【vol.65】なぜ人は名前をつけるのか(ぽん吉)

はじめましてぽん吉です。いきなりですが、私は人の名前を覚えるのが大の苦手です。人は友達を作るためにまず、名前を聞きます。そしてその後、再会した際には、名前を覚えていることによって、より絆が深まることが多々あるかと思います。交友関係に留まらず、現代社会で生きていくなかで、目上の人の名前を覚えていないということは失礼に値し、対人関係において、「名前を覚えておく=当たり前、マナー」のような風潮すらあります。

ですが、なぜ人には名前が与えられるのでしょうか。さらにいえば、なぜ人は名前をつけるのでしょうか。名前とはそれほどまでに重要なものなのでしょうか。

たとえば、ここではペットの例を挙げようと思います。私は小学生の頃、人生で初めてハムスターを飼いました。多くのハムスターのなかから直感的にこの子だ!と思い、たしか1分ほどで決めたと思います。私は家に帰宅し、その子に「ラブ」という名前(性別はメスでした)をつけました。ですが、私は当時、ラブちゃんを飼う前から、出目金を一匹飼っていましたが、その子には名前をつけていませんでした。このブログを書くまではなにも違和感を覚えませんでしたが、同じペットなのに、なぜ私はハムスターには名前をつけ、出目金には名前をつけなかったのでしょうか。

この疑問に対する私の仮説として考えたのは、名前をつける尺度は自分がその対象に関与する程度や愛着によるのではないかということです。たとえば、先の例で挙げたラブちゃんは、名前をつける前はただのハムスター、もっといえば、ただのネズミです。このネズミに対して、不衛生な場所などで見かけるネズミは、同じネズミでも野良猫や野良犬と同じように自分が関与する程度は薄く、愛着もありません。しかし、ペットとして飼ったネズミ、ハムスターにおいては、自分が面倒を見て、エサをやり、小屋を掃除するというように、自分が関与する程度が濃く、愛着が湧きます。おそらく、当時の私にとって、出目金に名前をつけなかったのは、ペットとしては飼ってはいましたが、私自身はなにも面倒を見ておらず、主に母親が面倒をみており、私にとってのペットではなく、母親にとってのペットだったのです。いま思い返すと、その出目金に母親は名前をつけていました。たしか「プリキュア」だった気がします(理由はわかりませんが、プリキュアのキャラクターの目が大きいから?笑)。

このような仮説をもとにすると、多くの場面で同じことが言えます。たとえば、牛や豚などの家畜に対しては、個体の識別(牛は牛、豚は豚というように)はされていますが、名前による識別はされていません。逆に生き物でないぬいぐるみなどに対しては、名前をつけることが多々あります。この両者においても、名前を授ける側である人間が、その対象に対して、いかに関与し、愛着をもっているかが分かれ目なのではないでしょうか。前者に関しては、出荷まで飼育するという面では、濃く関与はしていますが、愛着という面では、感情が入りすぎると、業務に支障をきたすため、名前はつけません。後者においては、ぬいぐるみに名前をつけるという行為は、心理学的に「自分だけの存在にする」という効果があり、自分だけのぬいぐるみであれば、一緒にいて安心し、心の許せる存在にもなり、愛着が湧くことが考えられます。こう考えると、人が人に名前をつけることにも合点がいきます。我々は必ず、親から生まれ、名前を授かります。親は子に最も関与し、愛着があるが故に、一種の仲間意識のもと、名前をつけるのではないでしょうか。

このように、我々が当たり前のように思っている「名前」という概念に関して、さらに深掘りをしていくと、より興味深い発見ができそうです。冒頭にも述べましたが、私は人の名前を覚えるのが大の苦手です。それだけではなく、苦労して一度覚えても、少し会わない期間ができると、またリセットされてしまいます。ですが、私は尾田栄一郎さんの漫画『ワンピース』に出てくるキャラクターの名前ならほとんど覚えている自信があります。おそらく私は、他人にあまり興味を持っていないのだと思います。興味を持ち、関心があれば、ワンピースのようにマンガを集めて、読んだりして、その中で愛着が湧き、自然と名前を覚えるはずです。しかし、今までに自分が出会ってきた過去の人の中で、自分がその人に深く関与し、愛着を持った人と言われて思いつく人は、片手に収まるくらいですが、その人たちの名前や見た目は今になってもはっきりと覚えています。ある意味、私は多くの人に対して興味、関心を持っていないということにおいて、失礼な人間なのかもしれません。

ですが、よくよく考えてみると、これは失礼なことなどではなく、いたって自然なことなのではないでしょうか。みなさんもこのような経験をしたことはありませんか。久しぶりに会って名前を思い出せない、1度会ったことはあるけど、覚えていないなど、このようなことは多々あることかと思います。私の友人に乃木坂46の熱烈なファンがいますが、彼はメンバー全員の名字のみならず、名前まで記憶しています。これは、得意な分野、趣味の分野が対象であるため、自然に頭の中で思い出し、繰り返されるため、記憶に定着していると考えられます。しかし、彼は塾のアルバイトで受け持つ生徒の顔と名前を覚えられないと悩んでいました。これは得意な分野、趣味の分野とは違い、ほとんど日常的に思い出されることがない対象であるため、記憶に定着しにくくて当たり前です。自分が熱狂している乃木坂46への関与・愛着の程度と、一時的なつながりに過ぎない生徒への関与・愛着の程度では大きな乖離があります。また、女優の忽那汐里さんとれいわ新撰組代表の山本太郎さんでは、大多数の人が山本太郎さんの方が覚えやすいと思います。このように、覚えやすい名前と覚えにくい名前があることもまた事実です。

では、名前を覚える側、覚えられる側の双方はどのような工夫をするべきなのでしょうか。まず、名前を覚える側の努力としては、名前から覚えることができないのであれば、あだ名をつけてみてはどうでしょうか。これは私が実践していることなのですが、私もアルバイトで塾の講師をしています。例年であれば、中高合わせて1学年ずつという配分だったので、比較的生徒の名前は覚えやすかったです(それでも最低1ヶ月ほどはかかりましたが、、、)。しかし、今年は中学生2学年と高校生3学年の計5グループの学年を受け持っており、50人ほどの生徒の顔と名前を覚えなければならなくなりました。はじめのうちは、顔の認識でいうとスムーズにいったのですが、一向に顔と名前の一致がせず、そもそも名前も座席表がないとわからない状態でした。そこで、私は「もうこれは覚えられそうにない、、、。」と感じたため、まずはあだ名で呼ぶこととしました。あだ名は本人たちが学校で呼ばれている呼称や、こちらが勝手に名付けたものなどさまざまですが、なぜか私はあだ名であれば、1週間ほどで全員の顔と名前が一致しました。これもまた、相手に対する関与や愛着が関連しているのではないかと私は考えています。あだ名で呼び合うという関係性は、ある一定の距離感、立場などが確立されないと成立しませんが、一方でそれだけ親しく、相手との距離を縮められる効果もあります。すると、自然と相手に対する関与や愛着の程度も増していき、記憶に残りやすい。そして、そのあだ名から名前が連想され結びつく。私の頭の中の構造はこのようになっています。ゆえに、私はあだ名であれば、このように短期間で生徒を認識することができ、徐々にあだ名から名前へと呼び方を変えていき、今では約50人の生徒の顔と名前が一致しています。

次に、名前を覚えられる側の努力としては、強い印象を残すということが最善策なのではないかと考えます。たとえば、現在の私のゼミの担当の松岡先生は、「どこにそんな服が売られているのだろう。」「10m先にいても認識ができるな。」というような奇抜で、アーティスティックな服装をしています。そのため、その印象の強さゆえ、第1回目のゼミの時点で完璧に顔と名前が一致しました。これは、私は何の努力もしておらず、ひとえに印象が強すぎたため、すぐに名前を覚えることができたのだろうと考えています。

このように、名前を覚える、ないしは、名前を覚えてもらうという目的に対しては、双方の努力が必要不可欠であるように感じます。しかし、昨今では、電子媒体が急速に発達しており、実際に名前を覚えていなくても、インターネットやクラウド上に名前が残っているため、上記のような双方の努力が希薄化しつつあります。これは、私の仮説からみると、相手への関与や愛着もまた希薄化する恐れがあります。ただ、この恐れは一部現実化しつつあります。国民1人1人を名前によって識別するのではなく、番号により管理・把握するマイナンバー制度も、国民の諸々の管理や手続きという面では利便性があり、賛成ではありますが、人を番号で管理するということに関しては、どこか無機質で、血の通っていないように感じ、囚人のような感覚すらあります。コミュニティの希薄化、独居老人、孤独死、青少年の自殺、、、。現代社会が抱える多くの問題は他者とのつながり、対人関係が関連しています。このような大きな問題をすぐに解決できるような得策を考案することは容易なことではありませんが、名前という対象はこのような問題に歯止めをかけるキーワードになりはしないでしょうか。名前をつける側はつけられる側に多大な関与・愛着を持っており、その名前を覚える、覚えてもらうという行動にも、双方が歩み寄り、深く関与し、愛着を持ってこそ成り立つものだと私は考えています。

最後はややスケールの大きな内容にはなってしまいましたが、名前とは、人と人とを鎖状に関連づける、我々の最も身近に存在する、対人関係を構成する根幹であり、他者との関係性を脆弱なものではなく、強固なものにするために不可欠な要素であると言えるのではないでしょうか。

(5期生 ぽん吉)