【vol.57】興味関心は大切だと改めて思った(はせがわ)

卒論提出にあたって、私の中の快挙がございました。今までの私は、なんでも期限ギリギリ、ラストミニッツなんくるないさの精神で、最後に自分を苦しめることしかしていませんでした。ですが、卒論は卒業がかかっているため、早く取り掛かることにこしたことはないと戒めました。そして何より私は、効率も悪く、考えるのも時間がかかり、みんなより余分な時間が必要だということを重々承知していたので、私なりに頑張って取り組みした。そのおかげ(先生のおかげでもある)で、提出期間の初日に出すことができました!4回生にしてやっと少しだけ余裕を持って課題を仕上げました。これが普段からできる人を本当に尊敬します。わかっていてもできないことって山ほどありますよね、、。

そんなことはさておき、みなさんは普段の生活の中で、自国に対して誇りを感じたことはあるでしょうか。

私は留学がきっかけで、改めて日本に関心を持つことができました。こんなことから、日本人は自国に誇りを持っているのかという疑問を考えていきました。

誇りを持っている人は、データ的には少ない数値ではありませんでしたが、他国と比べると低い数値でした。これは日本人が自国や世界の出来事に興味関心が無いからではないかと考えました。実際に日本のニュースは、芸能ニュースが他国と比較してかなり多いです。オーストラリアの森林火災のニュースも日本ではほとんど報道されなかったイメージがあります。そんな中、毎日のように不倫のニュースばかり見かけました。需要はあるかもしれないけど、もっと他にみんなが知らなければならないことがあるのではないかと心から感じました。

社会問題に関心を持つことで、歴史、政治経済など枝分かれして興味を持てるかもしれません。ですが、スマホなどニュースを簡単に、そして受動的に目にすることで、知った気分になったり、日本のニュースの構成などによって、日本や世界の出来事に対しての知識や自分の意見を持てなかったりするなど、誇りを持てるかもしれない材料や機会がないのかなと感じました。

まずは何かに対して、興味関心を持つこと。そして能動的に知るということを心がけないといけないと思いました。

(3期生 はせがわ)

【vol.56】性差別とフェミニズムの日韓比較(宮本)

世の中には、男女不平等だと感じる現象がありふれている。毎日のように繰り返される性犯罪の報道、コンビニに何気なく置かれている性的な雑誌、上司に何気無く言われたセクハラ発言など、日本ではこのような行為が日常化しているのだ。どうして女性として生まれただけで、このような生き辛さを感じながら生きていかなければならないのだろうか。

普段からそんな疑問を抱きながらも、声には出さずにじっと耐えてきた女性はどれだけたくさんいるだろうか?今回、卒業論文を通して私たち女性が日常生活を送る中で受けてきた性差別がはっきりと浮き彫りになった。また、日韓で起こる意識の違いについては以下のような結果を得ることができた。

本論文では、「日本と韓国で性差別とフェミニズムに対する意識の違いが生まれるのはなぜか」という問いを立てた。

このように日韓で意識の違いが生まれる理由としては、2つ挙げられるだろう。まず1つ目は、日韓の文化の違いである。女性の理想像として「かわいい」よりも「綺麗」があげられる韓国であるが、ロリコンや性的コンテンツに対する規制や社会の目が厳しいことが、これに反映されているのだろう。反対に、日本の性的コンテンツは世界的に有名であり、日本国内でもほとんど規制がかけられておらず、国全体が寛容な態度を示している。このことが、社会的に性差別を助長する1つの要因になっているようだ。

そして2つ目は、声をあげることに慣れていて、声をあげたことによって成功体験をしている韓国に対して、声をあげることに慣れていない日本の違いである。セウォル号事件やキャンドル革命など、歴史的な出来事を経験したことによって、声をあげることに慣れている韓国であるため、今も声をあげることに抵抗がないようだ。しかし、そのような経験が少ない日本ではまだまだ抵抗を感じる女性が多く見られる。また、江南駅殺人事件をきっかけに当事者意識が強くなった韓国人女性たちは、性差別に関する書籍を手にとったり、デモに参加するなどして、少しでも現状を改善しようと自ら声を上げて動き出しているようだ。しかし、日本ではまだまだこのような動きは始まったばかりだ。それでも、#KuTooをきっかけに職場でヒールを強要しない会社が増えてきたのも現実である。

上記の理由で「日本と韓国で性差別とフェミニズムに対する意識の違いが生まれている」と考えられるだろう。しかし、日本も韓国も同じように性差別で苦しんでいる。そこで、韓国のようにその現状を受け入れて立ち向かうことで、少しずつでも変えていくことが可能になるのではないだろうか。だから私たち日本人も、もっとフェミニズムに関心を持って、男女平等のために声を上げていくことで、より良い未来を作り上げることができるのではないだろうか。

(3期生 宮本)

【vol.55】「出会いの装置」の可能性(まいまい)

私は、相席居酒屋やマッチングアプリに着目して、「男女の出会いの場と意味の変容」について卒論を書きました。なぜ相席居酒屋やマッチングアプリに着目したかと言うと、これらの新しい出会いの場や方法は、時代の流れに沿って出現したにもかかわらず、世間的には危ないもの・よくないものとして捉えられているということが気になったからです。実際に、私自身それらを利用したことがあるのですが、それを友人に話すと、とても心配されました。また、マッチングアプリで出会った人と付き合うということに対しても否定的な考えの人が多く、新しい出会いの場や方法は受け入れられにくいものであると感じました。

ではなぜ、相席居酒屋やマッチングアプリは危険で怖いものとして考えられているのでしょうか? それは、マスメディアによるイメージ操作が強く影響しているのです。2019年の大阪女児誘拐事件では、小6女児がTwitterで「家出したい」などと発信し、それを見た容疑者の男(当時35歳)が女児にダイレクトメッセージを送り犯行に及びました。この事件がテレビや新聞などのメディアで取り上げられるとき、Twitterではなく「SNS」と一括りにして考える人は少なくないでしょう。実際にTwitterというSNSが利用され、事件に発展していますが、SNSが悪いのではなく、リスク管理が十分にできていなかったことや、被害者側も加害者側も、誘拐事件に発展するような環境にいたこと自体が悪かったとも考えられるはずです。そして、もしもSNSがなかったとしても、別の方法で少女が何らかの事件に巻き込まれる可能性だって十分にあります。しかし、SNS自体が悪いものだといわんばかりに報道されていたように思われます。

また、2018年2月の大阪民泊バラバラ殺人事件は、Tinderというマッチングアプリがきっかけで起きた事件で、兵庫県に住む27歳の女性が、大阪で民泊していたアメリカ人に殺害され、頭部や胴体などをバラバラにされたというもので、非常に凶悪なものでしたが、利用されたのがマッチングアプリだったという理由で、すべてのマッチングアプリが危険であるように印象付けられた人も少なくないでしょう。

たしかに、マッチングアプリを利用する上で、危険なことも多少なりともありますが、それはマッチングアプリでなくとも起こり得る可能性のあるものであり、マッチングアプリでの出会いそのものがすべて危険であるわけではありません。しかし、メディアでは危険性のほとんどがマッチングアプリなどのSNSに潜んでいるように報道され、負のレッテルを貼られることでスティグマ化するため、われわれ情報の受け取り側は、SNSが原因であると決めつけ、嫌悪感や否定的な考えを持つようになってしまっているのではないでしょうか。

また、相席居酒屋の負のイメージについても、「夜・異性・酒」といったキーワードから連想されるものとして性的なイメージが付き纏うため、合コンでの出会いよりも、欲を満たすだけの場所やきっかけとして不純なものだと思われてしまうのでしょう。

しかし、相席居酒屋やマッチングアプリにもメリットはたくさんあります。たとえば、相席居酒屋では店側が客同士をランダムに相席させるため、普段は出会わないような、自分のコミュニティ外の人と出会うことができ、新たな世界が開けるかもしれません。恋愛だけでなく、趣味や話の合う人と出会えることだってあるでしょう。マッチングアプリを使用すれば、特定の場所に行く必要もなく、たくさんの人と出会えるチャンスが用意されています。また、自身のコミュニティ外の人と気軽に出会うことができるため、コミュニティ内での関係性に気を使うこともなく、なおかつ、あらかじめ趣味や好みの合う人もマッチングすることもできるのです。ここには書ききれませんが、相席居酒屋やマッチングアプリには他にもたくさんのメリットがあります。

これからの新しい出会いとして出現したこれらの出会いの場や方法は、本当に避けるべきものなのでしょうか? 多少のリスクはあるかもしれませんが、もっとメリットにも目をつけるべきではないでしょうか? これらの新しい出会いの装置を受け入れ、使いこなすことで、私たちは恋愛の先にあるであろうさらなる出会いを掴むことができるのではないでしょうか。いま一度、周囲の情報に踊らされることなく、出会いの装置の意義を考えてみてほしいと思います。

(3期生 まいまい)

【vol.54】日本の「自撮り文化」について印象的だったこと(エビフライ)

私は卒論で、Instagramの投稿分析やアンケート調査を通して、韓国と比較した日本の「自撮り文化」について研究をおこないました。なぜ韓国と比較したのかというと、SNOWやB612など、現在の自撮り文化興隆のきっかけともいえる自撮りアプリは、韓国のものが多く、日本の自撮り文化と密接に関わっているのではないかと考えたからです。

今回は、Instagramの投稿分析の中でも、特に印象的だったことを書きたいと思います。

この分析では、比較的自撮りの投稿が多い、女子高生を対象にしました。

その中でも、韓国の女子高生は一人の自撮りの投稿をたくさんしているにも関わらず、日本の女子高生は一人の自撮りを全くアップしていないことが印象的でした。

このことは、日韓の文化や国民性の違いによるものだと私は考えます。

韓国では現在、女性たちが声をあげる「フェミニズム運動」が盛んであったり、女性からみてもかっこいい女性である「ガールクラッシュ」なアイドルが高い人気を誇っているというように、自立した女性や自立を目指す女性が多いです。一方、日本では現在、複数人で撮影するプリクラや写真の投稿が非常に多いことから、自分が所属する集団でのつながりを重視し、友達と群れる女性が多いことが分かります。

また、韓国人は自由な自己主張を活発におこなっていますが、日本人は周りの空気を読んだ、調整的で微温的な主張をおこなっているといわれています(舘野晳,2003,『韓国式発想法』日本放送出版協会)。

このような文化や国民性の違いが、それぞれの自撮り文化にも表れているのではないでしょうか。

このように、日本で今流行っていることや日本の文化について、海外と比べてみると何か見えてくるものがあるかもしれません。

皆さんもぜひ一度、振り返って考えてみてください!!

(3期生 エビフライ)

【vol.53】失恋ソングからみる若者の恋愛スタイル(たなばた)

わたしは卒論で、1970年代から現代までの失恋ソングの歌詞を分析して、そこから若者の恋愛スタイルや失恋の原因などの変化を研究しました。

1970年代は「遠距離」が最大のハードルだったり、1990年代はバブル経済崩壊の反動で明るく前向きに別れをとらえる歌がリリースされたりと、時代によっていろんな特徴がありました。

では、現代の若者はどんな恋愛をしているのか?ある1つの曲から考察していきたいと思います。
2019年に大ヒットしたOfficial髭男dismの「Pretender」という曲をみなさんご存知ですか? 知らない人はYouTubeにMVが上がってるので、ぜひ聴いてみてください!

君とのラブストーリー
それは予想通り
いざ始まればひとり芝居だ
ずっとそばにいたって
結局ただの観客だ

この曲の歌い出しです。従来の恋愛とは、恋人たち、つまりは「2人」で作り上げていくものでした。しかし、この歌詞ではそうではありません。「ひとり芝居」や「ただの観客」というフレーズから、恋愛は自分自身のためのものになっているということが読み取れます。こういう表現が、現代の曲で多く見られました。このことから、恋愛が個人のものになっていることがわかります。恋愛は、自分を表現する一種のツールであり、ただの趣味になってしまっているのです。

さらに、「Pretender」ではこのように歌われています。

たったひとつ確かなことがあるとするのならば
「君は綺麗だ」

もし、この曲がリリースされたのが1970年だったら、「君は綺麗だ」ではなく「君のことが好きだ」だったはず。なぜ「好き」と言えないのか。答えは簡単です。現代の若者は、はっきりとフラれることを怖がり、曖昧な関係を好むからです。その事象として、セフレやハフレ、ソフレといったように、「友達以上恋人未満」な関係が多く存在します。「好き」と言ってしまったら、2人の関係は崩れてしまいます。相手が綺麗なことは事実として伝えても何も変わらないから…という理由で、曖昧で当たり障りのない言葉が選ばれているのです。

現代の若者にとって「恋愛」の意味は薄れつつあります。どこからが恋なのか、どこまでが恋なのか…スタートもゴールも曖昧になりつつあるこの現象は、まさに「愛の融解」といえます。

back numberの「僕は君のことが好きだけど君は僕を別に好きじゃないみたい」や、奥華子の「はなびら」という曲も、今どきの若者の恋愛事情を表象しているので、よかったら歌詞を意識して聴いてみてください!

(3期生 たなばた)

【vol.52】「ことば」から始まる(まえち)

先日、電車に乗っていた時に中吊り広告に目が行きました。最近流行りのマッチングアプリ「Pairs」の広告には、「じつは、食べるより作るのが好き」と話す男性と「じつは、作るより食べるが好き」と話す女性が楽しそうに映っていました。その隣には「ふたりのじつは!がふたりをつなげる。」という謳い文句が。

かつてインターネット上の出会いといえば、「出会い系サイト」を筆頭に、みだらで不潔なものだとされており、私が小学生の頃は「インターネットの知り合いと実際に会ってはいけない」と教育されましたが、電車のような公的機関でこのような広告が掲載されるようになったことは、時代の変化を感じさせます。

話は少し変わりますが、私は「ことばから読み解く女性像の変化 ー女性はどう語られ 何を語ってきたか」という卒論を書きました。昭和・平成の女性に関する新語・流行語を社会背景をふまえて分析し、女性と言葉の関係性の変化を追いました。まあ、ざっくり言うと女性史を新語・流行語の視点から考察して、女性は語られる存在から語る存在になったというのが結論になります。

そういった卒論を書いていたからか、「Pairs」の広告に目が行ったんですよね。たしかに広告には、女性が作り男性が食べるといった従来のジェンダー規範とは一線を画す台詞が、女性だけでなく男性にも使われています。これを見た時は、ここからも私の結論に結びつけることもできるな〜と考えていました。

しかし、私にはどこか引っかかるものがありました。それは強調されている「じつは」という冠詞です。「じつは」には、何となく普段は言いづらい、秘密にしているものを公開するというイメージがあり、それはこの広告において、どこか従来のジェンダー規範から外れている自分を気にしている、または普段は隠しているといったメッセージを含んでいると読み取れます。それをPairsでは隠さなくてもいいよということが言いたいのでしょうが、私には「普段はそんな自分を気にして、隠して生活しなければならない」ということが引っかかってしまいます。

LGBTといった言葉も普及した現代で、いまだ私たちは従来のジェンダー規範に縛られているのかと落胆した同時に、概念化することで従来のジェンダー規範にとらわれない世代にも差別意識を植え付けてしまうのでは、とも考えます。

私よりもっと若い子達は、多様性に重きを置かれた教育を受けてきたと思います。ランドセルも男子は黒、女子は赤といった暗黙の了解は存在せず、カラフルなものを背負う子たちは、以前よりも男女差を感じない環境で育ってきたと考えられます。もしかすると、かつてCMで使われた「ワタシつくるヒト、ボクたべるヒト」の文言がなぜ批判されたかも分からないのではないでしょうか。

そういった子たちが、広告を見ることで無意識のうちに従来のジェンダー規範にとらわれてしまうのではないでしょうか。少し言い過ぎかもしれませんが、個人の考え方の形成は育った環境による要因が大きい割合を占めます。毎日電車で通学し、その広告を眺めていれば、概念は無意識のうちに考え方に組み込まれる…ということも全く考えられないことではありません。

言葉にする、概念化するということは、あらゆるものからの解放の契機を与えていると同時に、従来の規範や固定観念に縛りつけています。言葉はその使い方によって、助けにもなり妨げにもなるのです。

人間は文字が作られる以前から、口承という形で言葉での情報伝達を行っていました。現代ではSNSを通じて、誰もが、誰とでも言葉を交わせる時代になりました。送り手の考えは、言葉を経由して受け手に伝わります。受け手がどう考えるかは、送り手の考え方がどうかよりも、送り手の言葉の使い方に大きく影響されます。言葉の使い方によっては送り手の考え方が受け手に伝わらないばかりか、誤った考えを受け手に伝えてしまい「誤解」を招いてしまいます。

そう考えると、私が「Pairs」の広告を見て「普段は本当の自分を隠して生きていかなければならない」というメッセージを受け取ったことは「誤解」だったのでしょうか。それとも送り手の意図に沿った考えだったのでしょうか。答えは分からないままですが、これを機に、皆さんも言葉の使い方について考えてみてはいかがでしょうか。

(3期生 まえち)

【vol.45】日本に対する日本人と外国人の評価はズレている(はせがわ)

私は、海外に留学し、4ヶ月間日本を離れて生活したことで、日本の素晴らしさに気づかされた。例えば、トイレの綺麗さ、お店の人など働いている人への信頼度の高さ、バスや電車の時間の正確さ、美味しいご飯の多さ、その他諸々の文化など、挙げればきりがない。一度日本を訪れことのある外国人の方なら共感する部分があると思う。

だが、私は留学する前までは、海外の文化ばかりに憧れていた。自身の母国、目の前にある日本の文化の素晴らしさに気づくこともなく、むしろ、素晴らしいなどと思うことがなかった。

だが、外国の方と話す際、日本から来たんだということを伝えると、「日本に行きたい」「日本人ていい人だよね」など、日本に対して好意的な人たちがたくさんいた。また、ハワイで生活している際、ハワイの人たちはハワイの文化を誇りに思い、楽しそうに生活していた。しかし、私たちが日常生活をしている際に、日本の文化は素晴らしいなと誇りに思いながら過ごしているかと言われると、そうであるとは答えづらいだろう。

日本人の自国にに対する評価は低めだが、外国人からの日本への評価は低くない。このようなことから、日本人の日本に対する評価と外国人の日本に対する評価の間にはギャップがあるのではないかという疑問を持った。

ここ数年の訪日外国人旅行者数はずっと右肩上がりであり、2018年には史上初めて3000万人を突破している。このことから多くの人が日本に興味を持ってくれているなど、何かしら日本に魅力を感じていると予想できる。

このように、目に見えて日本へ好意を持ってくれる人が増えているにも関わらず、日本人の自国への評価と外国人の日本への評価のズレはなぜ生じるのだろうか。卒論では、文化、経済など、さまざまな面から、どのようなズレがなぜ生じているのかということを考えていきたい。

(3期生 はせがわ)

【vol.44】なぜ「○○ロス」が生まれるのか(まえち)

少し前に嵐が2020年で活動を休止すると発表したことが大きな話題となり、多くのファンが涙を流してインタビューに答える姿をテレビで見かけました。私の知り合いにもSNSで嵐の活動休止を嘆く人が多く見受けられましたが、皆様の周りにも「嵐ロス」に陥る人たちは多かったのではないでしょうか?それほど嵐というグループは大きな存在であったことをあらためて感じさせられます。

先述に「嵐ロス」とありましたが、最近この「○○ロス」という言葉を非常によく耳にします。今回はこの「○○ロス」について少し考えてみたいと思います。

「○○ロス」は、人気の芸能人やアイドルが引退・結婚した時や好きだったドラマが放送終了した時の喪失感を表す言葉として用いられます。ロスの語源は英語の”loss”(損失、失うこと、無駄に費やすこと)からきており、「ペットロス症候群」という言葉から使われたとされています。「ペットロス症候群」とは、ペットが死亡したり行方不明になったりした時に飼い主が陥る重度の心的障害のことであり、現在よく使われる「○○ロス」よりも深刻な意味合いを含んでいます。

現在の「○○ロス」がよく使われるようになったのは、2013年のNHKドラマ「あまちゃん」の終了を嘆く「あまロス」からです。この言葉は2013年流行語大賞にノミネートされました。そこからたくさんの「○○ロス」が生まれましたが、ある記事で検索ヒット数を元にしたランキングを見つけました。

10位 ひよっこロス 約20万件
9位 だいすけロス 約26万件
8位 わろてんかロス 約26万件
7位 あまロス 約34万件
6位 SMAPロス 約38万件
5位 政次ロス 約42万件
4位 逃げ恥ロス 約52万件
3位 福山ロス 約70万件
2位 みくりロス 約120万件
1位 安室ロス 約240万件

こうして見るとNHKの朝ドラや大河ドラマに関するロス、また特に男性に対するロスの種類が多いことが分かりますが、上位2名の女性へのロスが圧倒的であることも見逃せません。これは2018年2月の記事ですが、2019年2月現在、上位3件をYahoo検索のヒット数で調べると、福山ロスが180万件、みくりロスが約250万件、安室ロスが約700万件、ちなみに嵐ロスは約590万件でした。

では、なぜこのような「○○ロス」という現象が起きるのでしょうか?元々このような現象は昔からありましたが、メディアが名前を付けて話題にしているというのも一理あるでしょう。しかし、それは「インスタント・コミュニティ」の大量生産と崩壊のサイクルの中で生まれているといった見方もできます。

最近、特にネット上では「フラッシュモブ」的なコミュニティが数多く生まれています。フラッシュモブ的なコミュニティとは、興味の共有から集まった人々が突発的に集団を形成し、その興味の対象がなくなると解散するといった一時的なコミュニティのことを指します。このコミュニティ形成を助長しているのが商品の「ネタ消費」です。ネタ消費は、商品がSNSで拡散させるための話題として提供されるため、流行り廃りのサイクルが短く、市場の回転率を早めます。そのため様々な商品が大量に生産され、話題がなくなれば次の商品に取って代わられるといった形態が確立してきました。一時の話題を共有したコミュニティも、その話題がなくなれば消滅してしまいます。この持続性のないコミュニティの中で生まれた喪失感は、人々に新たな話題を持つコミュニティの形成を促す材料となるのです。このフラッシュモブ的なコミュニティの崩壊時に生まれる喪失感が「○○ロス」という言葉によって概念化されているように感じられます。「○○ロス」が生まれる原因は、商品のネタ消費で生まれる一時的なコミュニティの生産と崩壊の中にあるのかもしれません。

しかし、現在の○○ロスとは一線を画すロスがあると言われています。それがSMAPロスです。

SMAPロスとは、ジャニーズアイドルSMAPの解散から生じたロスですが、なぜこれが他のロスとは一線を画すのかというと、第一にファンのロスの深刻さが挙げられます。SMAPのファンの年齢層は30~50歳代女性がその多くを占めており、その活動期間は約30年という長いものであります。ファン自身も結婚や育児など人生の節目を経験して、年齢を重ねていくSMAPのメンバーを受け入れながら、5人の存在が日常の一部と化していたとファンは語ります。一部のファンは応援が依存のレベルまで達していることもあり、彼女たちにとってSMAPは生きる糧であり、働くモチベーションそのものであったと言っても過言ではありません。しかし、突然訪れた解散は、彼女たちにとって人生や身体の一部を引きちぎられたのと同じようなものでした。代替品がないのでその破片も捨てられず、どうしようもできない状態に陥ってしまいました。記者会見もライブも発表されない解散に、自分なりのけじめをつけようとするファンも出てきました。「解散は事務所の意向でメンバーの意思ではない」「解散撤回もありうる」「一時の活動休止にすぎない」といった真偽のわからない情報が出回り、ファン達は解散を納得させうるための材料を探し、僅かな希望を胸に生きてきたのです。

約30年かけて作られてきたコミュニティの唐突な崩壊はとてつもなく大きな喪失感を生み出しました。嵐ロスもこれに近いものがあるのではないかと考えられますが、2020年までの猶予とライブ公演の増加など、ファンに対する配慮を含めると、また違った見方ができるのかもしれません。

さて、今回は「○○ロス」という概念とそれにまつわる現象について話しましたが、私は卒論で概念(言葉)と現象の関係について研究したいと考えています。現代は様々な概念(言葉)が生まれ続けていますが、それにともなう現象、社会の反応はどういったものなのか。また現象が概念(言葉)を生み出すのか、概念(言葉)の誕生が現象を加速化させるのか。まだざっくりとしていますが日常の一部である概念を切り取って、研究につなげていけたらと思っています。皆さんも普段使っている言葉を振り返って、その言葉と現象の関係について少し考えてみてはいかがでしょうか?

(3期生 まえち)

【vol.43】女子の自撮り文化(エビフライ)

近年、「自撮り」をする10代・20代の女子が増えているように感じる。

自撮りとは、「セルフィー」とも呼ばれ、撮影者が自分自身を被写体とした撮影方法である。 自撮りは、街中やSNS、YouTubeといった日常のあらゆるシーンで見られる。また、そのような自撮り文化を根拠づけるように、自撮りアプリやセルカ棒、魚眼レンズ、LEDライトなどの自撮りグッズが次々に普及している。

その一方で、女子たちからは「美容整形をしたい」という声もよく耳にする。実際に、2016年にテレビ番組「バイキング」(フジテレビ系)が発表した調査によると、美容整形に関して10代・20代女子の92%が「アリ」と回答した。また、自分自身が整形をすることについても「したい」と積極的な回答をする女子が約半数を占めた。

このように、女子たちの間で整形願望が強いということは、自身の見た目に自信がない女子が多いということではないだろうか?

そこで、私は「自分の見た目に自信がない女子の多さ」と「自撮りの流行」の矛盾やギャップに疑問を持った。なぜ見た目に自信がないにもかかわらず、自撮りをしたがるのだろうか? また、自撮りをすることと、写真を撮られることには、どのような違いがあるのだろうか? 例えば、90年代以降、女子たちの間ではプリクラが流行したが、プリクラと自撮りにはどのような共通点と相違点があるのだろうか?

卒業論文では、自撮りをひとつの現代文化として位置づけ、アンケート調査やインタビュー調査、SNSの投稿の分析などから、以上のような問いについて、より深く考察していきたい。

(3期生 エビフライ)

【vol.42】失恋ソングからみる「失恋」の変化(たなばた)

失恋した時に歌を聴いて、自分の境遇を重ね合わせたことはありませんか?

人にとって恋愛模様は人それぞれ。つまり、失恋の仕方もそれぞれです。

失恋ソングを遡れば、万葉集の和歌にまで至ります。どの時代の人々も失恋した時の行き場のない思いを歌という形にして残していたということです。

しかし、奈良時代と平成では社会情勢が全く違うため、恋愛スタイルも大きく異なります。したがって、「失恋」のあり方も全く違うのです。

社会学では、「恋愛」に関する研究はおこなわれてきましたが、「失恋」に着目した研究はあまりおこなわれていないのではないでしょうか。

そこで本研究では、失恋ソングから人々の失恋の歴史と変化を調査します。音楽は失恋をどのように表象してきたのでしょうか? また、同じ時代でも作詞者の性別によって失恋の捉え方は違うと考えています。ここから性別によって異なる失恋の意味や心情なども調査することで、人それぞれ違うとしても、時代や属性のなかで共通する部分もある失恋のパターンを分析していきたいと思っています。

(3期生 たなばた)

【vol.41】男女の出会いの変容(まいまい)

最近、相席居酒屋やマッチングアプリ、婚活(恋活)イベントなど、男女の出会いの手段が多様化しています。みなさんはこれらを利用したことはありますか?

私は実際に、学生コンや相席居酒屋に行ったり、マッチングアプリを利用したことがあります。また、マッチングアプリで出会った人とお付き合いする機会もありました。

しかし、このような話を友人にすると、心配されたり、否定的な意見を言われたりしました。それはなぜなのでしょうか。

需要が増加しているために、このようなサービスも増加しているはずです。それなのに、このようなサービスを利用することは、社会的には良いように見られず、他人にはなかなか言いにくい。そんなネガティブなイメージが付きまとっている気がします。

また、結婚式で披露する馴れ初めでも、マッチングアプリや合コンで知り合ったと素直に話す新郎新婦はどれほどいるのでしょうか?

このような疑問から、私は卒論のテーマとして「男女の出会い」に着目し、社会ではどのような論理でどのような出会い方が理想とされ、逆にどのような出会いが好ましくないとされてきたのか、そして、現代の若者は「出会い」をどのように捉え、どのような「出会い」を求めているのかを明らかにしていきたいと思います。

(3期生 まいまい)

【vol.31】私たちは強い女性にならなくてはならない(宮本真衣)

韓国に留学して、日本と韓国のさまざまな違いを目の当たりにした。その中の1つにフェミニズムに関する問題がある。ここ最近、韓国ではフェミニズムが大きな話題になっている。フェミニズムとは、女性に対する性差別の撤廃を目指す思想である。またそれは、女性主義ではなく男女平等を謳うものだ。しかし、意味を履き違えた男性たちが、女性が自分よりも有利に働くことを嫌い、反論する姿が見られる。フェミニズムは女性が男性の上に立つことを望む運動ではなく、男性と対等に扱われる存在になることを望んでいるということを理解しなければならない。女性の社会的地位が上がり、働く女性が増えた現代社会では男女平等を訴えることが当たり前になった。また、自立した女性が増え、結婚をするかどうかも選択するような時代になった。そんな世の中で、このような考えを持つ女性が増えたのは自然な現象であろう。しかし、韓国に留学して、日本が女性にとってどれだけ生き辛い国なのか理解することになった。その理由は次の通りだ。

まず、日本は性についてとても寛容だ。性犯罪の発生率がとても高く、それに対する法的処理も緩い。また、AV女優が芸能番組に出ていることはごく普通のことである。しかし、韓国をはじめ他の国の人々は、それを信じられない現象だと感じている。私たち日本人にとっては当たり前のことになってしまっているが、女性なら時に違和感を感じる場面があるだろう。性的な動画を見るときは年齢制限があるのに、どうしてコンビニの誰にでも見える場所に性的な雑誌が置いてあるのだろうか。このことについても、最近問題になっていた。しかし、オリンピックを控えた今、コンビニからそのような雑誌が撤去されるというのだ。その主な理由に、訪日外国人へのイメージ低下を防ぐためとあった。この理屈を可笑しいと感じるのは私だけではないだろう。イメージを低下させるものであると分かっているのに、どうして今まで売り続けて来たのか。またオリンピックがなければ今後も売り続けられていたのではないだろうか。どうして外国人の目は気にするのに、日本人である私たち女性や幼い子どもたちの目を気にすることができないのだろうか。こうした疑問がどんどん生まれてきた。

また、YouTubeで「韓国人女性と日本人女性の違い」という動画を見た。その動画の中で日本人女性はおしとやかで男性を立ててくれるといったイメージが語られていた。私も昔はこれが日本人の良さであると思っていた。しかし、これこそまさに亭主関白、男性主義といったフェミニズムとは全く異なる考えに基づいたものであった。コメント欄では、韓国人女性たちがこう話していた。「日本人女性はかわいそう。女性人権の低い代表的な国に産まれて」「女だからって一人飯するのにも周りの目を見ないといけない」「成人になっても子供のように愛嬌を振舞いながら、日本男性の理想像に合わせて生きている姿に胸が痛い」。一見嫌味に見えるかもしれない。しかし、これは私たち日本人女性が気づいていない、または気づいていても変えることのできない事実なのだ。亭主関白といった日本の家庭ならではの考え、おしとやかで男性を立ててくれるといったイメージは全て女性の人権が低いことをそのまま表しているのであった。また、日本のアイドルは日本人が求める市場に合わせ、かわいくて幼い姿やロリを重視したグループが多い。しかし、韓国では音楽業界でも強い女性をイメージした曲が出されることが増えた。男に媚びる女性像ではなく、1人でも生きていける強い女性を描いている。それゆえ、女性アイドルであるにも関わらず、たくさんの女性から支持されている。

私たち日本人女性は、知らず知らずのうちにセクハラを受けていることが多い。しかし気づいていない、または強く出ることができず笑って受け流す場合が多い。実際に私も不快な発言があっても、相手に向かって注意することはなく心の中に留めていた。それが当たり前だと思っていたのだ。また日本では、それが本来の女性の美しい在り方であるとも言われてる。反論すると男性たちに袋叩きにされるのだ。しかし、韓国の女性たちはそうではなかった。不快な発言があれば、直接言い返す人も多かった。その一例として、セクハラ発言を繰り返した教授に一人の女子学生が立ち上がり抗議した結果、他の学生も加わり、その教授の教室の扉に大量のポストイットを貼るといった”me too”運動を起こすことになった。結果、教授を退職にまで追い込んだ。このような韓国人の情熱的で行動力のある性格は、時には短所になるが、あまりにも消極的である日本人は見習わなければならない一面でもあるだろう。

このように、韓国に来て女性の在り方についてたくさんの衝撃を受けた。韓国の女性の在り方が全て正しいとは言えないが、日本人女性はもっと強くなっていいと思う。しかし、1人の主張で成し遂げられるような問題ではない。女性全員が一丸となって変わっていかなければならないのだ。ただ我慢して、ストレスを溜めて生きる必要はない。嫌なら嫌と言える勇気を持つことが、とても大切な一歩になるだろう。そして、そういった変化を促す社会を築くことが最も大切な土台となるだろう。

(3期生 宮本真衣)

【vol.30】はせがわのハワイ滞在記

私は現在ハワイに留学中である。私はハワイで生活する中で、日本の文化の素晴らしさや、逆に日本にはない海外の素晴らしい点など、様々なことに気づかされる機会がある。

例えば、日本人は勤勉と言われることがあり、「社畜」というような言葉もある。だが、それゆえに日本人の繊細で細やかなおもてなしが可能になるのではないかと思う。ハワイの方は友好的でとても話しやすいという印象を受けるが、やはり100%の信頼を持つことは難しい。以前、ある頼みごとをした際に、何も告げられず他のことをしていて困ったということがあった。このような面ではしばしば困ってしまう時もあるが、あまり日本人のようにストレスフルに働いていたり生活をしているようには見えない。そしてエレベーターに乗る際に“Hello” と言ったり、レジをする際に”How are you?” と聞かれ、少し会話をしたり、目があった場合は笑いかけるなど、オープンマインドな印象を受けた。たしかに全員がそういうわけではないが、そのような人が多い。このような点は日本人の引っ込み思案というか社交的ではない点に相反して見習う点だと思う。

しかし私が今回、最も感じたのは、イメージと現実のギャップである。多くの人がハワイといえば、海が綺麗なリゾート地であり、一度は行ってみたいと思う場所ではないだろうか。しかし、たしかにハワイはリゾートに違いはないが、ワイキキや公園、バス停などには多くのホームレスの方が生活しており、ゴミを漁り、物乞いをしている姿をたくさん見かける。ハワイは常夏であるため凍死することがないと、アメリカ本土からホームレスがやってきたり、低賃金と全米でもトップの生活費の高さゆえにホームレスが急増していることが問題となっている。また、つい先日まで約2ヶ月間の間、ホテルの従業員が低賃金を訴え、ストライキを行なっていた。その間、そのホテルのレストランは閉店し、ルームサービスやハウスキーピングなども行われなかったそうだ。

このように多くの人がハワイに対して持っている「綺麗事」なイメージの裏には、リゾートとはかけ離れた現実がある。勝手なイメージによって本質を遠ざけてしまっている。ハワイへは旅行に行くだけだし、本質なんて関係ないと思う方もいるかもしれないが、ハワイに限らず自分の持っているイメージが現実とはかけ離れており、本質を理解できていないということは放っておいてもいいことだろうか。

自身が持っている”盛られた” “映えた”勝手なイメージ、もしくは、それらとは反対のイメージを持っていて、実際に見てみると全く違っていたということを多くの人が経験したことがあると思う。話してみると意外と気が合うし良い子だったということや、良い子だと思っていたら裏で悪口を言っているということや、思っていたのと違うなんてことはざらにある。私たちは勝手にイメージを持ち、過度に期待したり蔑んだりする。頭の中で作り上げられた他人やものに対する勝手なイメージを、私たちは現実と比較し、落胆したり、喜んだりする。話したこともない、体験したこともないことに対して勝手なイメージをはめ込み判断することは、相手側からするといい迷惑であり、時に私たちは損をすることもある。

しかし、私たちは勝手なイメージをすることをやめることはできないのではないだろうか。わざわざそのイメージが真実かフェイクなのかを確かめることなんて面倒だし、違おうが違わなかろうが当事者にはどうでもいいことだろう。だが、勝手なイメージを持ち本質を理解できていないことは、確実に私たちにはマイナスであることは確かだと思う。物事を判断する際に本質を理解していなければ、軽率な判断をしてしまうことは目に見えている。自身が勝手なイメージを持つことは良いが、他人が自身に対して勝手なイメージを持つことは許せないというようなこともあるだろう。

現在も多くの人が誰かや何かに対して良いイメージまたは悪いイメージをもって日々を過ごしている。真実のイメージを作ることもフェイクのイメージを作ることも容易いことである。そして、誰かをそのイメージにはめ込んでいる自身もまた、誰かのイメージにはめ込まれている。イメージにあふれている社会、本質を見抜けない、見ようとしない現代をどのように思いますか。

(3期生 はせがわ)

【vol.29】アイドルに必要なものは何か?(韓国オタク)

あなたはアイドルに必要なものは何だと思いますか?

いま、日本のアイドルに必要とされているのは「可愛さ」「愛嬌」「個性」だと言われています。日本のアイドルは主に未完成型とされ、アイドルが成長していく過程をファンと共にすることが醍醐味とされます。日本のアイドルファンは彼女たちの未熟な部分も受け入れ、またそのような部分も「個性」として売りにしています。また実力よりも、ステージやイベントでの対応によって人気を得ていくのです。

それに対して、韓国アイドルは主に完成型とされており、デビューするまでに練習生として数年間は事務所で練習を繰り返します。月末評価で練習の成果が発揮できなければ、デビューすることもできず、完全実力主義とされています。また韓国アイドル達に求められるのは歌やダンスの実力だけではありません。

例えば、「体型管理」もその1つです。まず韓国アイドルのほとんどは身長が高く、痩せ型であるのはみなさんご存知だと思います。しかし、それは彼女たちの努力によって維持されていることを忘れてはいけません。彼女たちの食事は、忙しいスケジュールにも関わらず、豆乳や野菜だけで済まされています。もし、少しでも太ればSNSで比較写真をあげられ、叩かれることが多々あります。よって彼女たちが受けるストレスは、私達には計り知れないものだと感じます。

また、韓国アイドルは世界進出を前提としてデビューするので、「語学」の面でもひたむきな努力をしています。特に近頃は、韓国語ができる外国人メンバーがいるチームが多く、TWICEもその代表的な例と言えるでしょう。韓国以外の国でデビューした時に、翻訳なしで話してくれる姿にファン達はとても心を打たれます。

最後に、韓国アイドルとして逃れられないのが「外見至上主義」です。韓国アイドルは可愛い、綺麗なのは当然。そうでなければ、整形します。日本人の私たちからは理解できないかもしれませんが、これが当たり前の世界なのです。

だからといって、日本のアイドルと韓国のアイドルのどちらが優れている/劣っているといった話をしたいのではありません。両方に違った魅力があるのです。

最近「PRODUCE 48」という、日本のアイドルと韓国アイドルが一緒に戦いながら1つのチームを作るサバイバル番組が放送されました。そこで日本語と韓国語両方の歌詞で作られた歌を歌うミッションを出されたのですが、やる前から諦めてしまう韓国人練習生が多い中、実力的には圧倒的に劣る日本人アイドルたちは、そこで諦めるのではなく最後まで歌えるように必死に練習する姿が映し出されていました。こういったひたむきな姿を見て、日本のアイドルの良さも実感しました。

それでも、やはり私は韓国アイドルが好きです。アイドルに完璧主義を望む私にとって、彼女達は憧れの存在であり、刺激を与えてくれる、夢を見させてくれるような存在なのです。彼女達のひたむきな努力から作り出された外見は輝いており、そんな人形のような子達が繰り広げる圧倒的な舞台からは目が離せません。それは全て彼女達の絶え間ない努力から作り出されたものだと知った時、あなたも応援せざるをえなくなることでしょう。もし少しでも韓国アイドルについて気になった方は、「PRODUCE 101」というオーディション番組を見てみてください。もう何も手につかない程、応援したくなる子が見つかると思います。

(3期生 韓国オタク)

【vol.28】あなたは「さずかり婚」に賛成ですか?反対ですか?(まえち)

「さずかり婚」ではなく、「できちゃった結婚(デキ婚)」と聞くと良くない印象を受けるので、反対派の人が多いのではないでしょうか?

私も「デキ婚=学生同士の過ち」という印象が強く、さずかり婚には否定的な考えを持っていました。現代では、学生同士のさずかり婚の多くは「過ち」だと認識されます。私の知人にさずかり婚で学生を辞めざるを得なくなり、その後、離婚してシングルマザーとなった子がいます。知人には申し訳ないですが、学生という経済力がない時期に子どもを産むことは少し無責任のような気がします。また、「望まない妊娠」の場合は年齢を問わず結婚に至らないだけでなく、中絶によって女性の身体を傷つけることにもなりかねません。また結婚したとしても早期離婚が多いように感じます。子どもを産むのは女性です。すなわち女性は子どもからは逃げられません。女性が望まない妊娠をパートナーに告げ、それを知った途端にパートナーに捨てられた、逃げられたといった話を耳にすることがあります。そうした事実から、さずかり婚にはマイナスイメージが強いのかもしれません。

こういった望まない妊娠を事前に防ぐために、学生のうちから機能的なだけでなく、倫理観に重きを置いた性教育を行うべきだと思います。男性は妊娠しない分、子供を授かるということについて女性よりも軽視しがちです。その対策として、望まない妊娠でパートナーを捨てた、パートナーから逃げた場合に重い罰を科すなどの対策をとるべきです。しかし、いくら避妊していても、望まない妊娠を100%防ぐことはできません。

ここまでさずかり婚の「過ち」の側面にスポットを当ててきましたが、ここで見方を変えてみましょう。事実婚のカップルにとって、さずかり婚は籍を入れる良い機会になり、不妊症に悩む夫婦にとっては子どもを授かることはとても羨ましいものです。ここ近年の出生数全体の約4分の1がさずかり婚によるものだというデータもあります。女性の社会進出により、未婚化、晩婚化が進み、少子化という大きな社会問題を抱えている現代にとって、さずかり婚はそれぞれ個人にあったライフスタイルを受容しながら、少子化問題を解決していくひとつの鍵になってくるのではないかと感じます。

しかし、事実婚は法律婚より下位にあるといった考えが現代には根強くあります。また、独身者は一人前として認められず、肩身の狭い思いをするだけでなく、世間からは結婚を半ば強制的に押し付けられることもあります。このような固定観念が「結婚→子作り」というさらなる固定観念につながっています。さずかり婚を受容していくならば、まずはこういった世間の固定観念を壊していくところから始めていくべきです。

ここまで書いてきて、「さずかり婚」は事例によって善し悪しが変化するもので、他人が一概に正しいかどうかは決められない、むしろその善し悪しは表裏一体のように感じるようになりました。今の私には、さずかり婚に賛成か反対か、白黒つけることは難しいです。

しかし確実に言えるのは、さずかり婚を肯定するか、否定するかは世間の声にかかっているということです。

そこで皆さんにもう一度質問です。

あなたは「さずかり婚」に賛成ですか?反対ですか?

(3期生 まえち)