にも少なからず痴女経験をされた方がいらっしゃるのに、そのような人達を無視しているのではないか。

同じゼミの子は私以外みんな女性なのですが、これに共感してくれた人もいました。もちろん、痴漢のような規模で発生していないことはわかっています。だからといって、そのような経験をされてきた男性を見て見ぬフリするというのは少し違うのではないでしょうか。その点で私は男女を区別しているのか、はたまた男性だけが危険因子とみなされ差別されているのか、という迷いが生まれました。ただ、松岡先生も仰っていましたが、男性専用車両のようなむさ苦しいところには需要は全くないです(笑) だから私は女性専用車両の使用を平日の終日ではなく、ラッシュ時のみとすればよいではないか、と考えます。

私はこのフリートークを通じて、ゼミの中でも少しまとまったように、個人と社会の関係も考えなくてはならない、と気付きました。個人にとって合理的なものが、社会にとっては必ずしも合理的なものとは限らない、というものです。今回の話題で言えば、一部の男性にとっては合理的かもしれない男性専用車両を設けることが、社会全体にとって合理的と言えるかどうかは疑問です。しかし、あまりにも社会に傾いた考えでは、マイノリティ、つまり少数派の意見も無視してしまうことにもなりかねません。そういった声に耳を傾け、この社会がどうあるべきかという問題は依然として我々がこれから持つ課題にもなるでしょう。私自身も、この正解のない問いについて、これからも考え続けていきたいと思います。ご精読ありがとうございました。

(2021年度2回生 とーや)

【vol.74】人を数値で判断することって...?(2回生 あや)

皆さんは「PSYCHO-PASS」というアニメをご存知でしょうか?

このアニメの中の世界では人を数値で測る「シビュラシステム」が確立され、「シビュラシステム」が秩序となっています。「シビュラシステム」は人の精神状態の情報を数値化し、その数値によって、職業適性の判断をしたり、これから罪を犯す危険性を表した「犯罪係数」を測定します。一定の「犯罪係数」を超えてしまうとたとえ実際に罪を犯していないとしても殺されてしまいます。このアニメはフィクションなので現実に「シビュラシステム」は存在しません。しかしこのアニメを観ていて、現実でも普段何気なく暮らしている中で「シビュラシステム」程ではなくとも、人を数値で表現し、その数値で人を判断することは多くあるなと感じました。

例えば、小中高のテストでとった点数やセンター試験の点数、5段階評価の成績、年収、年齢などです。私は、今までテストの点数は高ければ高いほど勉強ができる人だと判断していたし、年収が多くてお金持ちの人に対しては漠然とこの人はすごい人なんや、と判断していたことがあります。私自身、人を数値で判断することがありましたが、人を数値で判断することによって数値で判断できない人の性質を見失っているのではないかとも思いました。私は数値をもとに人を判断することはどうなんだろう...と疑問に思いゼミのフリートークのテーマにすることにしました。

ゼミのメンバーの話を聞いて、人には数値という物差しで測ることができる部分とその物差しで測ることができない部分があり、数値という物差しをどのように使うかが大切なことだと気づきました。

例えば、人の能力や実績を判断する際、どれだけの売り上げに貢献したか、テストで何点をとったかなどの目に見える数値で判断することで、客観的に人を評価することができ、固定観念や偏見にとらわれず人を平等に判断することができると考えられます。

しかし、人の能力や実績は本当に数値で判断できるのでしょうか?結果自体は数値で表すことができても、その人の能力や実績に内面の部分が関係していたら、能力や実績を数値だけで判断することはできないと思います。なぜなら、示された数値はそれ以下でもそれ以上でもないただの数値であるので、その数値が曖昧で複雑な人の内面を測ることはできないと考えるからです。私は曖昧さと複雑さの部分にこそ人の本質があると思います。もし人の内面を数値で判断することがあれば、それは数値で表すことのできない曖昧さと複雑さ、その中にある本質をも排除して人を判断してしまうと考えられます。

例えば、学校ではテストで高得点を取れる人に「優等生」、赤点を取る人に「劣等生」というレッテルを貼ることがあります。確かに、点数によって高得点を取るための努力も含めた一定の評価はされてもよいと思いますが、その点数だけで「優等生」「劣等生」という判断を下すのは間違っていると考えます。なぜなら、テストの点数は低くても、リーダーとしてクラスをまとめることに長けていたり、誰とでも分け隔てなく接することができるなどのコミュニケーション能力に長けている人がいるからです。この能力は必ずしも客観的に判断することはできず数値で測ることはできません。このような人の内面の部分から発揮される能力を無視しテストの点数という数値だけで人を判断しても表面的な判断にしかならず、「優等生」「劣等生」と判断しきることはできないと考えます。

人の内面の部分は数値と言う物差しでは測れないし、測るものでもないと思いますが、将来もっとAIが発達したら、情報を何から何まで数値化する世の中になるかもしれません。私は、人の内面の部分を客観的に判断できる数値で表されてしまったら、正直怖いと感じます。一度人の内面が誰にでもわかりやすい数値で表されてしまうと、効率性を求めるがあまり数値だけが人の内面を表すすべてだと捉えられる可能性があります。そうなると数値だけでは表せない自分自身の不確定で複雑な人間性を無視し、一度きりの人生を自分自身のためではなく数値のために生きるようになるのではないかと考えられます。人を判断する材料の一つに数値があってもいいと思いますが、数値だけで判断することで数値だけでは判断できない人間性を無視してしまうと考えます。

とはいっても、結局数値で判断すべきか否かという線引きをどこに引けば良いのか難しくて結論は出せず...フリートークのテーマ難しくしすぎた!と今若干後悔しております(笑)しかしこういったテーマで真面目に話し合うことが今までなかったので、フリートークの際ゼミのメンバーと真面目に話し合えたのはとても新鮮でした!

(2021年度 2回生 あや)